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研究報告
天野恵:騎士道と火器(10)[3/4]
ともあれ、話をおとなしく1503年4月28日に戻すと、スペイン軍がチェリニョーラのすぐ近くまで到達したときには、午後もかなり遅い時刻になっていた。そこで、陣地の設営を任された上記二人のコロンナは、周囲の土地に比べて幾分高台になっている葡萄畑を選んで、その周囲にもともと掘ってあった溝をもっと深くするよう兵隊に命じた。要するに防御に役立つような掘割を作り、掘り出した土はその内側に盛り上げて土塁のような形にしたわけである。チェリニョーラ城内のフランス軍守備隊は大小の大砲を撃ってスペイン軍のこうした仕事の邪魔をしようとしたが、効果は挙がらなかった。まァ、誰だって敵の大砲の弾が簡単に届くような場所に陣地を構えようとするはずがないから、これは当然だろう。
問題はそれよりも、ヌムール公率いるフランス軍の本隊が間に合わなかったことである。前にも言ったように、軍隊というのは行軍中に襲われると非常に弱い。だから、本当はスペイン軍がチェリニョーラに向かって移動している間に側面から攻撃を仕掛けることができれば、フランス軍にとってはそれがベストだった。地形からしてもフランス勢が最も得意とする戦術がそのまま使えたはずで、ろくに樹木も生えていないプッリア地方の平野を昼日中に行軍するスペイン軍は、フランス騎士団に突かれればひとたまりもなかったものと思われる。一応はファブリツィオ・コロンナが軽騎兵400騎を率いて側面の護衛を担当していたらしいが、そんなものはどうせ無いよりマシという程度のものだったに相違ない。
フランス軍としては、たとえ相手が行軍中を襲うのが無理だったとしても、せめて敵が移動の直後でまだ疲れていて、迎撃態勢も整っていないときか、あるいはコロンナたちが指揮して葡萄畑に陣地を設けるべく土木作業している間に到着できればまだしもだった。ところが、彼らがチェリニョーラに着いた時には、相手はもはや陣地を築いてしまっており、しかも日はすでに傾きかけていたのである。これでは何としても手遅れであった。そこで、ヌムール公は合戦を翌日に持ち越そうとした。ある意味、当然とも言える措置である。
ところが、その場で開かれた作戦会議では、この案に対して反対意見が続出した。即座に攻撃を掛けるべきだとする意見が圧倒的に強かったのである。あるいは、以前、バルレッタに篭城して野戦を交えようとしないコンサルヴォの巧みな作戦に引っかかって苦い思いをさせられたフランス貴族たちにしてみれば、敵が城外にいる今こそ、自分たちが得意とする野戦を仕掛ける絶好のチャンスであるように思われて、功を焦ったのかもしれない。これに加えて、スイス歩兵の指揮官がやはり翌日の合戦に強く反対した。攻撃を引き延ばされたのでは、兵士たちのやる気がメゲてしまうと言うのである。近代的な軍隊ならば上官の命令には絶対服従だからこんなことは起きようがないのだろうけれど、これまた《愛国心》やら《○○人意識》やらと同じで、ルネサンス期というのは、ホイジンガの言うところの中世的・封建的な行動様式と近代人に近い意識とが複雑に混じり合っていた時代だったのである。
小生には、まさにこれとそっくりの状況を描いたマンゾーニの悲劇『カルマニョーラ伯』の一場面が思い出される。…「これはまた新奇ないくさのやり方を聞くことになったものかな。指揮官が兵隊どもに命令するのではなく、指揮官が兵隊どもの意向に従うとは!」
まァ、このあたり、現代の企業社会においても中間管理職というのはともすればこれに似た立場に置かれるものなのかもしれない。近代の軍事史家の中には、この時のフランス軍の指揮系統の乱れを問題視する人がいるようであるが、実際には当時の軍隊のあり方に由来する問題であって、ヌムール公ひとりの指導力不足に帰せられるような単純な問題ではなかったのだろうと小生は思う。早い話が、スペイン軍だって、この後、チェリニョーラで勝ったものの、そのまま進撃してナポリへ攻め上ろうとするコンサルヴォに対して、歩兵部隊(しかも、スペイン人の、である)が給料の早期支払いと、フランス軍が退却した後の町々で略奪を行なう許可を求めてストライキを起こしたために、思うように戦争を進めることができなかった。