Exaktaの歴史

第二部・現代的1眼レフ成立への過程〜前編
〜R・Hunmmel著"SPIEGELREFLEXKAMERAS AUS DRESDEN"に寄せて〜

はじめに

  リヒャルト・フンメル(Richard Hunmmel 1922〜98)1) の著作である"SPIEGELREFLEXKAMERAS AUS DRESDEN"(1994)(邦訳・日本語版監修・リチャード・クー 、村山昇作、『東ドイツカメラの全貌〜一眼レフカメラの源流を訪ねて』朝日ソノラマ・1998、以下『全貌』と略す)2)は、第二次大戦後、東側体制に組み入れられたドイツ・ドレスデンにおけるカメラ産業史をはじめて明かにしたものとして評価されている。フンメルによって明かにされた数多くの歴史的事実、技術開発の過程、そして東ドイツ時代をめぐる生々しい証言は、それまで西側世界(とくに日本)の収集家、及びカメラ史研究家に全く知られていなかったものであり、既存の認識に多くの訂正が求められたことは、未だ記憶に新しい。

  しかし、筆者は『全貌』における東西冷戦以前、すなわち第二次大戦終結(1945)までのドレスデンにおけるカメラ産業史の歴史叙述に注目する。そこでは、ドレスデンのカメラ産業が、如何にしてツアイス・グループ(Carl-ZeissJenaとSchott社)によって統合され、巨大企業ZEISS-IKON社へとなっていったのか?そしてまた、ドレスデンの独立 系中小カメラメーカーが、如何に抗ったのかを、主に一眼レフの開発史を軸にすることによって描き出しており、ことさらに興味深い点である。
  本稿においては、フンメルの著述を基礎として踏まえつつ「現代的一眼レフ」が、いつ、どこで、どのような歴史的経緯の中で誕生、成立していったのかを考察する3)


第一章 現代的1眼レフの成立〜その時代背景

1・ドレスデンのカメラ産業とツアイス・グループによる統合と支配
  第一次大戦後の不安定な経済状況下で、ドレスデンを中心としたドイツのカメラ産業は重大な経済的危機に陥り、激しい淘汰の波が訪れた。そこで、ツアイスによる合併の動きが始まったことは既に多くの著作で言及されているが、この第一章ではフンメルの『全貌』に則し、その経過を確認しておく4)

  1926年のツアイス・イコン社設立は、ICA社(筆頭株主はツアイス・イエナ)を脅かす競合メーカー全てを吸収合併せんとするツアイス・イエナの意図があり、映画機械で有名なエルネマン社(ドレスデン)5)、コンテッサ・ネッテル社(シュッツガルト)6)、更にツアイス・グループ以外で唯一、光学ガラス製造からレンズ製造まで一貫した開発能力を有するC・P・ゲルツ社(ベルリン)7)を合併した。こうして、ドイツ国内における大手カメラメーカーを全て吸収合併してツアイス・イコン社を設立し、業界の支配を完全なものとした。1926年の資本金1250万マルク、従業員数4800人(最盛時の1938年には9100人)ツアイスの株式保有率53.1%、ここに、ツアイス・グループによるカメラ産業の支配体制が完成した。

  その結果、ドイツの大手カメラ・写真メーカーは全てツアイス・グループの傘下に収まり、事実上の独占状態に置かれただけでなく、特にカメラメーカーにとって生命線とも云える写真用レンズの光学ガラスが、ゲルツ社のゼントリンガー光学ガラス製造所(SentlingerGlassWerk)8)の閉鎖によって、ツアイス・ショット社の独占状態になったことは、独立系メーカーに対しても影響を及ぼすことが出来るようになったことを意味していた。


ツアイス・イコン社によるカメラ業界の統合 9)


2・ツアイス・グループによるカメラ産業支配と、独立系中小メーカーの対抗
  ツアイス・イコン社成立後、ドレスデンには従業員500人以下の新興の独立系中小メーカーしか残らなかった10)。また、前述したようにドレスデンに限らずドイツの中小メーカーは、レンズ製造に必要な光学ガラスをツアイス・グループのショット社から買わなければならず、またレンズもイエナのツアイス社から買わなければならないという事実上の支配状態に置かれたことを意味している11)

  さて、ツアイス・イエナの経営陣が、ツアイス・イコン社に対して、1926年に1050種類あった旧来の製品を整理させ、新しい商品開発を命じた結果、1939年には56種類まで合理化された12)。その過程で、それまで最高級カメラとされていた乾板フイルムを使う旧式の大型一眼レフが最初に整理の対象となり、代わって、35ミリフイルムを使う全金属製の連動距離計カメラ、コンタックス(Contax)シリーズが最高級カメラとなった13)
  だがしかし、1945年のドイツ敗戦までツアイス・イコン社からは、新しい形式の金属製・小型一眼レフが発売されることはなかった。フンメルは、これをツアイス・イコン社の商品展開における「見逃すことの出来ない大きな欠点」であったと指摘し14)、それ故に多くのドレスデンの中小メーカーが「新しい形式の一眼レフ開発」に活路を見出していったと主張する。さて、ここではイハゲー社とKW社を中心に、その他の一眼レフを製造した独立系中小メーカーの概略と、その製品について述べる15)

(1)イハゲー社(Ihagee)〜エクサクタ(Exakta)
 
イハゲー社(Industrie-und Handelsgesellschaft)は、1912年にオランダ人であるヨハン・シュテーンベルゲン(Johan Steenbergen)によって創立された後発の新興メーカーである。シュテーベルゲンは家具工場を買い取り木製のカメラボディを製造し、他社からレンズを買い販売した16)
  1923年の大インフレ頃の従業員数は500人で、更なる増員の必要性があると考え、1000人を収容出来る社屋・工場を建設した。が、1931年には世界恐慌の影響もあり300人、32〜33年には180人程にまで落ち込み人員削減と経費節減は限界となった17)。これに対して設計主任のカール・ニヒターライン(Karl Nuchterlein)は、新製品の開発で苦境を脱することを提言し、1932年に世界初の全金属製・小型一眼レフであるエクサクタ(Exakta)を開発し、市場で確固たる地位を得ることに成功する18)

  エクサクタは、金属製でロールフィルムを用い、フイルム巻き上げとシャッターセットが同時に行われる機構に加えて、レフレックスミラーのセットが同時に行われるものであり、「現代的1眼レフ」の元祖である19)
  エクサクタは、使用フイルムによって1933年発売のベスト(VP)・エクサクタ(40×65mm・8枚)1936年発売のキネ・エクサクタ(24×36mm・36枚)そして1939年発売のエクサクタ66(60×60mm・12枚)の3種類のモデルが市場に送り出された。価格面ではライツ社のライカ、ツアイス・イコン社のコンタックスと競合する高価格帯の製品でありながら、VPエクサクタとキネ・エクサクタが1933〜39年にかけて、年間1万台を売るベストセラーカメラになったことは注目に値する20)。しかしながら、エクサクタ66は構造的な問題から、1939年8月〜11月の短期間に1500台を製造しただけに終わった21)

  1945年2月のドレスデン空襲で社屋・工場は全壊し、設備、図面、書類の一切が失われ、設計主任のカール・ニヒターラインは出征先で行方不明となる。戦後は、ニヒターラインの弟子達(リヒャルト・フンメルも含まれる)によって新しいエクサクタシリーズの開発と製造が再開された。

(2)KW社〜プラチティフレックス(Praktiflex)
  KW社(Kamera-Werksutatten)は、1919年にドイツ系ユダヤ人、パウル・グーテ(PaulGuthe)とベノ・トルシュ(BenoThorch)によって創立された。 KW社は超薄型ハンドカメラ、エツィ(Etsui)やヴェスト判フイルムを使用する小型2眼レフ、ピロート(Pilot)など特色ある製品を発売し、従業員数は150人程度の小規模ながらツアイス・イコン社成立後も、安定した経営を行っていた22)
  しかし、1937〜38年に2人の経営者はユダヤ人であったことから海外への移住を希望し、KW社をアメリカ・デトロイトのチャールズ・A・ノーベル(Charles Adolf Noble)の営む写真業会社と交換し、経営者が交代した。KW社の経営権を受け継いだノーベルは、エクサクタに続く2番目の35ミリフイルムを使用する小型1眼レフであるプラクティフレックス(Praktiflex)を1939年に発売する23)
  プラクティフレックスは先行していたキネ・エクサクタに比べてアマチュア市場を狙っ た廉価なもので、1939〜45年にかけて戦時下にもかかわらず1万1千台を売り上げたことは、驚くべき成功と云えよう24)。また、戦後の東ドイツ製1眼レフカメラの中で、プラクティフレックスは主力製品になっていった。

(3)その他の1眼レフを製造したドレスデンの中小メーカー
・フランツ・コッホマン(Frantz Kochman)−従業員数80人余25)
 
オランダ人フランツ・コッホマンによって1921年創立。後発にもかかわらず1935年にブローニ120判フイルムを使用する中判1眼レフ、レフレックス・コレレ(Reflex-Korelle)を製造し、イハゲー社に次ぐ名声を得たが、第二次大戦末期のドレスデン空襲で壊滅的被害を受けた。

・バルディマー・バイエル(Camera-Fabrik WoldmarBeier)−従業員110人余26)
  1924年創立、1938年にブローニ120判フイルムを使用する中判1眼レフ、バイエルフレックス(Beierflex)を発売。

  以上、述べたごとく1920年代後半から30年代にかけてドイツのカメラ産業は、ツアイス・グループによる限りなく独占に近い産業集中が進行した時代であった。同時に感光材がガラス乾板から、セルロイドベースのロールフイルムや35ミリフイルムへと全面的に移行しつつあった時期であり、そしてまた小型・精密カメラがはじめて市場へ現れた時期であることもまた、言を待たない。

  そこで『現代的1眼レフ成立への過程〜後編』では、
・感光材料が乾板から、ロールフイルムへと変遷が起こった時代。(⇒市場の変化)
・「現代的カメラの祖」とされる「ライカ」や「コンタックス」などの
  小型・精密カメラ がはじめて市場へ現れた時代。(⇒技術の変化)
  以上、この2つの視点から「現代的1眼レフ」誕生の経緯について、イハゲー社が開発した史上初の「現代的1眼レフ」の元祖とも云えるエクサクタを例に考察する。 (続く)



  1933年発売のイハゲー社、エクサクタA型発売広告。

供給されるレンズの中でも、他のレンズメーカーの製品に較べて、ツアイス社製のレンズが特に高価であるのに注目。
     
  1939年発売のKW社、プラクティフレックス販売広告。

第二次大戦中にも関らず1万1千台が販売された。戦後、東ドイツ製一眼レフカメラの大黒柱になり、日本のメーカー(特にアサヒフレックス・ペンタックス)に大きな影響を与えた。
     
  1935年発売のフランツ・コッホマン社、ブローニ・フイルムを使用するレフレックス・コレレ販売広告。

イハゲー社のエクサクタに次ぐ名声を得た。現在、ブローニ・フイルムを使用するカメラは”中判”とされるが、この広告によれば、当時は”小画面”(Kleinbild)とされている点に注目。


>> 註釈(1)〜(26)をまとめて見る


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