Exaktaの歴史

第一部・近代的一眼レフの定義と歴史的考察

はじめに

 現在、もっとも技術的に進んだ機構・構造を持った銀塩フイルム使用のカメラは一眼レフとされている。その起源は古く、既に19世紀末には木製一眼レフが存在している。だが、現在われわれが通常、慣れ親しんでいる形式となったのは、1933年に発売されたベスト判フイルム(4×6.5cm・8枚撮り)を使用した「Exakta」が最初であるExaktaは、ドイツ・ドレスデン市にあったイハゲーカメラ製作所(Ihagee−kamerawerk)の技術者、カール・ニヒターライン(1904〜1945?)によって開発され、1933年に発売された。このカメラは、現在に直結する一眼レフの技術的特徴が複数認められ、19世紀以来の古い形式の一眼レフの形式から脱却した、現在の一眼レフの起源であると云える。TTL一眼レフの特許

※ Exakta(エクサクタ)とはドイツ語で「精密な、厳格な」という形容詞であり、
  英語でも其れに対応するExacta(エキザクタ)という形容詞が存在する。
※ 日本では一般的にExaktaのことを、エキザクタと呼称する。
  混乱を避けるために本稿では「Exakta」に統一する。




Exaktaの技術的特徴

 ここでは、Exaktaの持つ3つの技術的特徴に注目し、その技術史的意味を考察する。

(1) 総金属製であること。⇒19世紀以来の古い形式の一眼レフに比較して、飛躍的に小型化され、機構や構造が集約・集積され使用材料が既存の木製から金属製となった。Exaktaの外骨格はアルミ合金製、内部機構は真鍮銅合金、鉄等が使用されている。

(2) ロールフイルムを使用するものであること。
⇒ベスト判フイルム(4×6.5cm・8枚撮り)を使用することによって、連続撮影が可能になった。

(3) シャッターとフイルムの運動が連動していること。
⇒フイルムを巻き上げる運動と、フオーカルプレンシャッターの運動機構が連動し、連続撮影が可能になった。

 以上の3点が、1933年に登場したExaktaの技術的特徴であり、到達点である。この技術的特徴は、既に1925年に登場した「Leica-A」と、同一ではないが類似したものである。そして、一眼レフとしては初めてのものであり、その後に登場した多くの一眼レフの形態に大きな影響を与えた。19世紀以来の古い形式の一眼レフに比較して、この3つの技術的特徴を有する一眼レフこそが、近代的一眼レフの基礎条件を満たしたものである。Exaktaの登場から現在まで、無数の更に進んだ機構・構造を持った近代的一眼レフが存在するが、3つの基本的な技術的特徴を欠いたものは、少数の例外はあっても、ほぼ存在しないと云って過言ではない。



Exaktaとフイルムの規格に関する考察

 イハゲー社はExaktaのベストフイルム用(4×6.5cm)を1933年に、35ミリフイルム(36×24mm)用Kine-Exaktaを1936年に、更にブローニフイルム使用のExakta66を1939年に発売し、戦前期に合計3種類を登場させている。これが何を意味するのだろうか? どのような市場と技術の関係を、その時代背景の中で顕しているのだろうか? ベストフイルムを使用する最初の近代的一眼レフ、ベスト判Exaktaの技術的特徴は、1925年に登場した「Leica-A」の其れと類似しており、その影響が大きかったことは先にも述べたが、決定的に違っている点が2つある。

(1) シャッターとフイルムの運動は連動しているが、フイルム巻き上げ機構は、1コマずつ自動停止しない。⇒裏蓋に穿かれた赤窓を通して、ベストフイルムの裏紙に書かれたフイルム枚数番号を見ながら、手動でフイルム位置を調節しなければならない。

(2) ベスト判フイルム(4×6.5cm)の密着焼付けを前提としている。⇒ライカの規格(24×36mm)は、引伸ばしを前提とするが、Exaktaは密着焼付けを前提としていた。

 この2つの相違点は、このExaktaが登場した時代背景を知るのに特に重要な点である。まず相違点は、当然ながら最初のExaktaがベスト判フイルムであったことに起因する。つまり「シャッターとフイルムの運動が連動しているが、フイルム巻き上げ機構は、1コマずつ自動停止しない」の意味するところ、つまりベストフイルムにはパーフオレ−ョン(送り穴)が無いために、自動巻き止め機構の実現が難しかった為である。その為に、前時代的な赤窓式と呼ばれる原始的なフイルム給装システムを採用せざるを得なかったのである。

 1936年、Kine-Exaktaの登場によって「シャッターとフイルムの運動は連動し、なお且つ、フイルム巻き上げと同時に、1コマずつ自動停止する機構」つまり、自動巻き止め機構(セルフコックキング)が実現した。更に1939年に発売されたExakta66は、パーフオレーション(送り穴)の無いブローニフイルムを使用して、自動巻き止めを実現した。が、Exaktaの主任開発者であるカール・ニヒタ−ラインはExakta66の開発には懐疑的であったと、開発グループの一人だったリヒャルト・フンメルは回想している。理由は、パーフオレーション(送り穴)の無いブローニフイルムでは、自動巻き止め機構の実現が難しいというものである。事実、製品化されたExakta66のアキレス腱は巻き止め機構の故障頻発であり、フンメルはイハゲー社の帳簿には予めExakta66のクレーム対策費用が計上されていたと証言している。このように“無理な開発”が行われた背景には、やはりライカの市場に与えていた影響は見逃すことは出来ないだろう。

 戦前から戦後の時代を跨いでパーフオレーション(送り穴)の無いフイルムで、フイルム給装機構の自動化に成功した例は少なく、Rolleiflex-Automatが、ほぼ唯一の例であろう。(それが、即ちRolleiの名声である) それほど、パーフオレーション(送り穴)の無いフイルムで、安定したフイルム給装機構の自動化(いわゆる、セルフコッキング機構)の実現は困難な機構だったと思われる。総じて、戦前期のExaktaの商品展開と、その開発過程は、この時期の目まぐるしく変化した写真市場の動向(フイルム規格)を顕したものとして興味深い。

 1920〜30年頃の写真業界では引き伸ばしは一般的では無く、密着焼付けが一般的だった。1933年の時点では(その前に横たわる開発期間をも含め)、市場判断として先ずベスト判Exaktaが発売された。それが数年にして急速に35ミリ判が普及し、ライカ型カメラの利点が大きく市場で認められるに至った。そこで、Kine-Exaktaが1936年に発売された。そして、更にブローニフイルム使用のカメラの需要も大きかったことから、1939年にはKine-Exaktaの利点(自動巻き止め・セルフコッキング機構)を持った大型のExaktaとしてExakta66が発売された。

 この3つのフイルム規格を持った、特徴的な機構を持った一眼レフは、同時代に、同時に並立して発売されていた点にも留意すべきである。つまり、この3つのフイルム規格を使用するカメラの需要が、それなりに存在し、営業戦略上、必要とされ、故にベスト判、35ミリ判、ブローニ66判、3つのフイルム規格を持ったExaktaの開発と市場展開を促した原動力となったと考えるのが妥当であろう。



カメラ技術史におけるライカ中心史観への問題提起

 筆者の私見では、総じてカメラ専門誌を中心としたメディアで展開されるカメラ技術史の中には「ライカ中心史観」とでも云うべき、ライカに偏重したカメラ技術史観が一部に存在すると考える。それは即ち「35ミリフイルム中心史観」とでも云うべきものである。それは、35ミリフイルムが非常に普遍的な規格として広まっている現在点を基準とした歴史的評価に他ならない。筆者は、これを「後追い史観」「結果的に史観」であり、歴史的見解から苦言を呈する。それは、ライカが登場した時代と、時代背景、写真市場のありかたを見落とし、それ故に歴史認識に決定的な誤謬を犯す恐れがあると考えるからである。

 まず認識しなければならないのは1920〜30年代、ライカと、ライカ判フイルムはごく特殊なもので一般性は無かったという事実である。1920〜30年代初頭、ライカが登場して日も浅く、ライカ以外に35ミリフイルムを使用するカメラが少ない状態では、一般的な写真材料店では35ミリフイルムを販売している店舗は希であり、即ち35ミリフイルム用の引伸ばし機を持った現像設備を持つ店舗もまた、希であったことを意味している。そうなると、自家現像ということになるが、今も昔も、職業写真家、特別に熱心な高級アマチュア以外は、自宅に現像設備を持っていることも、これまた希であったことは想像に容易い。

 この当時、一般的だったD・P・Eサービスで密着焼付けが可能な最小サイズのフイルムが4×6.5pのベスト判フイルムとされ、もっとも普及した小型のフイルム規格であった。この当時、ベスト判やブローニ判なら、田舎の小さな写真材料店で販売していたし、また現像焼付けも引き受けていた。筆者の知る限り、日本では1930年代後半で35ミリ判のD・P・E代金はベスト判やブローニ判に較べて割高だった。35ミリフイルムを使用するカメラが全面普及する為には、まず写真市場における“社会インフラ”と“環境”が必要だったのである。これは全て“経済性”という問題に跳ね返ってくる問題でもある。

 ライカを祖とするフイルム規格と機構、システムの優位性を強調し、歴史的な意味を問い糺すならば、寧ろ前述した市場におけるハンディを、戦時中を挟みながらも戦前から戦後の比較的短期間に克服し、市場開拓と技術革新を行った点(経済性を含めて)にこそ、殊更に注目されて然るべきであろう。



むすび

 最初のExaktaが登場した1933年頃(その前に存在する開発期間を含め)では、35ミリフイルム使用のExaktaが発売するには、時期尚早と考えられたのではないだろうか? 現在でも「規格」が、様々な商品戦略の上で大きな意味を持っている例は多数存在する。例えばビデオのVHSとβ方式をはじめ、パソコンのWinとMacのOS方式等々・・枚挙に暇が無いのは周知の事実である。どんなに優れた規格や方式であっても、普及していないもの、規格互換性が低いものは商品戦略上で大きなネックとなり、市場戦略の妨げとなるのである。ましておや、フイルムの規格はカメラという商品の、最も重要な点でもある。技術的優位性は必ずしも、必ずしも市場の覇者たりえないのである。

 戦前期において、3種類のフイルム規格を持ったExaktaが次々と開発され、市場投入された過程は、目まぐるしく変化した戦前期の写真市場におけるマーケティング戦略の1つの象徴であると同時に、或る市場条件の中で技術進化を摸索した初期の近代的一眼レフとして、カメラ技術史において殊更に重要な意味を持つと考えられる。これは、決して過去のことではない。我々は既に、銀塩写真からデジタルカメラへと変化する過程の渦中にいることを、思い浮かべなければならない。 (以下続く)



協力(あいうえお順)
粟野幹夫氏 内田安孝氏 竹田正一郎氏 吉田稔氏 
協力団体
神戸クラシックカメラメンバーズ(KCM)・EXAKTA倶楽部有志一同(日本)



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