発句とは短歌や連歌の出だしの五七五の部分をいう。江戸時代中期には発句の独立性が高まり新たな文芸として俳諧と呼称され多くの人に鑑賞されるようになった。
発句のことを俳諧と呼称されるようになったのは、想像だが俳謔(はいぎゃく)の俳と諧謔(かいぎゃく)の諧を合成して新しい文芸としたのではないだろうか。
俳謔は漢和辞典では「冗談、おどけ話」などの意味として掲載されており、諧謔は国語辞典では「おもしろい戯れ、言行の滑稽」などの意味として掲載されている。だから俳諧とは、滑稽、警句、寓話のような教訓、或いはウイットなども入った言語の娯楽といったような文芸ではなかっただろうか。
封建時代には言いたいことも自由に言えないから庶民は俳諧のような娯楽に楽しみを覚えたのではないだろうか。
子規が写生こそ俳句の本領であるかのように語るのは大いなる過ちでしかない。子規が提唱した俳句の写生論は、目の前にある自然の景色や事物を主観的な感情は一切込めず客観的に写生して共感や余韻を生じさせるというのである。
しかし、いくら客観的に眼前の景色や事物を言語で写生しても、写生という観点から語られる限り、寓話のような教訓や警句や共感やウイット等を織り込む事は無理な話しである。
例えば子規の、若鮎の 二手になりて 上りけりという絵に描いたようなきれいな俳句があるが、しかし、この句の何処に俳諧に必要な、滑稽さや、或いは警句、或いは教訓、或いはウイットなどの一部でもいいが感じられるようなものがあるだろうか。全く皆無である。若鮎の句のように、いくらきれいに詠まれても、何の表現も感じられないような句は凡句、駄句の類でしかないのである。俳句には無言の表現がありその無言の表現こそが松尾芭蕉のいう「謂応せて何かある」という言葉ではないだろうか。
「俳」という字を漢和辞典で引くと@しばい。戯劇 A役者。芸人とある。その他にもB廃するCうろつく。徘徊とあるが重要なのは@とAの意味である。元来は人を楽しませる行為に従事する人を言うのではないだろうか。私は俳諧という名称は滑稽や、警句や、教訓やウイット等で人を楽しませる文芸として俳諧と名付けたのではないだろうかと推測する。
だから写生こそが俳句の本領であるかのように提唱する子規の俳句論には到底納得できない。良くも悪くも「俳句」という言葉が人口に膾炙したので、いまさら名称を「俳諧」に戻すべきだとか言う気は毛頭ないが、俳句とは人に何らかの娯楽や感動を与えることが本領の短詩なのである。
もし正岡子規の俳句論が正しければ、子規が詠んだ24,000句の内、芭蕉や蕪村を上回る俳句がゴロゴロ存在しても良いはずなのに、99%以上が凡句や「ただごと句」の山であることを思えば子規のどこに俳句論を語る資格があるのだろうかと疑問すら湧いてくる。
俳人の森澄雄は「俳句の旅」という著作の中で、子規の作った18,000句(実際は24,000句)に及ぶ彼の写生による作品はおおむね陰影に乏しく、平板な第ニ流の作品が多かった、と記している。それは誰しもが感じる実感ではなかっただろうか。
子規の俳句に対する写生論は決して正論とは言えないが、多くの者が納得させられたのはやはりマスメディア(ホトトギスの発刊等)に従事している子規等の発言が重要視されたからではないだろうか。マスメディアによって喧伝された俳句の近代化は各方面から支持されて、俳句の改革として世間に広まり、俳句人口は目に見えて増えていったが、俳句の質は一つも向上せず却って低落しているように感じたのは私だけだろうか。
子規が俳句改革論を提唱したのが明治22年で、それから57年経った昭和21年に桑原武夫が「第二芸術」論を発表した。一言でいえば、俳人の大家と素人の俳句に差が無いほど大家たちの俳句の質が悪いといって侮蔑的に俳句を第二芸術と銘打ったのである。
私が、俳句改革が行われてから俳句の質が低落しているように感じたと言ってから、57年経ってそれが実証されたようなものである。俳句の質が悪くなったその原因は、俳句を詠む時に頭のどこかに子規が唱えた「俳句とは写生」の誤った改革論があったからではないだろうか。本来なら改革というものは良い方向に進んで行くのだが、悪い方向に進んで行くのはその改革論が間違っていたからに他ない。(この項不定期に続く) 一法無双
正岡子規の俳人としての真価 タクシードライバー乗客の美女に一句 一法無双の自選俳句 神の存在の証明(霊界からの証言)