eoさんの旅ノート ネパールヒマラヤトレッキングの旅
ナムチェバザールまで タンボチェまで ディンボチェを経て帰路


ナムチェバザールまで

1981年12月〜1月
 年末年始に休暇をとって、ネパールヒマラヤを旅した。いわゆるトレッキングの旅だ。 大阪のアルパイン・ツアー社のツアーを利用。
 ネパールのトレッキングコースはいくつもあったが、 せっかく行くのだから、できれば、世界の最高峰エベレストを見られるという、エベレスト・コースを歩きたい。
 私たちが選んだコースは、ルクラからナムチェ・バザールを経て、 エベレスト・ベースキャンプの入口にあたるペリチェまでトレッキング、というのが目標のコースである。

12月23日
 大阪からバンコク経由で、ネパールの首都カトマンズへ。
参加者は私たち2名を入れて4名。 他の2名は私達の連れではなく、それぞれ1名参加。とりあえず、Aさん・Bさんとよぶことにしよう。
カトマンズ

 

 山に関して殆ど初めてというのは私たち2名だけ。Aさんは登山家で、 近く登山隊を組んでヒマラヤ(アイランド・ピーク)登山をするための下見。

 Bさんは、山でも海でもどこでも旅行しまくっているという、いわゆる旅のベテラン。 旅を身軽にするために、靴の紐まで細いものを選んで着けている、というのには驚いた。
 参加者4名なので添乗員はいないが、飛行機・宿の手配はもちろん、 トレッキング中のシェルパの手配などもツアー社が行なう。
 トレッキング中に必要なもの…テント、寝袋、食料品などなど…も私たち客が心配する必要はないし、道案内はじめ道中のすべてを案内(采配?)するシェルパは勿論、コックもいる、 荷物運びのシェルパもいる、ということで、いわゆる大名旅行になるはずである。
  上の写真は30年前のカトマンズの街なか。今も変わらないだろうか。

12月24日
 バンコクで1泊の後、翌日午前中にカトマンズ着。燦々と日が差して明るいが、ひどく砂っぽいのが、 ネパールへ来たというのを、いかにも感じさせる。
 空港から宿への送迎バスに乗り込もうとすると、私達が乗り込むそばで、少年がバイオリンを弾いている。迎えにきた日本人現地ガイドに「何故、バイオリン弾いてるの?」と聞くと、「何もしないでお金もらうの、むずかしいでしょ。」
 カトマンズで1泊。

12月25日
 朝、ルクラ行きの飛行機に乗るべく、カトマンズ空港で待つ。
 実は、昨日カトマンズに到着した途端に聞かされたことなのだが、 カトマンズ・ルクラ間の飛行機はこの数日飛んでいないのだそうだ。 同じ待合室にいる他の日本人4人グループは、この3日間、この同じ場所で、 ルクラ行きの飛行機をずっと待っているという。
 何となく気持ちが暗くなる。更に不安なのは、第1便が飛ぶかどうか問題だというのに、 私たちの予約便が第2便であるということだ。乗れない可能性を見越して、私たちの日程にも、 飛行機待ちのための予備日がちゃんと組んである。やれやれ。

 しかし、このような事態は、出発前から、ツアー社から耳にタコができるほど聞かされていた。
 カトマンズ・ルクラ間の飛行機は、ヒマラヤ山地の不安定な気流のために、 飛んだり飛ばなかったりということらしい。エベレスト・コースを目指してネパール入りしたが、 ルクラ行きの飛行機に乗れなかったために、ポカラ行きに変更、という例は珍しくなかった。 実は、私たちがトレッキングを終えてカトマンズに戻ってみると、ホテルでツアー社の係員から 「ここではエベレスト・コースに行ったことは内緒にしてね。」と言われた。聞くと、そのホテルに 滞在する日本人客2,30人がルクラ行きの飛行機に乗れず、ポカラ行きに変更して、 今ポカラから帰ってきたところだという。
 だから、「できればエベレスト・コースを歩きたい」というのは ルクラ行きの飛行機にうまく乗ることができれば、ということである。

 ところが、突然、私たちの搭乗便が第1便に変更されるという連絡があり、しかも、 その第1便はルクラへ向けて飛び立ったのである。
rukura

 小さなプロペラ機の座席ではしゃぐ私達の横に、空港で3日間待ったという日本人4人グループの、 嬉しさを噛み締めたような寡黙な姿があった。
 思いがけなく、私たちの胸にヒマラヤへの思いが大きく膨らみ、 機窓に見えるヒマラヤの白い峰々は躍るように美しかった。
 あっと言う間に、ルクラ着。
 山の中のちょっとした台地にある飛行場だ。滑走路らしきものはない。飛行機の姿がなければ、 ここに初めて来た人で、ここを飛行場と思う人はいないだろうな。管制塔は? 台地の一角にたっている、 小さな木造の2階建ての2階部分を指差し、あれが管制塔、という。なるほど。そういえば、 窓が大きい。

ルクラ飛行場

 ルクラで昼食を済ませ、今日のキャンプ地パグディンへむけて出発。
 同行はシェルパ2名、コック1名、ポーター2名、 ポーター代用のゾッキョ(ゾウとも云う。牛とヤクとの合いの子)3頭。
 シェルパ2名は親子であるという。父親がサーダー(シェルパ頭)。鼻が素晴らしく高く、 目鼻立ちがはっきりした、秀麗ともいえる顔立ち。中東の血が入っているのだろうか。 日本人に似てもっさりとした顔立ちの多いネパール人の中では特異な感じだが、日焼けで真っ黒な顔は さすがにネパール人だなと思わせる。その息子である、もう一人のシェルパは、 年齢は日本では高校生くらいか。父親に似て、ちょっとした美少年である。

 だらだらと続く田舎道。きついアップダウン。ルクラでは晴れ渡っていた空に、 次第に灰色の雲が拡がってくる。何となく胸が息苦しくなってきた。
 ふつう、ヒマラヤ・トレッキングをしようという者は、山が好き、山歩きが好きという人々だろう。 私たちがヒマラヤに来たのは、しかし、特に山が好きだからということではなかった。 山歩きの経験もほとんど無いに等しかった。山歩きとか、 ヒマラヤ山地の状況とかについて大した予備知識もない状態でヒマラヤ山地に乗り込んだ私を 最初に迎えたのは、カルチャーショックというようなものだった。

 この2年前に、私たちは北米・アラスカへ旅行した。これが私たちにとって初めての海外旅行だ。 泊まる宿は、夏休みで学生がいない、フェアバンクス大学の学生寮。現地での移動は、 やはり夏休みで小中学生がいないので空いているスクールバス、という格安のパックツアーだった。
 旅行代金は格安だったが、目の前に広がるアラスカの自然は、どうしてどうして、 格安なものではなかった。殊に、マッキンレー国立公園---これは当時の云い方。現在は、 現地の名をとってデナリ国立公園という---の、氷河に削られた広大な渓谷の、荘厳なまでの美しさは、 息を呑み、言葉を失うほどだった。「これほどまでのすごい景色が見られるのは、あとは、 アフリカかヒマラヤぐらいだろうね。」というのが、海外旅行初体験の私たちの一致した感想だった。勿論、 アフリカもヒマラヤも、私たちはまだ見たこともなかったのだが。
 この初海外旅行以来、その名を「旅」という魔物が私たちに取り付いた。何かに憑かれたように、 その1年後に、私たちはアフリカへ旅した。
 ケニアでのサファリツアー。  360度に見渡せる地平線。早朝、薄暗いマサイマラ大草原の、 オレンジ色に染まった朝靄に浮かぶ無数の野生動物の幻想的なシルエット。などなど。 アフリカは私たちの期待を裏切らなかった。
 そして、当然のコースであるかのように、私たちが次に選んだ旅行先がヒマラヤ、つまり、この旅である。 だから、私たちがヒマラヤに来たのは、山が好きだからというわけではなかった。 素晴らしい景色だと聞けば行って見たがる野次馬の物見遊山の旅の、アラスカ、アフリカと続いた、 その延長線上に、ヒマラヤがあったというだけのことだった。

 だから、トイレらしいトイレが無いというようなことが憂鬱だった。はっきり言って、トイレは無かった! 当然、用をたす時は、そこらへん、他人から見えない場所を物色する。
 ルクラでの昼食で、 茹でたジャガイモ(素晴らしく美味)の皿の端に小さなワラが付いているのを見ただけで、 気持ちが落ち込んだ。
 「私たち」とは、私と、私のツレアイとの2人を指すが、 ツレアイはこんなカルチャーショックにはどうやら無縁のようだった。Aさん、Bさんも無縁。 私だけが"居心地の悪さ"に苦しんだ。ツレアイは、こんな私に「帝国主義者」という別名をつけた。
ドート・コシ  

 

 かなりの道のりを歩いたところで、「あれがドート・コシ」の声。

 見下ろす谷間に、 緑色の水にミルクを流したような美しい川がゆったりと流れている。
 その淡い優しい色合いが何だかうれしい。 ホッとする。
 ドート・コシという川の名まで、なんて優しい名前だろうなどとしきりに思う。
 気分が妙に感傷的になっているようである。心理的に少しまいってきたようだ。

← ドート・コシ川

 最初のキャンプ地パクディンに着く。
 吐き気を感じ、それに頭痛が加わる。食欲全くなし。
 ここは高度2600M、高山病になるような高度ではないが、これではまるで高山病だ。
 食事もほとんど摂らずに寝袋にもぐりこんだ。「情けない」という意識だけはあった。

12月26日
 宿泊は、通常はテントだ。一度だけ、帰路に、建物の中(サーダーの自宅)に泊まったが、 あとは全部、テント泊まりである。
 私達がその日のトレッキングを終えて目的地へ着くと、そこでは既に、 それぞれのテントが張られ、私達を待っている。

 当時、私達が行ったコースに、いわゆる一般の宿泊所といえるようなものは無かった。 全く無かったのかどうかは自信ないが、少なくとも、私達の目に付くような場所には無かった。 シャンボチェのエベレストビューホテルは既にあった(建築中だったかも知れない)が、 私達のコースではなかった。
 だから、シェルパ等知人の家に宿をとる以外は、テントで寝るしかない。これが当然のことだった。 pagdin  

 朝のパグディン。 シェルパ達が出発の準備をしている。

 谷底にあるパグディンはまだ薄暗いが、見上げる山はすでに、まぶしく明るい。

 私達客?はテントを利用するが、通常、シェルパ達はこのような小屋を、 作業や寝泊りに利用する。
 だから、私達客用のテントは、 このような小屋が近くにある場所に設営されるのがほとんどだ。
 朝、目覚めると、シェルパが、顔洗い用の湯がはられた洗面器をテントまで運んでくれたが、ただし、 これは最初の宿泊地パクディンだけで、後は、湯が張られていない、空の洗面器だけを運んでくる。 実は、前夜、就寝前に、各自の水筒に熱湯を入れ、その水筒を寝袋の中にいれる。つまり、 水筒を湯たんぽとして使うわけである。乾季とはいえ、真冬のヒマラヤ。日が落ちると、非常に寒い。 だから、この湯たんぽは嬉しかった。 翌朝、湯たんぽの湯は、顔洗い用に適温に冷めている。勿論、洗面器にこの湯を入れて、使用する。

 朝、ボーっとした顔で食事場にいくと、ツレアイ・Aさん・Bさんの3人は、あきれたような顔で私を見た。
 今日はいい天気だ。食欲はまだ無いが、朝の冷気が心地よい。
 まだ陽も射していない谷底から、ずっと上の方、朝陽に輝く峰をまぶしく見上げながら出発。 今日はナムチェ・バザールまで行く。
 道はドート・コシに沿ってアップダウンを繰り返したが、ここは上高地とか、ここは大台ケ原とか、 なじみのある景色を思わせる、なので、少し心をなごませる風景が続く。
 殆ど常に、Aさん・Bさんは私たちより先を進んでいた。出発地点と到着地点以外で、 Aさん・Bさんを見た記憶はあまり無いといっていい。ツレアイは仕方なく私と行動を共にする。 私たちがしんがりだから、シェルパ1名が常に私たちと一緒だ。大抵は、息子の方のシェルパで、 名はタムディンといった。

 このトレッキング中、他のトレッカーに出会うことはほとんど無かった。
 ルクラを出発してからルクラに戻るまでの間に、 出会った日本人はただ一組(平山郁夫氏夫妻と思われる)だ。 カトマンズからの飛行機で一緒だった日本人4人グループは、恐らく、ずっと速いスピードで進んでいて、 また、私達とはコースが違うのだろう。二度と出会わなかった。 ナムチェバザールへのコースの途中で、降りてくる数人の外国人トレッカーを見たような気もするが、 はっきりとは覚えていない。とにかく、あのカトマンズ・ルクラ間の飛行機で運ばれる人数を考えると、 エベレストコースでのトレッカーの数が少ないのも不思議ではない気がした。

 チョーザレで昼食。カレーを半分食べた。
 ここからナムチェ・バザールへの登りが始まる。
 旅行社のカトマンズ駐在員からの「ゆっくり、ゆっくり。気が付いたらナムチェ・バザールに着いていた、という位にゆっくり登れ」のアドバイスに忠実に従うことにした。
 自分にはよく分かりもしない植物 (花といえるようなものはなかった)をかがみ込んで眺めたり、 意味も無く立ち止まってまわりをキョロキョロ眺めたり、一体オマエは進む気があるのか、 と言われそうな位ゆっくり登った。そのせいか、気分は爽快。
 今日は土曜日。ナムチェでバザールが開かれる日だ。その帰りだろう。多くの人にすれ違う。
 私が石に腰掛けて、通る人々を眺めていると、坂道を下ってくる人が殆ど例外なく、 不思議そうな顔をして私を見てゆく。時には、5・6人が同時に立ち止まり、 妙な顔をして私の顔をじっと見つめたり、時には、びっくり仰天、 驚きのあまりひっくり返らんばかり(大袈裟に書いているのではない)の人までいるのだ。 私はわけも分からず、次第に不安になってきた。ところが、立ち止まって私を眺めた一人が、 自分の顔の眉のあたりに、手をひさしのように当て、それをピコピコと動かして、ニッと笑ったのだ。
 わかった! 私は眼鏡をかけており、そのレンズの上に、グラスだけのサングラスを着けていたが、 木陰で休む時などはそのサングラス部分を、眼鏡にかかるひさしのように上げていた。 その「ひさし」が皆を驚かせたらしい。 ふううん。そうか。 これは彼らにとっての、 ちょっとしたカルチャーショックというわけか。しかし、その驚きの表現は、私たちには新鮮だ。 こちらまで、心が和んでくる。

 気持ちも軽やかになってきた。坂道をキャッキャッとはしゃぐような調子であがっている途中で、 降りてくる日本人の男性と、続いて女性とすれ違った。 その男性が「ホオ、日本人!」という感じで私たちをチラと見ていったのが印象に残っていたが、 それは、その眼差しと風貌を、どこかで見たことがあるような気がしていたからだ。帰国して間もなく、 新聞のコラムに掲載された、画家平山郁夫氏のヒマラヤ紀行文をみて、 ナムチェ・バザールへの登り坂ですれ違った人たちは平山郁夫氏夫妻だったのではないかと思う。
松  

 初めてエベレストが見えた。
 青い空に白煙を吐くように真っ白い細い雲をなびかせているその山は、しかし、遠くて小さかった。
 坂道を更に登ると、エベレストの展望のよいところに出る。
 やはり、遠くて小さな山だ。あれが世界の最高峰エベレストと聞かなければ、何とも思わないだろうな。
 座ってしばらく眺めていて、眼の前にある松の木に、ものすごく大きな松ボックリがついているのに気付いた。なんと、人間の頭ほどもある。ひょっとすると、これは世界最大の松ボックリかも知れない。
 エベレストを背景にして世界最大の松ボックリの写真を撮った。

松ぼっくり(分かるかな?)の向こうに、
 白煙(ジェット気流)をはくエベレストが見える

 坂道の途中で、今度は老婆が私に話しかけてきた。非常に上機嫌、満面の笑顔、身振りも大袈裟に、立て続けに何かしゃべりまくるのだ。勿論ネパール語?なので、私にはさっぱり分からない。 「あれまあ、あんた、よく来たねえ。ご機嫌さん。あたしゃ、あんたに会えて嬉しいよ、、、、、。」とでも言っているような調子。そして、突然、私の腕をつかみ、一緒に行こうと言わんばかりに、ぐいぐいと急坂を引きずり下ろそうとする。せっかくここまで登ってきたのだ。ここで引き下ろされてたまるものか、と私は必死に手を振りほどいた。
 終始ニヤニヤして見ているだけだったシェルパ・タムディンがやっと、「酔っ払ってるんですよ」と言う。それにしても、強い力だったなあ。

 ナムチェ・バザールが遠くに見えてきた。
 そそり立つ山、というより、途方もなく大きな岩といった感じのものが前面にある。 久しぶりに荒々しいものを見る思いがする。
 ほぼ頂上からずっと下の方まで、 ごつごつした岩を断ち切るかのように、垂直に氷の滝のようなものが張り付いている。 「あれは、滝が凍ったものか?」とシェルパ・タムディンに聞くと、 「滝ではない。寒いから雪が凍ったのだ」と言う。あんな垂直な場で、 どうして雪があんな凍り方をするのかなと思う。何となく、日本にはない凄さといったものを、ここヒマラヤに来て初めて感じた。

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ナムチェバザールまで タンボチェまで ディンボチェを経て帰路