eoさんの旅ノート ネパールヒマラヤトレッキングの旅
ナムチェバザールまで タンボチェまで ディンボチェを経て帰路


ディンボチェを経て 帰路

yaku  
 今日はパンボチェで1泊の予定だ。
 無理のない行程なので、ゆっくりと、午後から出発。

 一旦、イムジュ・コーラの谷へ降り、川を渡ると、アップダウンのある緩やかな登りになる。
 まわりの様子がだんだん変わってくる。緑がほとんど見られなくなった。 乾燥した、ちょっと風が吹いても砂塵を吹き上げる、砂と石だけの道が続く。

 ヤクの群れと出会うことが多くなった。放牧中の移動だろうか、もうもうと砂塵をあげて通り過ぎてゆく。

 時々、人と出会うが、殆ど例外なく、溢れんばかりに枝を詰めた大きな籠を背負っている。 軽々と担いでいるようだが、やはり誰にとっても荷は重いのだ。 後ろから来て足早に私たちを追い越していった人が、前方で石に腰掛けて休んでいたりする。
 やはり大きな籠を背負って私たちを追い越していった女性が、前方で石に寄りかかって休んでいる。 ふとその顔を見て、私は、なんとなく驚いた。
 おそらく10歳からまだあまりいってないと思われる少女だが、 ほっそりとした、清楚な美しい顔立ち。
 しかし、なぜ、自分は驚いたのだろう? 人間の世界である以上、美しい人がいるのは当然で、 その美少女が、秘境ネパールの山奥で、溢れんばかりに枝を詰めた大きな籠を背負っていたとしても、不思議なことは何もないのだが。

 パンボチェでの夕食時、いよいよ明日到着予定の最終キャンプ地の話が出た。
 ペリチェ滞在の予定を変更して、ディンボチェに滞在することになった。
 ペリチェは診療所があるので有名だが、付近の展望の良い山へ登るにはディンボチェの方が有利、 というサーダーの提案によるものだった。
 私たちはディンボチェで2泊の予定。ディンボチェからは、Aさんが目指すアイランド・ピークも、Bさんが憧れているらしいチュクンも、ペリチェからよりは近い。

 ここパンボチェは高度ほぼ4000M。明日のディンボチェは4300M。よくぞここまで来たものだと、 私は一人感慨にふけった。

12月30日
 朝早く、雪男なる者(パンボチェは雪男の頭皮があることで有名だった)には目もくれず、 ディンボチェへむけて出発。

 これまでは、時々は人の姿を見かけたが、ここから先は、人の姿はパタリと絶え、そして、 むき出しの自然が姿を現わし始めた。 midori  

 川幅だけは大河となったイムジュ・コーラは、今は乾季であるために水量が少なく、深い部分は淀み、 その淀みが寒気のために半ば凍って、白い。
 川の水の、眼に沁みるほど深い濃い緑と、淀みの凍った部分の白とが織りなす、その模様と色彩の華麗さは、妖艶といっていいほどだ。息をのむほど美しい。
 氷河が溶けて流れてくる水が川となっているので、ここらあたりの川の水は緑色である。それも、 磨かれた宝石を思わせる艶やかな、濃い深い緑色。それが、 雪などの白い色と共に配色されるから、一層美しく見える。

下手な写真技術で、こういう色を再現するのは難しいですね。 実際は、もっと艶っぽく美しかった。


 自然が人間に見せてくれる、美しさとか、広大さとか、気高さとか。 人間が造ったものではない自然の、その見どころというのは、見る人によっても様々だろうが、 私は、自然の見どころの白眉といえるのは、”色彩 ”ではないかと思う。今、25年経って、 あのイムジュ・コーラの色彩の華麗さを思い出すだけでも、私はそう思う。

 イムジュ・コーラがU字型に削り取った広い深い谷を横に見ながら、 谷に沿ってつづく幅広い--もし、ここに草があれば、草原とよばれるであろう--平原を、 私たち、即ち、私、ツレアイ、シェルパ・タムディンの3人は歩いた。 Aさん、Bさんはずっと先を進んでいるはずだ。

 そこは、緩やかな勾配で上下にうねりながらつづく、石と土の原であり、ところどころに、 茶褐色の、枯れた芝生のような植物が地を這っているが、それは、 草というよりは無機物という感じだ。
 ところどころに、石を積み上げた低い塀に囲まれた地面があるが、それはジャガイモ畑であり、 石の囲いは放牧中のヤクが入り込まないようにするためだそうだ。 今はジャガイモの時期ではないので、石の囲いの中も、私たちが歩いている原と全く変わらない、 ただの地面だ。
 アマダムラムはその堂々たる姿で、真昼の陽光を受け、白く光っている。だが、 私たちが歩くこの平原には、地の果てかと思わせるような荒さがあり、 低い石の囲いだけが、ここも人の世界であることを思い出させた。

 どこまで歩いても私たち3人だけだったが、やがて、アメリカ人らしい、 大きなザックを背負った1人のトレッカーが、やはり大きな荷を担いだポーターを連れ、 私たちを追い越していった。パンボチェを出て以来、私達以外で初めて出会う人間だ。
 しばらく行くと、こんなところにと思うような所に、バッティー(茶店)がある。 さっきのアメリカ人?のザックが外に置いてあるので、彼等はここで食事しているらしい。
 そういえば、もう昼に近い。ディンボチェで昼食予定なのだが、Aさん・Bさんには、 私たちが到着するまで昼食がおあずけになるかも知れない。
 「先に昼食を摂ってくれるように伝えてくれ」と、 シェルパ・タムディンに先に行ってもらうことにした。彼はあっという間に見えなくなった。
 私達は、さあ、こんな所を急いで通過することはないとばかりに、気持ち良さそうな所で寝転んだりしながら、のんびり歩いた。

 やがて、イムジュ・コーラが2つに分かれている所に来た。 どうやら、ここがペリチェとディンボチェの分岐点であるらしい。
 ディンボチェは右の方向にある橋を渡っていくのだろうと見当をつけたが、 万一違っていたら大変だ。
 丁度いいことに、トレッカーがまたやって来た。今日出会う3人目の人物だ。 たった1人で、大きなザックを背負ってやってくる。ドイツ人のようである。道のことを尋ねると、 「あっちだと思う」と、私たちの考えと同じだ。
 私たちは右側へ、川岸を下り、橋を渡った。 曲がり角で、振り返って見ると、さっきのトレッカーも私たちを見ている。 私たちは手を高々と揚げ、大きく振って、別れた。

 次第に登りになってきたので、やれやれと座り込んでいると、 シェルパ・タムディンが突然現れたので驚いた。私たちの昼食を両腕に抱えて、戻ってきたのだ。
 戻ってきたくらいだからディンボチェは近いという思いもあり、少しホッとする。食欲は無かったが、せっかくもってきてくれたのだからと、蒸しパンを1つとって食べると、驚くほど美味しい。
 そこからディンボチェは近いと思っていたが、とんでもない。野越え山越え、はるかに遠かった。 いやな顔1つ見せないシェルパ・タムディンには感謝。

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 ディンボチェは小さな村だ。
 南側に、アマダムラム北面と、それに続く、氷と岩をむき出しにしたごつごつとした山々がある。
 北側には、ヌプチェ南面に続く、全体が焦げたような色の、少しなだらかだが、やはり5000〜6000Mの山々がある。
 ディンボチェは南北をその山々に挟まれ、 イムジュ・コーラの広大な河原のひとすみに、北側の焦げたような色の山の麓に、張り付くようにして、ある。
 雨季になると、大河となって巨大な水量でゴーゴーと流れるというイムジュ・コーラに、この村は無事でいられるのだろうかと思わせるような、小さな村だ。

 ↑写真の右方、最下部の薄いオレンジ色の点のようなもの(ワカルカナ?)が、私達のテント群。一点のように見えるが、いくつかのテントのかたまりです。

 夏にヤクの放牧地として使われている村だということで、石の囲いと、 それに毛が生えた程度の小さな石の家があるだけで、今は、人の姿は全くない。

 Aさんは頭痛で寝込んでいる。Bさんはアマダムラム北面にある氷河湖を見に、登っていった。
 日が暮れるにつれ、私の毎夜の訪問者である頭痛が、今日は特に激しく、夕食も摂らずに寝込んだ。 鏡で顔をみると、他人の顔がそこにある。顔はドッジボールのように真ん丸で、 目と口のところだけ切れ目のような線がある。幼児が描くお月様の顔そのままだ。 せっかくの美貌が台無しではないか。余計に気落ちして寝込んでしまった。
 翌朝早く目覚め、久しぶりに"その気"になって起き出し、用を足す。 身体に溜まっていた水分がたっぷり出たのでホッとした。これで大丈夫。身体に溜まっている水分を排出すること、これが高山病改善の初歩だそうだ。

12月31日
 今日は、展望が良いという、北側にある無名峰(ほぼ5500M)に登ることになった。
 Aさん、Bさんは朝食後すぐに出発。私たちはのんびり登るつもりで、 昼食は要らないからとビスケットとお茶をもらって、ゆっくり出発。Aさん、 Bさんは昼食までに下りてきて、午後からはまたそれぞれの予定がある。 peri  

 ゆっくりだが頑張って登ると、じきに展望の良い所に出た。
 右に、真っ白の氷の河が見える。ロブチェ氷河の端だ。
 左に向かって、全体が枯れたような色合いのペリチェの深い谷を挟んで、 タウチェの堂々たる姿がある。岩肌は薄茶色で、上の方、真っ白の雪(氷?)で覆われた部分が、 ほぼ垂直に天に向かって伸びている。

 イムジュ・コーラの広い河原を挟んだ向かい側には、 アマダムラム北面とそれに続く山々が美しいヒマラヤ襞を見せている。
 そのほぼ左側には、ここから見える唯一の8000M峰マカルーが見える。まわりの純白の峰々の中にあって、 それだけが紫がかった淡いピンク色をしている。夢を誘うような、何ともいえない淡い美しい色。
 マカルーの左には、アイランド・ピーク。頂上部分だけ見えるので、 ふんわりと雪を被って丸っこい姿は雪うさぎのようだ。 (沢山ある写真の中で、どれがここの写真か分からず、掲載してません。すみません。)

 ここは高度ほぼ4700M。
 まるでここに座れと云わんばかりの岩があったので、 座ってゆっくり眺めていると、ツレアイが前進を促がした。その時、思いがけず、 「もうこれで充分だ。私はこれで満足だ」という声が、私の身体の中から湧き起こった。 高山病症状がこう言わせたのだろうが、また、野次馬の物見遊山としても、 充分に満足の域に達していたことも確かだ。
 私だけ、そこに残った。

 ベッドのような平たい大きな岩にごろりと横になって、晴れ渡った青い空を眺めていた。 少し眠ったのかも知れない。突然、黒い影が近づいたような気がして、ギョッとして飛び起きた。 ものすごく大きな鳥が、私のそばをかすめていったようだ。私の身体の3,4倍もありそうな大きな鳥だ。 一瞬、襲われるのでは、という恐怖感もあったが、その鳥は、私のほぼ真上、ずっと高くを、 ゆっくり大きく旋回し、アマダムラムの氷河湖があるという方向に、ゆうゆうと姿を消して行った。

 夕食の席では、前進行動の全てが終わったという安堵感もあり、全員がくつろいだ。
 Bさんは、午後からチュクンへ行ってきたそうだ。とにかく、Bさんはそう主張した。ところが、 サーダーは「そんな筈はない。そんな短時間でチュクンまで行ける筈はない」と信じない。Bさんが、 「撮った写真を送ろう (当時、撮ってすぐに写真が見れるデジタルカメラはまだ無かった)。 それを見ると信用する筈だ」と譲らないと、 「写真は細かい部分を大きく引き伸ばせば、何とでも言える」と、まるで信じない。
 このサーダーには、単なる道案内のシェルパというよりプロの登山家という雰囲気があったが、 聞くと、彼は、植村直己のエベレスト行きに同行したシェルパの1人だったそうだ。これが、 彼のシェルパとしての誇りでもあったようだ。  いずれにしても、Bさんには気の毒だったが、Bさん以外の者には、 聞いていて大変楽しい会話のやり取りだった。
 今日は大晦日、とチラと頭をかすめたが、遠い世界のようにそれは通り過ぎた。

1月1日
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 今日からは帰路となる。

 ペリチェへまわってみた。

 U字型に大きくえぐられており、 ペリチェ全体が氷河の巨大な足跡だということがよく分かる。

 荘厳な雰囲気をもった、素晴らしいところだ。トレッキング客がここをキャンプ地にすることが多いのも充分理解できる。
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 パンボチェを過ぎたあたりで、1人の老人が大きな岩に張り付くようにしている。 マニ石に刻まれた文字の白い色を塗り直しているようだ。
 これは写真の良い被写体になるぞ。 老人は私たちには全く気付かないようだが、黙って撮っても悪いだろうと、ちょっと声を掛けた。 すると、驚いたことに、彼はするすると岩を滑り降り、岩の横に立って、そして、 いともにこやかに微笑んでみせたのだ。七福神のほてい様のような、絢爛たる微笑で。  マニ石で作業している姿を撮るつもりだったので、一瞬あっけに取られたが、 私も思わず引き込まれて微笑し、その絢爛たる微笑をパチリ。
 済むと、彼はまた、岩をするすると登り、 それ以後は私たちには全く注意を払わず、一心に作業を続けた。

 残念! 写真がブレている。 つられて微笑した時に、カメラをもつ私の手がブレたのだろう。
 しばらく歩くと、彼の姿をずっと下に見下ろす位置に来た。白い高い峰々に囲まれた深い谷間に、マニ石と彼の姿があった。アマダムラムもエベレストもローチェも、周りの全ての峰々が、その姿を見下ろしているようだった。

 この日はタンボチェで1泊。
 ここにはタンボチェ・ゴンパがある。タンボチェ・ゴンパはチベット仏教の寺院である。
サーダー(シェルパ頭)の息子の1人がここで僧をしているということで、寺院内部を見せてもらった。内部が薄暗かったという記憶だけある。

1月2日
 今日は、ナムチェ・バザールへ。Aさん・Bさんはクムジュンへまわる道を行き、私たちは、 私の体調をまだ心配しているサーダーの勧めで、往きと同じ道を行った。美しいアマダムラムを最後に振り返り見て、ナムチェの村へ。サーダーの自宅で1泊。

1月3日
 今日はトレッキング最終日。ルクラへ向かう。
 滑り落ちそうな急坂を降りてゆく。往きに登ったのはこんなにすごい坂だったのかと驚く。
 昼食のカレーが美味しかったので、あっという間に一皿全部たいらげると、 コック・シェルパが目を丸くして見ている。そういえば、これまで、 彼はずっと私を変な顔でみていたのだ。私が食べないのは、 彼の料理はまずいと私が思っているからだと、彼は思い込んでいたようだった。いやいや、 それは誤解ですよ。私は高山病症状で食べられなかっただけ。ルクラを出て以来、 私がまともに食事を摂ったのは、実に、この昼食が初めてだった。

 ルクラに着いてみると、カトマンズ・ルクラの飛行機便が今日は1便だけ来たが、 積み残し客があるという。ちょっと心配になる。
 翌日、予感の通り、私たちグループは第2便にまわされる。1便でも飛べばいいが、というのに第2便とは、今日はあきらめろということか。今日もだが、明日も、カトマンズから飛行機が来るという保証はない。 明後日だって-----。不安に思い始めれば、きりがない。

 しかし、最後まで、ヒマラヤの神々は私達に微笑み続けた。
 第1便機がカトマンズ空港を離陸した合図のサイレンが一帯に鳴り響くと同時に、 私たちグループも第1便に乗せると知らされた。積み込み予定の軍隊用テントをやめて、 人間をできるだけ多く乗せることにしたそうだ。

 私たちを乗せたプロペラ機はルクラ飛行場を飛び立った、と思いきや、 まるで地に吸い込まれるように、 身体がズズズーっと、急激に下に落ち込んでいくのを感じた。なんと、 飛行機は急坂を滑り落ちていくのだ。 滑走路が短いので、ノルディックのジャンプ・スキーよろしく、急斜面を無制動もどきで滑り降り、 はずみをつけて、空中に飛び上がるのである。何となくスリルもあって、楽しかった。

 さようなら、ヒマラヤの山々。再び見ることはないだろうという思いで、機窓から白い山々を眺めた。
 しかし、「ゴーキョからの展望は素晴らしい」というサーダーの言葉を胸に、 私たちがここヒマラヤを再び訪れたのは、この2年後だった。

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