現代的1眼レフ成立への過程〜前編、註釈集


(1)
リヒャルト・フンメル(RichardHunmmel 1922〜98)は、1937年にイハゲー社に精密機械技師見習い工として入社し、同社の設計部主任のカール・ニヒターラインに師事した。社内の職業訓練過程で専門教育を受け、世界初の金属製・小型1眼レフである"Exakta"シリーズの開発に携わり、第二次大戦中の1943年にツアイス・イコン社の研究員となる。そして、戦後1955〜64年にかけて"Exakta"シリーズの開発主任を務めた。1986年以降はテクノロジーミュージアムの設立に専念し、さらに東西ドイツ統一後には、旧ツアイス・イコン社のエルネマン工場(ErnemanWerk)の歴史的建造物をドレスデン市から取得し、博物館設立プロジェクトに関わった。精密機械技師、精密測定工学士。


(2)
R・フンメルはドレスデンのカメラ産業史研究の集大成として"SPIEGELREFLEXKAMERAS AUS DRESDEN"を執筆、その後リチャード・クー 、村山昇作と共に本書の邦訳版である『東ドイツカメラの全貌〜一眼レフカメラの源流を訪ねて』の為に追加執筆、監修を行うが1998年1月、完成直前に死去。奇しくもこの日本語版が"SPIEGELREFLEXKAMERAS AUS DRESDEN"の決定版となり、フンメルの絶筆となった。


(3)
本稿における「現代的1眼レフ」とは、主に乾板フイルムを使用する大型・木製の「旧時代の1眼レフ」に対する概念である。「現代的1眼レフ」は基本的に全金属製であり、それまでの「旧時代の1眼レフ」に比べて飛躍的に小型、且つ精密となり、ロールフイルム、或いは35ミリフイルムを使用し、フイルム巻上とシャッター巻上、そして焦点を合わせるファインダー部における反射ミラーの跳ね上げと復元が連動する装置を持つものを指す。なお、この概念の中には「現在の1眼レフ」では当然の装備となっている反射ミラーの自動復元(クイックリターン)や自動絞り装置等々は含まれていない。それは「装置の改良、改善」であって、筆者が注目するのは、あくまで「機構そのものの変化」であることを付言しておく。そして「現代的1眼レフ」における機構の最終的完成は、ペンタプリズムファインダーを装備したContax-S(1949)によって成し遂げられたことは云うまでもない。


(4)
Richard Hunmmel "SPIEGELREFLEXKAMERAS AUS DRESDEN"(1994) (邦訳・日本語版監修・リチャード・クー 、村山昇作、『東ドイツカメラの全貌〜 一眼レフカメラの源流を訪ねて』朝日ソノラマ・1998)第1章P.65〜100


(5)
「ICA株式会社にとって目の上のたんこぶ、それも痛いたんこぶであったのはエルネマンの35mm映画機器の生産と設計における指導的地位であった」(『全貌』P.36)


(6)
「ツアイスはレンズ製造者としてこの会社と競争したばかりか、ICA株式会社およびシャッター製造者のデッケル(Deckel)とゴーティエ(Gautheir)の助けを借りてまで、コンテッサ・ネッテルを締め付けたのである」(『全貌』P.52) 原典 Die Photographische Industrie/Berlin:1923(2).-S.311.333-339(※筆者未読)


(7)
シュタインハイル社は、1901年にミュンヘン郊外にゼントリンガー光学ガラス工場(SentlingerGlasWerk)を設立し、ベルリンのC.Pゲルツ社(C.P .GoerzA.G)を主な供給先とした。後にこのガラス工場はC.Pゲルツが大株主となり、1915 年にはゲルツの光学ガラス工場としてベルリンに移され、第一次世界大戦で使用された全ドイツ軍の光学兵器の80%を供給した。ゼントリンガー光学ガラス工場は、イエナのショット社に対して唯一対抗出来る存在であったが、ドイツ敗北後のベルサイユ条約ではC.Pゲルツ社とゼントリンガー光学ガラス工場での軍需生産は縮小を科せられ、急速に経営が悪化した。その結果、1926年のツアイス・イコン社設立時に、このガラス製造工場は合併協約によって閉鎖された。ハルトムート・ティーレ著、竹田正一郎訳・編集『ドイツ・写真用レンズメーカーの全て』シュタインハイル編(朝日ソノラマ『カメラレビュ−79号〜ライカブック06』 2006 P.115〜116掲載)原典・Hartmut Thile"150Jhare PhotoOptik in Deutschland 1849-1999" (※筆者未読)及び『全貌』第1章P.54〜55


(8)
ゼントリンガー光学ガラス工場が製造する光学ガラスは、イエナのショット社に対して唯一対抗出来る存在であり、有名なものとしてはライツ社の初期のライカA用レンズ(Leitz-Anastigmat、Elmax、及び極初期のElmar)がゼントリンガー工場製の光学ガラスを使用していたのはよく知られているところである。 デニス・レーニ著『ライカコレクターズガイド』(アルフアベータ・2000年) P.125〜127原典・DennisLaney"LeicaCollectorsGuide"HoveCollectorsBook G・B 1992


(9)
竹田正一郎著「ツアイス・イコンの成立」P.7参照(朝日ソノラマ編『カメラレビュー80号〜ツアイス・イコン特集』2006)原典"75Jhare Photo und Kino Technik Zeiss-Ikon"(1937)P.44 Stammbaum der Zeiss Ikon AG,Dresden


(10)
『全貌』第1章・歴史編pp65〜100、及びP.101〜106を参照。


(11)
「主としてカール・ツアイスの取締役会が、新しいカメラコンツエルンの設立を推進した。この取締役会は何十年も前から、ドイツの精密機械、光学産業、とくにレンズ製造における独占的地位を築くことを目標としていた〜(中略)〜いまや最終的局面を迎えたのである」(『全貌』第1章P.51)及び本註釈7・8を参照。


(12)
『全貌』第1章P.56


(13)
『全貌』第1章P.56、P.60〜61及び"75Jhare Photo und Kino Technik Zeiss-Ikon"(1937)P.45


(14)
『全貌』第1章P.61


(15)
フンメルによれば「大企業のなかで1眼レフをその製造の中心としたところは1社も無く」またさらに「1眼レフは全生産品目のなかのほんの小さな一部でしかなかった」。それに対して「ドレスデンの中堅カメラ企業が存在したことで、カメラ製造が活性化された」と指摘する。そして、その中堅企業とは、本稿で云う「現代的1眼レフ」を開発したイハゲー社(エクサクタ)KW社(プラクティフレックス)フランツ・コッホマン社(レフレックス・コレレ)等々を挙げており、これら企業は「1眼レフこそ将来のカメラのタイプであることを認め、段階的にこのカメラの製造と設計を企業活動の中心に置いた」。それゆえに、1眼レフが「全世界に広まった」とし、なお且つ世界初の小型・精密1眼レフであるエクサクタを開発したイハゲー社 の果たした役割と存在を、とくに重要視している。(『全貌』第1章P.65,P.83)


(16)
『全貌』第1章P.66


(17)
竹田正一郎によれば、1923年ドイツで起きた大インフレはカメラ業界にとって一時的な大きな経済利益をもたらした。朝と夕で物価が一桁違うような極端な通貨下落の中にあって、ドイツ国内の消費者は貯蔵性があり、場所を取らず換金性の高いカメラを買い求め、メーカーも設備投資を行った。しかし、インフレが終息すると消費者は一斉に換金に走り、値崩れが起き製品は全く売れなくなった。その反動は大きく、それがドイツのカメラ・写真業界再編成(ツアイス・イコン社設立)の引き金になったと指摘する。竹田正一郎著「ツアイス・イコンの成立」P.6参照(朝日ソノラマ編『カメラレビュー80号〜ツアイス・イコン特集』2006、)このような理由で、戦前・戦中期において1923年の大インフレの時が、イハゲー社にとっても従業員数(規模)のピークであり、エクサクタの成功があっても、それ以降は回復することは無かった。その経緯については『全貌』第1章P.67〜68参照。


(18)
「カール・ニヒターラインは、ヨハン・シュテーンベルゲンに新しい設計のアイディアを提出した。彼は1眼レフを新しい小型のものに変え、イハゲーの名を高めようと提案したのであった」(『全貌』第1章P.68)


(19)
「カール・ニヒターライが新しいアイディアを出し"小さく、エレガント、何でもできる1眼レフカメラ"という目標を実現することを請け負ったのである」(『全貌』第1章P.75)


(20)
『全貌』第2章"1936〜45年におけるドレスデンの35mm1眼レフの生産台数"(図版215)参照。P.75


(21)
『全貌』第1章P.82


(22)
『全貌』第1章P.87


(23)
『全貌』第1章P.88〜90


(24)
「1939年4月から1945年5月までプラクティフレックスの製造期間、1万1千台以 上が製造された。これは比較的小さな企業にとっては驚くべき数字である。この期 間中、段階的に四つの改良が行われプラクティフレックスの技術的な発展につなが った」(『全貌』第1章P.90〜91)


(25)
『全貌』第1章P.92〜94


(26)
『全貌』第1章P.95〜97