おじいさんが語る「月の輪田と清水戸」について                   表紙に飛ぶ        

 この地におられた豊受大神(とようけのおおかみ)が最初にこの「月の輪田」で稲作を始められ、又伊勢神宮に奉納したと伝わっとる!
この三日月の形をした田を「月の輪田」(つきのわでん)「三日月田」(みかずきでん)とも「丹後古事記」には書いてあるそうじゃ。
その後、豊受大神は伊勢神宮の外宮に遷宮したんじゃ!なんでかな〜〜歴史の先生にきいてみよ〜〜な!知ってるかな!!

(このときの雄略天皇の時代に(五世紀後半〜)が、おいしいお米・お酒作り・機織りが上手だった、この地の豊受の大神を呼び寄せたんだ!
雄略天皇は暴君で「大悪天皇とも言われていた」言うことをきかなかったらすぐに殺した人だったらしいで!
そして、雄略天皇はこの地を治めとったワカタケル大王と古事記にも書いてある)

 清水戸は、この「月の輪田」に植える籾だねを浸した井戸なんじゃわ!昔は、コンコンと水がわきでとったらしいがな!。
だけどな、近年この横に防火水槽をつくったんよ!そしたら、水みちが遮断されたんかな?コンコンがチョロチョロになったんよ。
開発もええけど守るべきもんは守らんとな!!

 昔の写真を見るとホントに三日月の形をしとるな!ちいぃちゃな田んぼだけどな!
今風で言うと、七平方メートルあるんじゃがな!そして、田植えは女性禁制で肥料もそこで取れた稲わらをつかっとった神聖な場所だそうじゃな!
 収穫された一斗三升のお米は伊勢神宮の外宮に御初穂として献上しとる!!伊勢神宮の書物にも、このことが記されているそうじゃな!

今でもこの田んぼで作った古代米を、地元の元伊勢比沼麻奈為神社におさめとるんよ!
この比沼真名為神社は、伊勢神宮と同じ神明造りなんじゃわ!
そして、この地域の人が亡くなったら神葬祭を執り行っておる。

 なんで三日月の形をしとるんかのぉ!?

 諸説はいろいろなんじゃが、伊勢外宮の月夜見神(つきよみのみや)を崇める為に、月の形をした田で稲作、奉納したという「月信仰」が当時日本各地にあったと!そんなんで、日本各地にも残っているということじゃが、伝承されている三日月の形で残っているこの丹後の地だけだと!
 
 それと、天照大神がこの地、高天原(たかまがはら)におった月讀命(つきよみのみこと)に、保食(宇気持)(うけもち)の神がおるので見てこいといった。
天から降りたところが今の丹後久次地区の昨石嶽(くいしだけ)で、中腹に横たわっている大石(應石おおみあえいし)は月讀神が受気持神を刀で斬り殺した死骸であると伝わっているんだョ。

 天照大神と月讀神はつながとるんよ!中味の話は長いんで省略しますwa!

 宇気持の神が機織り・お酒・稲作等食物を真名井ガ原で初めて稲作をしたんが始まりだと!保食の神と言われる由縁じゃわ!
それにしても、昔 昔の話で言い伝わっとる。そしてこの地は、機織り、酒作り、お米作りで今でも継承しとる!

 神様に食物を奉納する田畑は三日月の形だったんだな!日本各地にも三日月の話はのこっとるとのこと。それと、三日月は男を意味しとるらしいで。
そんなんで、昔の話で、けがれている女の人(当時)は、この田んぼに入ることができなんだって!

 当時の生活は質素なもので、見上げれば太陽さん、お月さんとお星さま。西洋では、お星さまには全部名前がついとるし、逸話もあるし!
日本でもかぐや姫・七夕などの民話がたくさん残っている身近な存在だったんだな〜!
 
 かぐや姫の物語は、七夕伝説の話によく似とるんじゃ!どこが似とるんか考えてみような!

物語「竹取物語」のかぐや姫のモデルは、11代天皇で垂仁天皇の嫁さん。なんと丹後の血をひく迦具夜比賣命(カグヤヒメノミコト)
だったらしいで〜!
 
 カグヤヒメノミコトは竹野比売(タカノヒメ)(丹後町竹野神社に祀られている)の三代孫にあたるらしい。
そして、竹野姫(タカノヒメ)は9代開花天皇の后(きさき)であるんよ!器量が悪かったんで、京丹後市丹後町の高野(高野神社)に帰らされたらしい。そのところは古代よりの地であり、古墳があるところなんじゃ!!今でも貝殻がいっぱいある丘になっとる。

 大昔でも離婚ってあったんやなあ〜〜。

 丹後はなんも無いところだと教えられとったが、大和朝廷とも密接な地域やったんやな〜〜!
みんなも、丹後は素晴らしい所だと自慢しょうな!みんなのDNAにもかぐや姫の血が流れとるかもしれんな!。
 
 月の輪田は、昔はこの位置より東の方にあったが、耕地整理でのぉ今の所に移したと!今の場所は少し東になったんだな!
そして、この場所は二本松と言う地名なんじゃwa!  写真でも二本の松が写っとるじゃろが!あれ〜一本かな?表紙の写真は昭和3年撮影とか、この写真は、当時のままじゃと思うがのぉ昔の話、この付近に二本松稲荷と柿の木地蔵があったと長老は言っとる!
 前の道も牛が通る位で狭いしなぁ!昔の田舎の田んぼ道じゃな!表紙の写真をみて〜〜な!わしも知らん、いつ頃の地図じゃ?!
長老はこの頃を(耕地整理の前)懐かしそうに語ってくれたんじゃ!

 「小さい頃、お堂も地蔵さんもあってな!えぇ遊び場所で、祭りにはここで踊ったり、こもったと!」

 又、この近くには「清水戸」(せいすいど)と言ってな!水が湧き出た井戸があってな、籾(モミ)を浸して苗を作ったところがあるだで!
 苗を作った所ちゅうんで、この地区を「苗代」、わしらぁは「なわしろ」とよんどる
この苗代地区には、昔の道が今なお使われているんじゃ。今で言う国道が通っとたんよ!。

 こんな句も残っとるど

      「いざなぎや 種をひたする清水戸 五穀初まる これぞ苗代」

 今でもこの貴重な「月の輪田」と一緒に保存しておる。一度見に来てくれ! 今の二箇区苗代と言う所じゃ!

じいさんも学者やにゃ〜〜し、歴史のことはよう解らんよって、話半分できいてくれや〜!
疑問に思ったことは自分で調べてくれ〜〜〜!

 次は「比沼麻奈為神社」に続く
 
月の輪田 - Wikipedia