鉄の歴史を持つ町  越前・若狭紀行
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  鉄で知られる町の歴史はしばしば古代に遡ることができ、今も鉄の名産地であったりする。近代には鉄は国家なりと言われ、過去にも天下統一の足場を築き鉄を制する者は天下を制した。

 1999年、福井市泉田町の集落遺跡「林・藤島遺跡」(弥生後期、西暦200年
頃)から全国でも最多の出土数となる1000点を超える鉄器、鍛冶(かじ)跡が見つかり、当時の福井が(越の国)が鉄器の先進地域であった事を見せつけた。集落遺跡林・藤島遺跡二本松山古墳(福井県吉田郡永平寺町)から3km程の至近距離に位置している。弥生時代に福井、武生、鯖江というような細かな行政区画があったわけではなく、越前の豪族である男大迹王(おおどおう、後の大和朝廷第26代継体天皇)の勢力を育てた背景を垣間見せるものである。

 越では弥生時代から大陸から伝わった技術により鉄器の生産が始まった。(弥生時代から日本で砂鉄や鉄鉱石から鉄を生産していたか(製錬)どうかについては、確実に弥生時代のものと考えられる鉄製錬遺跡が福井で見つかっていないので論者によって見解が分かれる。)神功皇后は新羅(しらぎ)に遠征し百済(くだら)と高句麗(こうくり)も帰服させた。世に言う三韓征伐である。その時、新羅の踏鞴津(たたらのつ)にも侵攻し製鉄などの技術者を連れて帰還したという。
 
 
男大迹王(おおどおう、後の大和朝廷第26代継体天皇)の名は火処(ほど)、即ち、たたら製鉄の炉に由来するという説もある。継体天皇は507年に河内の樟葉で即位し、5年後に山背国筒城(やましろのくにつつき、京田辺市)に都を移したが、その筒城宮の所在地が京田辺
多々羅である
 金津(福井県あわら市)では何カ所もの古製鉄の跡が見つかっている。糞置(くそおき、福井市)遺跡もカナグソ(鉄滓)に関係するという論者がいる。
参考資料「邪馬台国鯖江論」

 時代は下り、刃物製造技術の大半は京都より全国に広まった。京都市内には今も粟田口鍛冶町という地名が残る。都という地の利に加え出雲の良質な玉鋼(たまはがね)、火力が強くて長い炎を出す丹波の松炭、さらに良質の水が豊富に得られるという鍛造(たんぞう、鋳造ではなく叩いて鉄を鍛える)
に不可欠の条件を備えていた。そのために室町中期より鍛冶が栄えた。鍛造はハンマ−などで叩いて金属内部の隙間をつぶしながら金属結晶を整え強度を高める技術で日本刀などの製造に使われてきた。鍛造の町としては、武生(福井)、堺(大阪)、三木や小野(兵庫)、関(岐阜)、仁方(ヤスリ、広島)、金沢(釣り針、石川)などがあり、それぞれ古い歴史を持つ。鋳造(鋳物)では盛岡(岩手)などが知られる。     

 鎌倉時代の刀工で京都粟田口(あわたぐち)派の祖・国家には6人の子がいて、その1人が国安(くにやす、生没年不明)である。『日本人名大辞典』(講談社)は「鎌倉時代の刀工。京都粟田口{あわたぐち}派の祖・国家の3男。承元{じょうげん}(1207〜1211)のころ後鳥羽天皇(1180〜1239)番鍛冶{ばんかじ}のひとりとなり、山城守の官名を受領したとつたえられる。通称は藤三郎。」と簡単に記述するのみで、この人が700年ほど前に武生に鍛冶を伝えたとされる千代鶴国安かどうかは生没年不詳でもあり定かではないが、軍事集団の刀槍修理の専門家として北陸に従軍して来た可能性は十分にある。当時の緊迫する政治情勢(1185年の平家滅亡、1221年の承久の乱)が先端兵器である日本刀の需要を高めた。ちなみに第82代・後鳥羽天皇は日本刀の歴史にしばしば登場し、更に藤原定家らの『新古今和歌集』選定にも深く関わった。また、皇室の菊の御紋は後鳥羽院が菊を愛好したことに始まるとされ天皇家の菊の御紋の始まりとなった。 

 国家の6男に国綱(くにつな)がいた。彼は御物(天皇の私物)である 「鬼丸」の制作者であり、これは源氏が滅亡して北条氏の時代になると北条時頼を苦しめる鬼を退治したという伝説をもつ名刀で、国綱は北条時頼(1227〜1263)の命を受け鎌倉に移ったという。鎌倉幕府滅亡と共に北条氏も滅び、その後、新田義貞の所有となり義貞が新田塚(福井市新田塚町)で戦死した時に「鬼丸」と「鬼切」を帯刀していたと『太平記』は伝えるなお、「鬼丸」や「鬼切」は複数あったともいう。
 北陸自動車道・日野山トンネルの南部付近に見られる平吹(ひらぶき、南越前町と越前市)、鋳物師(いものし、南越前町)という地名は鉄に関するものである。地元には、不動山で鉄鉱石が採掘され栄えたという伝承が伝わる。『府中知行目録』(1590年)に「鋳物師村」の表記(いもし)がある。『角川日本地名大辞典Q福井県』 
 敦賀市にも気比の松原近くに鋳物師町(いもじ)があり、中世には鎌、鍬、鍬、梵鐘、幕末には大砲の鉄玉を製造した。

 島根県安来(やすぎ)市は良質の砂鉄を原料とする安来鋼の産地である。出雲地方は、古代より中国山地より得られるイオウやチタンなどの不純物がきわめて少ない砂鉄を原料にした
玉鋼の産地として知られる。鉄製品の製作途中でイオウやチタンなどの不純物を取り除くのは困難であるので最初からそれら不純物が少ない原材料を使う事が最高の製品を作る上で不可欠とされ、出雲の砂鉄が最も重用された。安来では古代から中国山地から採れるチタンの少ない砂鉄を原料にたたらを使って行うたたら製鉄の長い歴史を持つが、1925年(大正14年)日立が買収して日立金属株式会社安来工場として、製法を変え電気製鋼法による生産を行っている。
 現在、日立金属株式会社安来工場では、一般の鋼材よりもはるかに厳格な性能を求められる特殊な鋼材だけを生産していて同社
はカミソリの素材で全世界の40%以上のシェアを占める。ジレット、シック、ウイルキンソンなど、いずれも安来鋼である。  【安来鋼(やすきはがね)とは(外部サイト)
 
安来の玉鋼(たまはがね)はきわめて良質で日本刀を始めとする刃物用の素材としても全国に出荷された。武生の打刃物にも使われ、安来からの玉鋼(たまはがね)を運んだ時に使用した木箱が残っている。

 かつて岩手では純度70%に及ぶ餅鉄(もちてつ)を産出した事がある。不純物も少ない性質を持つ餅鉄(もちてつ。べんてつ、岩鉄とも言う。)による製鉄は砂鉄よりも少ないコストで良質な鉄製品を生産できるとされる。この地で1886年より新日鐵釜石工場が操業している。
 名刀・
正宗は岩手県久慈付近で産出する不純物の少ない砂鉄を原材料として生み出されたものである。
 また、鉄砲伝来の地として知られる種子島も古代より砂鉄を原料にした製鉄が行われていたとされる。


                鉄器と銅器の遺跡

 銅器の大量発掘は1984年に発見された荒神谷遺跡(こうじんだにいせき、神庭(かんば)荒神谷遺跡とも。島根県簸川郡斐川町(ひかわぐんひかわちょう))や南東に山を越えてその3km余り離れた所で1996年に発見された加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき、島根県雲南市加茂町岩倉)で見られ注目された。銅器や鉄器の大量発掘にはどのような意味があるのだろうか?
 弥生時代後期にかけて出雲
西部に「原イツモ国」が存在していた。しかし、それは4世紀以後の古墳時代に発展したいわゆる「出雲王国ではない。大量の銅剣が一括埋納されたのは弥生時代中期〜後期である。或いは古墳時代後期(6世紀後半)の可能性すらある。この大量銅剣の埋納は「原イツモ国」に迫った危機的な状況あるいは別勢力との交代に関わるものであろう。『古事記』『日本書紀』『出雲国風土記』から考察すると@ヤマト勢力からの圧迫、Aキビ勢力の進出、B現地の新興勢力(神門臣)などとの交替、C意宇(おう)勢力を中心とする出雲東部勢力からの圧迫である。埋納の目的は、隠匿、土地の守り神に対する祭器埋納、土中での保管、墓地への埋葬など様々な説が出されたが隠蔽のための埋納と考えられる。
                                            以上は『古代出雲』(門脇貞二、講談社学術文庫)に依る。
 出雲は古代より大和朝廷・天皇家との絆が強く、2005年9月に亡くなった北島英孝(きたじまふさのり、敬称略)は出雲大社北島国造家第79代出雲国造の地位にあった。2000年11月に亡くなったその妻・洋子は天皇のいとこにあたる。
       

 
弥生時代(紀元前300年〜西暦200年頃と考えられている。)は湿地帯での稲作をもとにした農耕生活が行われ青銅器と鉄器を使用していたが徐々に鉄器が重要視されつつあったと思われる。狩猟中心ではなく農耕中心の生活を送ることになったので、その土地に定住して集落を形成してゆき小集落の国家に発展したと考えられる。

 
集落遺跡「林・藤島遺跡」(弥生後期、西暦200年頃、福井市泉田町)で全国最多の出土数となる1000点を超える鉄器、鍛冶(かじ)跡が見つかった。坂井平野、福井平野から武鯖盆地まで鉄器を使った農業を行う集落に供給されていたのだろう。鉄は今でさえ大切な物であり、まして当時は最先端の武器、工具そして農具の原材料として貴重だった。この地域に発展した農業社会とそれを統率する有力な豪族がいたことを示す。しかし、なぜ貴重な鉄をわざわざ錆びやすい地下に埋めたのだろうか?
 弥生時代中期から後期にかけての福井の様子を記録したものはない。福井に『風土記』は伝わらず『古事記』も『日本書紀』もこの頃の状況を記録していない。しかし、魏志倭人伝(正確には『三国志』魏書東夷伝の倭人の条)が当時の列島の様子を断片的に伝えている。魏志倭人伝は 陳寿 (233〜297) の著述により3 世紀後半に成立。邪馬台国が存在した時代とあまり隔りのない頃に書かれた貴重な史書である。弥生時代は平和な時代ではなく、桓霊の間と言われたこの頃は「倭国大乱」の時代で、倭国は大いに乱れ各地で戦いが繰り広げられていた。それは、卑弥呼が統治した邪馬台国だけでなく広い範囲に広がっていた事は西日本の弥生時代の遺跡に見られる高地性集落の跡が戦闘的・防御的な特徴を持っていることからも伺える。同じように、この地方も激しい時代だったと考えるのが妥当であろう。そういった時代背景を考慮すると、錆びやすい状況の地下に貴重な鉄をわざわざ埋めたのはやはり隠蔽のための埋納だったのだろうか。様々な議論がある。

その被葬者は継体天皇の母の振姫(ふりひめ)やその兄の都奴牟斯君(つぬむしのきみ)など継体天皇にきわめて近い人であろうと推定されている。

参考になる資料          『北陸の玉と鉄 弥生王権の光と陰』(大阪府立弥生文化博物館)