eoさんの旅ノート ネパールヒマラヤトレッキングの旅
ナムチェバザールまで タンボチェまで ディンボチェを経て帰路


ナムチェバザールからタンボチェまで

 ナムチェ・バザールは、見えてからそこに着くまでが長い。
 「遠いなあ」などと思いながら歩いていると、次第に気分が悪くなってきた。
 ナムチェ・バザールのキャンプ場所に着いた途端に、激しい嘔吐。続いて、 激しい頭痛。ここは高度3400M。今度は立派な?高山病だ。

 頭痛薬で頭痛を抑えて、少しふらふらする身体で夕食の席につく。テントではなく建物の中で、 ちょっとだだっ広い部屋。公民館のように使われている部屋かも知れないが、床は板張りで、 何も置かれていない。裸電球が1つ、天井からぶら下がっている。
 食事を囲む私達4人の正面にサーダー(シェルパ頭)がどっかりと座り、私たちを見渡しながら、 「ナムチェ・バザールに電気がきたのだ」とちょっと誇らしげに言う。 ナムチェ・バザールにあるただ1つの電気の灯りが、この裸電球なのだった。
 食欲は無く、私が食べたのはモモ(餃子に似ている)1個とミルクティ1杯。 グループの3人が心配そうに私を見る。なにしろ少人数のグループなので、 シェルパを2つに分けるわけにはいかない。だから、統一行動をとるしかない。ということは、 先へ進めない者が1人でもいると、全員が先へ進めないことになる。「大丈夫。行けそうですよ」 と口に出して言うと、本当に行けそうな気もしてきた。

ナムチェバザールの朝  西側の山(コンデ・リ)がまず明かるくなる namuche

12月27日

  朝早く起きて、三脚を出し、カメラを据えてみる。

 ガソリンの殆ど入っていない私の身体は、 まるで何かの抜け殻といった感じで虚ろだが、朝の冷気が気持ちいい。 冷気に当たるだけで生き返るようだ。

 しばらくレンズを覗いていて、ふと気付くと、すぐ近く、 私と1メートルほどしか離れていない所にチベット人が立って、私をじっと見ている。
 いかにも堅そうな黒い長い髪。色黒というより褐色の精悍な顔立ち。見た瞬間に、チベット人だ、 と思った。
 私はこれまでチベット人を見たこともないし、知っているわけでもない。しかし、「チベット人だ」と思ったのだ。

 彼が私をじっと見つめるので、私も彼に気付いたままの視線で彼を見つめ、彼が視線をそらさないので、私たちはそのままじっと見つめ合うことになった。
 彼の視線には、好奇心も、媚びも感じられない。かといって、鋭い視線でも決してない。 はっきり言えるのは、彼の視線に躊躇の色というようなものが全くなかったことだ。 手を伸ばせば触れるほど近くにいるということよりも、その---躊躇の色がない---ことの方が私を恐れさせた。私は黙ってその場を離れた。
 しばらくして戻ると、ただカメラがポツンと立っているだけだ。カメラに興味があったのかな。なら、 レンズを覗かせてあげれば良かったのかな。または、ひょっとして、 彼はチベットからはるばるナムチェのバザールへやってきたが、 これまでチベット人・ネパール人以外の人間を見たことが無かったのかな。
 どちらにしても、そのチベット人の姿はもう何処にもなかった。

 当初の予定では、今日の泊まりはプンキ・テンガ(3250M)、翌日はタンボチェ(3867M)で1泊、 のはずだったが、変更することになった。
 プンキ・テンガで昼食にし、今日のうちにタンボチェまで行き、そこで2泊する、というものである。私の顔色を見て、タンボチェで高所順応の時間を長くとろうと考えたサーダー(シェルパ頭)の提案だった。

 パスポートチェック所を過ぎ、丘の上にあがると見晴らしがよい。 左には、クムジュンへの道がつづく小高い丘。右には、初めて見る、広々としたジャガイモ畑 (今は、何も植わっていない)。真っ青な空。私たちが今日初めて触れる、明るい朝の陽光がまばゆい。
 クムジュンへとつづく丘と広いジャガイモ畑とを仕切るようにして、 プンキ・テンガへの細い道がつづいている。
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 左の丘の中腹を、
 こぼれんばかりの荷を背にのせたヤクが
 こちらへゆっくりと歩いてくる。

 ネパール帽の農夫?がヤクのそばをゆっくり歩いてくる。

 空はひときわ高く、青い。
 のどかな風景だ。
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 急勾配のV字型につづく谷を見下ろすようにしてそそり立つ山々

 写真は、左から タウチェ ヌプチェ、正面の真ん中に、エベレストがその頂きを見せている。
 更に右に、ローチェ、最も右に、アマダムラム
 この写真にはないが、更に右手に、カンテガ、タムセルクも。
 いずれも、世界に名だたる高峰が連なる。ここから見るヒマラヤの山々は、威厳もあるが、 少し小さいし、荒々しさがそれほど感じられないだけに、とても品が良く見える。 山好きの人には、贅沢なほどの景色だろうな。

 見下ろすのが怖いような、イムジュ・コーラが流れる深い谷。その左手の中腹を、プンキ・テンガ、そしてタンボチェへとつづく細い道がうねってすすむ。

 山腹をうねって進むこの細い道のアップダウンはきつかった。身体がだんだん重くなり、 歩いている時間より休憩する時間の方が長くなってくる。とうとう、 私は道端の大きな岩の上にごろりと横になってしまった。
 横になると、実に気持ちいい。ここは、アマダムラム、 エベレスト等が手で触れることができるような感じで見える、恰好の昼寝場所だ。 このまま2、3時間昼寝できるとどんなに幸せだろう。
 しかし、ナムチェ・バザールからここまで、私は既にかなりの時間を費やしている。 プンキ・テンガでの昼食のためには、昼寝などする時間はない。私を特に心配してだろう、 今日はサーダー(シェルパ頭)御みずからが私のお供だ。彼が 「今日はプンキ・テンガ泊まりにしてはどうか」と言う。 タンボチェまで頑張るつもりで先を進んでいる筈のAさん、Bさんのことが頭をかすめたが、私は、 というより、私の身体は、迷わず「そうしましょう」と言った。
 サーダーが私の高山病症状にひどく神経質になっていたのには、実は理由があった。 私達は後で知ったことだが、数日前に、ニュージーランドからの女性トレッカーが、 高山病で死亡したのだという。グループの中の唯一の女性である私、しかも、 高度2600Mで高山病もどきのへたばり方をする私が、サーダーは気になってしかたなかったのだろう
 しかし、とにかく、ここで寝ているわけにはいかない。進まなければ。

 身体が思うように前に進まない。頭痛もないし、身体がだるいわけでもない。ただ、進もうと思っても、足が前に進まないのだ。どうしてだろう。何故だろうと考えた。不思議だが、意識だけは妙に鮮明だった。何故だろう、と一生懸命に考えた。で、ここは高所で----つまり、呼吸が充分に行なわれていないのだ。呼吸を整えなければならない。呼吸を整えるには、そうだ、歌をうたおう。あっさりと、 こういう結論に達した。意識だけは、不思議なほどに鮮明だった。
 大きな声では喉が疲れるので、小さな声でラララとメロディーだけを口ずさむように歌った。意外にも、というべきか、身体がぐんと軽くなった。不思議なほど足が軽くなった。私は1時間以上も間断なく、 歌い続けた。多くのアップダウンを越え、気付くと、プンキ・テンガを目の前にした橋まで来ていた。
 橋からプンキ・テンガへはほんの10Mほどの登りがあるが、 その急坂では、さすがに歌の効果はなかった。疲れが急に噴き出して来た。這うようにして坂を登り、 私たちのテント場まで歩み寄ると、広げられたシートにどっと倒れこんだ。
 後で、私のためにプンキ・テンガ泊まりになったことをAさん、Bさんに詫びると、 「実は、僕たちも途中から、そうしようと言ってたんです」と言う。 これは私に気を遣っての言葉だと思っていたが、そればかりではなかったことが次第に分かってきた。

 夕食でも、私は全く食欲なし。Bさんも何だか元気がないが、みていると、 努力して食べ物を無理やりに口に押し込んでいるようだ。それを見て、やっと、 これは私も努力しなければと思う。旅行社が用意してくれた日本食の包みを開けてもらい、 インスタント味噌汁と梅干を取り出した。味噌汁が素晴らしく美味しい。 思わず「ああ美味しい!」と口に出すと、同行の3人も一様に嬉しそうな表情を見せる。梅干も美味しい。これから先の行程への希望につながる美味しさだ。

 しかし、朝食はミルクティ1杯、昼食は摂らなかったので、 私がこの一日で食べた固形物は梅干1個だけということになる。後で考えたことだが、 私の身体の不調の原因は、高山病もベースにあるが、栄養失調がそれに輪をかけたのではなかったか。 ポーターに運んでもらえるのだから、自分はこれなら絶対食べられるというものを、 たくさん持参すべきだった。

12月28日
    今日は、タンボチェへの登り
 行程は登りばかりなので、全員ゆっくりした歩調で進む。
 みんな身体がだるいようだ。 Aさん、Bさんも顔をうつむけ、身体を引きずるようにして、とぼとぼと歩いている。 いつもAさん・Bさんは私たちよりずっと先を進んでいたが、この日だけは、 Aさん・Bさんと抜きつ抜かれつだった。不思議にただ一人元気そのもののツレアイが、 ふと気付いたように「まるで、死人の行列じゃあないか」と大きな声で言ったが、確かにその通りだった。
 下痢をしているというBさんは、立ち止まるたびに場所を選ばず横になるという調子で、 見ているだけで気の毒になる。それでも、前進するのを止めようなどとは夢にも思っていないらしい、歯をくいしばったようなBさんの表情をみていて、私たちが今近づこうとしている世界はそんなにすごい、素晴らしい世界なのかと思った。苦しんでもそこに近づこうとするだけのものが、ここの世界にはあるのか。物見遊山気分の私も、ヒマラヤのもつ何か厳粛な雰囲気に、次第に包み込まれていくようだった。

 タンボチェは素晴らしい展望の地だ。
 6000〜8000M級の高峰に3方を囲まれた台地に、タンボチェはある。 台地の広さは、日本でいえば学校の小さな運動場程度か。
 ここに座っているだけで、アマダムラム、ローチェ、エベレスト、タウチェなどを見渡すことができる。
 苦労してたどり着いただけに、ここは別天地のように思える。 今日は天気も良い。とにかく、ここは大変気分のいいところだ。
 Aさんは、「富士山より高いところへきた」と独り言のように言いながら、一人でうなずいて、感慨にふけっている。
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 ここから見るアマダムラム(6856M)は本当に美しい。

 真っ白いひだスカートを優雅にひろげた貴婦人のようだ。

 いつまで見ていても飽きない。


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 山というより巨大な岩を突き立てたような タウチェ。
 頂上付近だけが雪に覆われて真っ白。 ほぼ垂直に切り立った山肌(岩肌)はなかなか迫力がある。

 私が見ている間だけで2度、 頂上付近に雪崩が起きた。私が知っている雪崩はテレビや映画で見たものだけだが、雪崩とは、 もうもうたる雪煙をあげて斜面を滑り落ちていく--そこには、第三者(観客)からみて、 ある種の美がある--ものだと思っていた。
 しかし、ここで見た雪崩は、垂直に、真下にドシャッと落ちた。「ある種の美」など微塵もなかった。まるで、何かに天罰を下すといわんばかりの、無情の雪の落下だった。

 ここタンボチェにはタンボチェ・ゴンパ(寺院)という寺院がある。ここの台地はこの寺院を中心に開かれたという感じだ。
 後で聞いたことだが、この数年後に、タンボチェ・ゴンパにも電気が引かれたが、なんと、その当日に、漏電のためにこのゴンパが全焼してしまったという。

タンボチェ・ゴンパ(寺院)  後ろの山は クーンビラ

tera  ナムチェ・バザールで、誇らしげに、しかし、ただ1コだけポツンと灯されていた裸電球を思い出すと、 電気がきた当日に漏電で火事!など、ゴンパの僧たちは、さぞかし、おったまげただろう。
 その後、程なく、寺院は再建されたそうだ。
 サーダーは息子の一人がタンボチェ寺院の僧であることを誇りにしているようだったし、サーダーの言葉の端々に感じられた、この地の人々の信仰心の厚さを考えると、 この地の人々がただならぬ熱意をもってタンボチェ寺院再建に取り組んだであろうことが 十分に想像できる。

 この写真は 焼失前の古いタンボチェ寺院
 逆光で暗く見えるが、実際も、特に目立つこともない地味な雰囲気をもつ寺院だった。新しく建て替わったというタンボチェ寺院、今はどんな寺院になっているだろうか。

 夕刻、暮れゆく山々を眺めた。
 山の黄昏の、光の色の演出は 言葉も出ないほど 素晴らしい。  遠くにたなびいて見える雲が、虹色に輝いている。

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 私たちは、ただ、茫然と見つめていた。
 どんな自然の働きがあって雲がこんな色に見えるのか等、考えもしなかった。ただ茫然と眺めているだけだった。

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 エベレストは、闇に包まれる直前、ほんの1,2分間だったが、夕陽に真っ赤に染まった。
 ジェット気流が、噴き上げる炎のように見える。

 いくつかの山岳写真集にある、燃えるように赤い山の写真を、 赤いフィルターかなんか使って色を操作しているのだ、などと私は思っていたが、 そうではなかった。  
 自然は、本当に、こんな色の演出を見せてくれるのだ。


 高山病症状も既にあらわれていたし、ヒマラヤのもつなにか特殊な雰囲気に飲み込まれそうで、 神経がすでに高揚状態にあったであろう私には、なにか変わったことが起こっても、ああそうなのか、 ぐらいにしか感じられなかった。ヒマラヤの黄昏の光の色の素晴らしい演出も、ここヒマラヤではいつも こうなのだろう位にしか思っていなかった。しかし、今、考えてみると、私達は、気象状況、 天候etc.etc.に、例外的といっていい程の幸運に恵まれていたのかも知れない。

12月29日
 昨晩、靴(私の場合は、キャラバンシューズ)は、凍らないように、 必ずテントの中に入れておくようにという、サーダーからの注意通りに、 しっかりとテントの中に入れておいたのに、キャラバンシューズの布の部分は凍っていて、朝、 重くのしかかるような頭痛を感じながら、足を靴の中に押し込むのがひどく苦痛だった。

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ナムチェバザールまで タンボチェまで ディンボチェを経て帰路