京丹後市峰山町二箇(にか)![]() いつ頃かはわからないが、当初は苗代地区が街道の主道路であったが、二箇地内の川沿いに大きな道ができた為、二箇が後々に代名詞になったようである。元々は、籾だねを浸した地(苗代)であった。今でも苗代地区には日吉神社、お寺(慶徳院)があった跡は慶徳谷といい、慶徳の屋号が今でも受けついている。近くには尼寺跡も残っている。 この苗代街道は、久美浜県に通ずる昔の道であった。 二箇の地名は、苗代と佐古田の地名通り二つの地名があり、これが語源になったものと思われるが、もひとつは、この地に二軒の家があったためとも!又、丹後田数帳に成久保・末成保の地が二箇所ありそれが二箇保になったとも考えられる。 集落は国道沿いの二箇と、北西部の苗代(なわしろ)がある。二箇と苗代の間にある「月の輪田」は、稲種を天照大神に奉ったと伝わる。また、苗代の「清水戸」は苗代古歌に「いざなぎや種をひたする清水戸五穀始まるこれぞ苗代」とうたわれていて元伊勢の地である。 中世は石清水八幡宮領二箇保の地で、室町期〜戦国期に見える。長禄元年11月8日付の円通寺領重書現存目録に「豊後国大野庄内上村并〈丹後国二ケ保 吉田保 伊与国山口庄>」(三聖寺文書豊後国大野荘史料)とある。「石清水文書」では多く益富保と併称して二箇益富保とされている。同文書中には文明11年12月日、明応9年12月日、文亀3年4月日の「八幡宮領丹州二箇益富保勘定状」が残されている。文亀4年2月18日付の石清水八幡宮善法寺雑掌宛て室町幕府奉行衆下知状に「石清水八幡宮領丹後国黒戸庄并二ケ益冨保等事」と見えるという。二箇保は明徳2年12月29日付足利義満寄進状や丹後国田数帳にみえる成久保・末成保が八幡領とあり、のちに二箇保と称されたと考えられている。 二箇村は、江戸期〜明治22年の村名。枝村に苗代がある。はじめ宮津藩領、寛文6年から幕府領、同9年から宮津藩領、延宝8年から幕府領、同9年からは宮津藩領となり、享保2年以降宮津藩領230石余・幕府領402石余に分割されて幕末に至った。 当村は長岡・苗代・五箇・久美浜を結ぶ北国街道(久美浜街道)と峰山城下へ出る街道との分岐点に位置していて、「二箇や大野はいつ通っても、将棋・すごろく・賽の音」とうたわれ、宿場としてにぎわったという。幕末から明治10年頃にかけて当村には二箇座と称する木偶人形の一座10数人がいたという。 幕府領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、宮津藩領は同4年宮津県を経て、同9年いずれも京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。 二箇は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 月の輪田は国道312号から西へわずかに入った二箇と苗代の間にポツンとあり、三日月田(みかづきでん)ともよばれる。往古、清水戸に浸した籾種を月輪田の苗代で育て多くの田に植えつけたという伝承がある。苗代には「いざなぎや種を浸する清水戸五穀始まるこゝぞ苗代」という古歌が伝わるという。 『中郡誌稿』 〈月輪、清水戸、 (丹後旧事記) 国康が曰(稲代神社の条保食神の事を説きたるつづき)扨稲種を奉りし田今にあり二箇と苗代村との間に三ケ月形の小き田あり月の輪と云地頭も崇る故除地にし玉ふ若又作らされは二箇村苗代村たたり有故に今は二箇村義右衛門と云人身を清浄にして別火を喰て作らるる也精米にして一斗二三升斗の有藁すべも右の田の中へ入て来年の肥しとす不浄肥しを入るか女這入はたたる也右の米は伊勢御師宰福出雲太夫へ御初穂に上るかかる芽出度事を安の紀伊に言聞せても誠にせず打過しけるは愚なると言もはかりなし事長けれは略し畢す> (五箇村誌草稿) <苗代(付)月の輪の池 五箇村は我日本国農業の始なることは日本農史に明かなり、太古籾種を苗代(小字)の清水戸に浸し月の輪の田に苗を作り多くの田面に植えつけしといふ、いざなぎや種を浸すね清水戸五こく始まるここぞ苗代(苗代の古歌)> <(実地調査)苗代田面の中に半月形の除地あり水自然に湧きおもだかなど生ふ今はさまでに崇敬せらるるやうにも見えず清水戸といふは苗代の村落にありて三尺四方斗りの井戸なり水少しく白味を帯びわずかににごり居たり甚だ冷かなり村民此水を以て茶を煮るに味甚だ佳なりといふ 清水戸の歌を試に村民に歌はしめしに御詠歌に似て自ら異なれる節にて唱ふ其外田植歌として左の如きを伝ふ> 鶴の子のそだちはどこだ八幡の森の松の枝 日はてるともみのかさモチャレしの原の露雨にまさる サスガニ古風ナリトイフベシ 〉 『峰山郷土志』 〈【月の輪田(つきのわでん)(三日月田、二箇と苗代の間)】『丹後旧事記』によると、小松国康(『丹後旧事紀』の校閲者)曰く…として、稲代神社のところで、『日本書紀』神代の巻の保食神のことを説明した次に、稲種(いなだね)を天照大神に奉った田は、今も二箇と苗代村の間にあって、三ヵ月形の小さな田で「月の輪」といい、地頭(領主)もたたりがあるというので除地(年貢地から除外する)とし、また、作らないと両村にたたりがあるので、今は二箇村の義右衛門(野木姓)が身を清め、別に炊いた食物を食って稲を作り、精米にした一斗二、三升の米は、伊勢の御師幸福出雲太夫に御初穂として奉り、藁は全部田の中へ入れ、来年の肥にあてた。不浄な肥料を入れたり、女人の立入りもたたりがあってできなかった。このようなありがたいことを、安村の紀伊(稲代神社の禰宜安田紀伊のこと)にいいきかせたが、真にせずにそのまますておいたのは、この上もない愚なことであると>。 二箇の八幡神社付近の勝負庵(現在−菖蒲寺)の旧地という小字稲谷(稲代谷とも)は、昔、はじめて稲をつくった所であるといっている。付近に二本松稲荷、柿木地蔵があるというが、故事は明らかでない。 〉 『峰山郷土志』 <【清水戸(せいすいど)】苗代、『五箇村郷土誌』によると−五尺四方、深さ三尺の井水で、少し濁っている。石をもってかこい、一方に杉垣をつくる。大昔、豊受大神がはじめてわが五箇村で農作を試み、籾を浸した所であるという。 【清水戸(せいすいど)】苗代、『五箇村郷土誌』によると−五尺四方、深さ三尺の井水で、少し濁っている。石をもってかこい、一方に杉垣をつくる。大昔、豊受大神がはじめてわが五箇村で農作を試み、籾を浸した所であるという。 お日はてるとも みのかさ持ちゃれ しの原のトンヨナ しの原の露 雨まさるトヨナ この町(田)に植えたる早稲はなに早稲トンヨナ なにわせにゃ葉広のわせ倉の下づみトヨナ こうした田植歌は、大正の末期から昭和の初め頃までは時々聞かれたと思うが、田植ともなると、美声を競うこの唄声に合わせて、早苗を植える風景が田園いっぱいにくりひろげられたものである。 〉 八幡神社 三柱神社 住吉神社 『中郡誌稿』 〈(丹哥府志) 八幡宮(祭八月十五日) 付録 金毘羅大権現 稲荷大明神 高良大明神 三宝荒神 山王 地蔵堂 庚申堂 月の輪(地名未考)草庵 (村誌)社 八幡神社 無格社 社地東西五十四間南北十間 面積五百四十坪 本村の東方にあり誉田別命を祭る 祭日八月十五日 三柱神社 無格社 東西四間南北八間半面積三十四坪 本村の西方にあり奥津彦命を祭る 祭日十月二十八日 日吉神社 無格社 東西二十二間半南北四間面積百一坪 本村の北方にあり素盞鳴尊を祭る 祭日九月十五日 寺庵 臨済宗天竜寺派五箇村慶徳院末 村の中部にあり宝暦五年乙亥開祖玄峯宗宝禅者 (五箇村誌草稿)神社 八幡神社 字二箇にあり、山王神社 苗代にあり 寺院 慈明庵 曹洞宗(按、曹洞宗とは臨済宗の誤に非るか)小字苗代にあり、勝負庵 曹洞宗字二箇にあり 〉 『峰山郷土志』 〈【八幡神社(境内社愛宕神社)(村社、二箇、五箇、祭神 誉田別命)】二箇(苗代を含む)は御料所と宮津領にまたがり、峯山藩との関係がなかったので、宝暦の『峯山明細記』など、藩記録に直接とりあげられることは少なかった。神社関係では、五箇の舟岡の愛宕の項に「他領二箇村、御領分久次村(と五箇村)右三ヶ村、一所に祭礼つとめ来り候」とある(『同明細記』)くらいで、明治二年の『峯山旧記』にもほとんどみあたらない。しかし、天保十二年の『丹哥府志』には次のように記されている。 八幡宮 祭八月十五日、付録金毘羅大権堀、稲荷大明神、高良大明神、三宝荒神、山王、地蔵堂、月の輪、(地名未考)草庵。 明治十七年(『府・神社明細帳』) 村社 八幡神社、祭神 誉田別命、由緒不祥、社殿 六尺一寸に一間、上屋三間二尺三寸に二間三尺二寸、境内 五百四十坪、官有地第一種。 境内神社 金刀比羅神社、祭神 大物主命、由緒不詳、建物 二尺四寸に三尺、社掌欠員。 (頭注付記)拝殿、新築 明治四十一年七月十日許可。 昭和十一年(『五箇村郷土職二』) 愛宕神社と並ぶ(注、五箇村社)。祭神 応神天皇、本殿 二間半に一間半、拝殿 一間半四面、例祭十月十日、神事 神輿渡御、三番叟。 由緒として、石清水八幡の文書である「足利義政の教書」があげられている。 石清水八幡領、播磨国継庄丹后国板浪別宮、同国山田東方中郡二箇村、竹野郡平、黒部、熊野郡佐野、早任当知行之者、入江法印鳳浩領掌不レ可レ有二相違一之状如レ件 康正二年三月十八日 右近衛大将源朝臣 花押 境内に二箇神社がある(『同誌』、愛宕神社の項参照)。社掌は毛呂清春兼勤(峰山)。 〉 〈【三柱神社(無格社、二箇、祭神 奥津彦命)】一般に荒神さんとよんでいる。 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 三柱神社、祭神奥津彦命、社殿 三尺二寸に三尺、上屋 一間四尺に二間二尺、輿庫 一間一尺五寸に二間二尺五寸、境内 三四坪、民有地第一種……(注、輿庫とは八幡神社の神輿の保管庫である) 大正十一年(『五箇村郷土誌』) 建物 二間半に一間半、境内 二〇坪余、例祭 旧十月二十八日、神事 前夜子供が参籠する。 〉 〈【日吉神社(無格社、苗代、祭神 素盞嗚命)】天保十二年『丹哥府志』の山王とはこの社であろうか。一般に、山王社とよばれている。 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 日吉神社……社殿 二尺二寸に一尺八寸、上屋 一間三尺三寸に一間三尺、境内 一〇一坪、官有地第一種……祠掌 安村稲代神社……金田年彦、兼勤。 大正十一年〔『五箇村郷土誌』) 建物瓦葺中央本殿、両端摂社 二間に三間(五穀の神と、八幡宮が本殿の両端にあり)、境内一〇一坪、例祭 十月十日、神事 神輿渡御、あまざけ祭といって氏子が参籠する 〉 二箇座 『峰山郷土志』 〈【二箇座】二箇座は、十数人でつくった木偶(でく)人形(あやつり人形)の一座で、幕末の頃から、その名を京阪地方に知られていたが、明治十年頃、丹波ノ国夜久野の興業に行く途中、夜久野が原で狐に化かされ、人形から衣装まですっかり泥まみれになり、遂に再起できなかったという。狐の仕業であったというばかりで、その真相はつかめなかった、郷土に生まれた農民芸術の一つとして、惜しい限りである。木偶人形の一つが、苗代部落の池田某に保存されているというが、現在、存否は確かでない。また、熊野郡の友重に「友重座」があり、夜久野には「夜久野座」があったというから、それぞれ連けいがたもたれていたと思う。また、丹後の人形師井上亀治郎(二箇)がいた。 なお、二箇座の生まれた動機とも思われる一つに「竹本陸奥太夫」がある。峰山全性寺の不二庵跡の右上の崖下に、陸奥太夫の碑がある。その碑文によると−陸奥太夫は享保十年(一七二五)大阪に生まれ、俗名を治兵衛とよび、少年の頃から音曲が好きで、もっぱら浄瑠璃を習うこと五年、非常に上達したが、その後、修業のため奥羽地方を遊歴し、家々の門前を語り歩いた。聞く者は皆上手であると彼をほめた。そこで陸奥太夫と号し、明和の中頃(一七六四〜一七七一)四十歳前後で丹後に来たが、同好者が多いので二箇村に住んで門下生を教えた。ある時、門下生に向かって、「私は拙い技にかかわらず、皆さんから大切にして頂いていることを喜びかつ愧じている。しかし、心の中に忘れることのできない願いがある。それは、社友の皆さんにお頼みして、高倉会(こうそうかい)を作り、自分の技術を試すことができたならば、私の一生にとってどんなに楽しいことであろう。」と語った。門下生は皆これに賛成したが、その春、寛政九年(一七九七)二月二十日、陸奥太夫は病のため七十二歳で世を去った。遺体は二箇村墓地の臨川山の丘上に葬り、明治十年十一月峰山の門弟一同で碑を臥竜山上(全性寺の山号)に建て、浄瑠璃大会を催し、薫盥(香り高い手洗鉢)と名づけて一つの曲を奏して碑前に手向けた(延陵の剣の故事なぞらえて)−とある。 碑文は丹後の金谷幡恒の作で、終わりに銘がある。 鏗兮曲節 颯兮清風 鏗たり曲節 颯たり清風。 嘉哉斯子 禄在其中 嘉いかな斯子 禄その中に在り。 サッと清風をまきおこして鳴りわたる曲節の妙音、その非凡な妙技の中に、彼が天から授けられた無上の俸禄がある…という幡恒作の銘も、また、よく陸奥太夫の人格と神技をよみつくしている。こうした人形浄瑠璃「高倉会」結成の彼の意志がいつか芽生えて二箇座となったものであろう。浄瑠璃の愛好者は今も多い。 〉 二箇の主な歴史記録
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