霊界から戻った勝五郎の話

 文政五年に国学者の平田篤胤が聞き書きした「勝五郎再生記聞」というのがある。この話はかの小泉八雲も世界に紹介している。以下はこちらのサイトから http://homepage2.nifty.com/pfruit/katsugoro/index.htm 転用したものである。

 去る文政五壬牛年十一月の頃、当時八歳だった勝五郎は姉ふさ、兄乙次郎と田のほとりで遊んでいた際、ふと兄に向かって「兄ちゃんは元はどこの誰の子でこの家に生まれてきた?」と尋ねた。兄が「そんなこと知るものか」と答えると、また、姉に向かって同じように尋ねた。

「どこの誰の子だったかなんてわかるわけないじゃないか。おかしな子だね」

 ふさは馬鹿にしたが、勝五郎はなおも得心しがたい様子だった。

「それなら、姉ちゃんは生まれる前のことは知らないのか?」

「あんたは知ってるの?」

「俺はよく覚えてる。元は程久保村の久兵衛という人の子で藤蔵という子だった」

「……なに、あんた。おっとうたちにいうからね」

 勝五郎は顔色を変え、泣きながら謝った。

「ごめん。頼むからいわないでくれよ」

「それならいわない。ただし、悪いことして止めても聞かないときは絶対いいつけるからね」

 こうしてその場は収まった。

 その後、勝五郎が喧嘩をするたびに「あのことをいうよ」というとすぐにおとなしくなった。両親、祖母が怪訝に思ってふさにそれは何のことかと尋ねたのだが、ふさは告げようとはしなかった。さては親に隠れてどんな悪いことをしているのかと懸念した両親らは、勝五郎に隠れてふさに強いて白状させた。ふさは隠しきれずにありのままを語ったのだが、両親らはますます膨れあがる疑念を抑えることができず、勝五郎本人をなだめたりすかしたりするなどして、ようやく口を開かせた。

 八歳の勝五郎が語るには、「俺は元々程久保の久兵衛の子でおっかあの名はおしづといった。俺が小さいときに久兵衛は死んで、その後に半四郎という人が来ておっとうになり可愛がってくれたが、俺は六歳の時に死んだ。その後、この家のおっかあの腹に入って生まれた」というのである。
 それからしばらくして、勝五郎がどうしても程久保村へ行きたいと言うので祖母は勝五郎の手を引いて程久保村を訪れたそうである。(程久保と中野村は山一つ隔てている。距離は約一里半。6kmほどである。)
 この家か、あの家かと見当を付けかねていると、勝五郎が「まだ先だ、まだ先だ」といいながら先に立った。「この家だ」勝五郎は祖母より先にある家に駆け入り、祖母もそれに続いた(これより先に勝五郎は「程久保の半四郎の家は三件並んだ真ん中の家で、裏口から山に続いている」と述べている。そのとおりだったという)。家の主人の名を問うと半四郎だという。妻の名も尋ねたところ、しづと答える。半四郎夫婦は、かねて人伝に聞いていたことではあるが、祖母の話を聞いてあるいは怪しみ、あるいは悲しみ、ともに涙に沈んだ。夫婦は勝五郎を抱き上げ、つくづくと顔を眺めた「亡くなった藤蔵が六歳の時によく似ているよ」勝五郎は抱き上げられながら向かいの煙草屋の屋根を指さした。「以前にはあの屋根はなかった。あの木もなかった」みなそのとおりだったので、夫婦はますます驚いた。
 
 霊界は本当に存在するのだろうか。勝五郎の話では、自身は存在するのだけど、人からは見えず、また人に話しかけても聞こえない様子だという。仕方なく、家に帰って机の上にいたが、そのとき、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人に「こっちへ来い」といわれるままに後を追い、どこともわからない段々と高い綺麗な草原に行って遊んだ。花がたくさん咲いているところで遊んだとき、その枝を折ろうとすると小さい烏が出てきてけたたましく威されたという。

 こうして、遊んでばかりいたのだが、例の老人と一緒に家の向かいの道を歩いていると(源蔵の家のことである)、老人がこの家を指して「この家に入って生まれよ」といった。教えられるままに老人と別れ、庭の柿の木の下に三日ほど立って様子をうかがっていたが、窓の穴から家の中に入り、竈の側にまた三日位いた。そのとき、おっかあがどこか遠いところに行ってしまうという話をおっとうとしていたのを聞いた。

(源蔵によればこれは勝五郎が生まれた年の正月のことで、ある夜寝間で「このような貧乏暮らしに子が二人いては老母を養うにも事欠く。お前は三月から江戸へ奉公に出るといい」と夫婦で話したことがあるという。このときには老母には話していなかったのだが、二月には告げ、三月になって妻を奉公に出したところ先方で懐妊していることがわかったため暇を乞い帰郷させた。孕んだのは正月で、月満ちて同十月十日に勝五郎は生まれた。このことは夫婦以外には知るはずがないという。懐胎したとき、生まれたとき、その後も特に不思議なことはなかったということである)

 その後、おっかあの腹に入ったように思うが、よく覚えていない。腹の中ではおっかあが苦しいだろうと思ったときは体を脇に避けたりしたことがあった。

 生まれたときはまったく苦しくなかった(程久保村で藤蔵が文化七年に死んでから六年目に当たる)。この他どんなことも四つ、五つまではよく覚えていたけれども、だんだん忘れてしまった」(以上、直話を聞き取り)
  
 さて、母せいは四歳の娘に乳を飲ませるため、祖母つやが毎晩勝五郎と添い寝をしていた。ある晩、勝五郎が「程久保の半四郎の家に連れていっておくれ。あっちの両親に逢いたい」と口走った。何を馬鹿なことをと、祖母は聞き流していたのだが、その後も夜な夜な同様のことをいう。

「それなら、ここに生まれたはじめから詳しく話してみい」

 勝五郎はたどたどしくも、これまでのいきさつを詳しく語り、祖母に約束させた。

「おっとうとおっかあ以外には内緒だよ」

(この話は四月二十五日に気吹能屋(いぶきのや。篤胤宅)で聞いた。かつてある人がつやに尋ねて書き取ったものがあるのを知っているが、これはさらに源蔵、勝五郎に経緯を尋ねて答えたものらしい)

「前世のことは四歳くらいまではよく覚えていたけれど、だんだん忘れてしまった。死ぬ病気ではなかったのだけれど、薬がなかったので死んでしまった(疱瘡だったことは知らなかったという。後日人にそう聞いて知ったということである。死亡年月日は文化七年二月四日)。息が止まったときはまったく苦しくなかったけれど、その後しばらく苦しい思いをした。それが過ぎると苦しいことはまったくなかった。

 体を桶に強く押しつけると、桶から飛び出してしまい、山へ葬りに行くときは白く覆われた龕(がん。ひつぎのこと。この場合はたぶん桶のこと)の上に乗って行った。桶を穴へ落としたとき、大きな音がして驚いた。いまでもよく覚えている。

 坊さん達が経を読んだけれども何とも思わなかった。ああいう奴らは銭金をたぶらかし取ろうとするだけで何の役にも立たないと気がつき、ひどく憎らしく思った(僧は尊いもので経を読み念仏を唱えれば良い国に生まれると聞くが、地獄・極楽は見たかと聞いたところ、このように答えた)。

 家に帰って机の上にいたが、人に話しかけても聞こえない様子だった。そのとき、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人に「こっちへ来い」といわれるままに後を追い、どこともわからない段々と高い綺麗な草原に行って遊んだ。花がたくさん咲いているところで遊んだとき、その枝を折ろうとすると小さい烏が出てきてけたたましく威された。いまでも怖かったのをよく覚えている(「中野村の産土神(※土地神)熊野権現でしょう」と源蔵は語った。烏が出たことについては何となく思い当たることがある)。

 また遊び歩いていると、家で親たちが何か喋っているのが聞こえ、経を読む声も聞こえたが、俺はさっきもいったように僧は憎らしく思っていた。供えられていた食べ物を食べることはできなかったが、温かいものはその湯気の香りが美味いと思った。七月に庭火(※かがり火)を焚いたときも家に帰ったのだが、団子などが供えてあった。 これが神の存在する証拠だ 未来予測法 エドガー・ケイシーの三つのリーディング

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