しかし、芭蕉は俳句に慣用語を使うことを推奨している。慣用語とは2個以上の言葉が結びついて情景や光景が一瞬に表現できる便利な言葉である。慣用語を使うと俳句の質が一段も2段も引き上げられる場合がある。
「もらひ水」は慣用語で一瞬で物事の光景が理解でき、人口に膾炙したのもこの「もらひ水」という慣用語が一役買っていたと言っても過言ではない。
私の句に、妻と娘(こ)の向かひ炬燵で編みにけり、という句があるが「向かひ炬燵」という慣用語を使ったので含蓄と余韻が生じたが、これを「向かひ合わせ」で編みにけりとしたらただの何の意味合いも感じられない凡句になり下がったのではないだろうか。
正岡子規が「もらひ水」を「俗極まりて蛇足」というのは俳句を知らなすぎる文言としか思えない。
正岡子規は近代俳句を革新した人物で「近代俳句の祖」とか「近代俳句の父」とも呼ばれているが、芭蕉や加賀千代女の名句にダメだしするようなら、近代俳句革新の本家本元は二人を上回るような俳句を詠むべきではなかっただろうか。だが子規の俳句はほとんどが凡句や「ただごと句」の域を出ず唖然とするばかりである。
子規は生涯で24,000前後の俳句を詠んだというが、私はその内の100句前後しか見てないがほとんどが、含蓄、余韻のないような句ばかりで「ただごと句」のような俳句が大半だった。
正岡子規の俳句で私が良い句だと思うのは二つだけだった。
春や昔十五万石の城下かな 、この句は、作者の郷愁が感じられ含蓄と余韻も存在した。
行く我にとどまる汝れに秋二つ 、この句は、人にはそれぞれの秋が存在するのだなとすごい共感を覚えた。
どちらの句も芭蕉の言う「謂応せて何かある」に該当する名句と言える。しかしその他はほとんどが凡句ばかりであった。有名句の、柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺、の句も私には何の含蓄も余韻も浮かばない月並み俳句でしかない。子規はたまたま柿を齧った時に偶然に鳴った法隆寺の鐘の音を俳句のタネに感じたのかも知れないが、そんな物は俳句感性からいえばへとも思わぬ素材でしかない。その偶然をタネに俳句らしき言葉を並べても、当然、そんな句に含蓄や余韻が含まれるわけがない。
鶏頭の 十四五本も ありぬべし、の句も文字通りにしか受け取れず含蓄も余韻も何もない。俳句の質とは「謂応せて何かある」作品こそが最良であり、「謂応せて何もない」俳句は凡句、駄句の類でしかない。
ネットで見た正岡子規の句を掲げて見る。
若鮎の 二手になりて 上りけり
雪残る 頂ひとつ 国境
紫の 蒲團(ふとん)に坐る 春日かな
菜の花や 小学校の 昼餉(ひるげ)時
故郷や どちらを見ても 山笑ふ
汐干(しおひ)より 今帰りたる 隣かな
島々に 灯をともしけり 春の海
茗荷より かしこさうなり 茗荷の子
ずんずんと 夏を流すや 最上川
紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘
夏嵐 机上の白紙 飛び尽す
梅雨晴れや ところどころに 蟻の道
牡丹画いて 絵の具は皿に 残りけり
五月雨や 上野の山も 見あきたり
薄月夜(うすづきよ) 花くちなしの 匂ひけり
夕風や 白薔薇の花 皆動く
砂の如き 雲流れゆく 朝の秋
三千の 俳句を閲し 柿二つ
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり
糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな
をとといの へちまの水も 取らざりき
松山や 秋より高き 天主閣
雪ふるよ 障子の穴を 見てあれば
雪の家に 寝て居ると思ふ ばかりにて
障子明けよ 上野の雪を 一目見ん
日のあたる 石にさはれば つめたさよ
吹きたまる 落葉や町の 行き止まり
漱石が来て 虚子が来て 大三十日(おおみそか)
世の中も 淋しくなりぬ 三の酉
あたたかな 雨がふるなり 枯葎(むぐら)
毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは
春や昔 十五万石の 城下かな
おそろしや 石垣崩す 猫の恋
夏草や ベースボールの 人遠し
枝豆や 三寸飛んで 口に入る
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
痰一斗 糸瓜(へちま)の水も 間に合はず
鶏頭の 十四五本も ありぬべし
いくたびも 雪の深さを 尋ねけり
薪をわる いもうと一人 冬籠
雪残る 頂ひとつ 国境、の句が僅かに余韻を感じられるくらいで、その他のほとんどが私には凡句としか思えない。この他にも子規の俳句をほどほどに見たけれど含蓄、余韻のある俳句はほとんどなく「謂応せて何もない」俳句が大半であった。 一法無双
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