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年齢 59歳
在位 9年間(645年〜)
敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子
★皇極天皇から譲位を受け、軽皇子が即位した。
★中大兄を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。
★史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ
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宮都 難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや) |
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所在地;大阪市中央区
乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。
建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。
この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。
昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。
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御陵名 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ) |
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所在地;大阪府南河内郡太子町大字山田
陵 形;宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「山田上ノ山古墳」
『日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の崩御後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。
その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。
現陵の一帯ではほかに敏達天皇陵・推古天皇陵・聖徳太子墓・孝徳天皇陵があり、用明天皇陵を加えたこれら5陵墓は梅花になぞらえて「梅鉢御陵」とも称される
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年齢 68歳
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母。
皇極天皇 在位 3年間(642年〜)
★皇極天皇は生きているうちに皇位を譲った初めての天皇
斉明天皇 在位 6年間(655年〜)
★孝徳天皇の崩御後、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた。
★政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った
詳細:京極天皇参照
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年齢 46歳
在位 3年間(668年〜)
舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)
★ 中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)
★ 孝徳天皇(皇極天皇の同母弟を即位)の皇太子となり様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
★ 万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。 香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき
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宮都 近江大津宮(おうみおおつのみや) |
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所在地;滋賀県大津市錦織
飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。
天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
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大化の改新と即位 |
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図って斉明天皇と供に筑紫の朝倉宮に滞在したが、
661年斉明天皇が崩御した。白村江の戦いを起こすも大敗を喫し、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年即位し
同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置し、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。
即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
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中大兄皇子が長く即位しなかった |
‥敬霤傾弔賄恵凖傾弔猟錣任△襪箸いΔ里聾蹐蠅如皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、異父兄である天武天皇を推す勢力への配慮。
乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われ、皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由などの、
疑問点も説明できるため注目を浴びている
9徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあり、
同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の恋愛事情により即位が遅れた。
だ凸静傾弔了犖紊法間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。
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御陵名 山科陵(やましなのみささぎ) |
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所在地;京都府京都市山科区御陵上御廟野町
陵 形;宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。
天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位となる。
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
弟・大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている。
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年齢 25歳
天智天皇の第一皇子
弘文天皇 在位 1年間(671年〜)
★天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する
★1870年漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられたが、実際に大王に即位したかどうか定かではなく大友皇子と表記されることも多い。
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宮都 近江大津宮(おうみおおつのみや) |
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所在地;滋賀県大津市錦織
飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
宮都名は「近江大津宮」のほか大津宮・志賀の都とも表記され、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。
1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
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壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた |
「壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている。
千葉県
’鮖蛙声辧雰津市俵田):大友皇子と菊理媛命がこの地に落ち延び暮らした「小川御所」の跡とされる。
白山神社古墳(同市俵田):白山神社の背後に位置する前方後円墳。地元では大友皇子を埋葬したと伝えられる。
8翳∪遏米瓜堋甲川):大友皇子が天武天皇の追手に見つかり割腹した場所とされる。
愛知県
/戚声辧焚崎市東大友町):この地に落ち延びた皇子が天照大神を祀るために創建したといわれる
大友天神社(同市西大友町):大友皇子の従者である長谷部信次という人物が、皇子の霊を祀るために創建したと伝えられる
6明寺(同市西大友町):大友皇子を開基とする
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御陵名 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ) |

所在地;滋賀県大津市御陵町
陵 形;宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。
これとは別に、弘文天皇の御陵とされる墳墓が複数伝わっている。
白山神社古墳 - 千葉県君津市俵田
伝弘文天皇陵 - 神奈川県伊勢原市日向
小針1号墳 - 愛知県岡崎市小針町
大友皇子御陵 - 愛知県岡崎市東大友町
自害峯の三本杉 - 岐阜県不破郡関ケ原町藤下
鳴塚古墳 - 三重県伊賀市鳳凰寺
膳所茶臼山古墳 - 滋賀県大津市秋葉台
皇子山古墳 - 滋賀県大津市皇子山
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年齢 56歳
在位 13年間(673年〜)
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた
★天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説。
★皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王(用明天皇の孫)との間に設けた子(漢皇子)とする説。天智天皇の異父兄である。
★天武天皇は身長175cmと当時としては背が高いほうであった。『阿不之山陵記』から
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宮都 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや) |
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所在地;奈良県明日香村岡
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江大津宮から飛鳥に都を戻すべく、この宮を造営した。
翌673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇が、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。
694年に藤原宮に遷都され、廃止された。
飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけているが、
「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。
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離宮 吉野宮(よしののみや) |
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所在地;奈良県吉野郡吉野町
天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、
後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。天武天皇は同8年(679年)に皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸した(吉野の盟約)。
その後、天武天皇および皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、やむなく鵜野皇女が即位して持統天皇になったが、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、
通算して33回の吉野宮行幸を行っている。文武天皇・元正天皇・聖武天皇によってその後も吉野宮への行幸が行われ、吉野宮の管理のために芳野監という官司が設けられたことが知られている。
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壬申の乱 |
天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。
蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。
大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海(尾張など)に遣わした。
大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
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天皇の治世 |
‥敬霤傾2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。
伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。
F本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である。
ぁ崙本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力である。
ノ令を定め、法式を改める大事業に取りかかった。存命中には完成せず、持統天皇3年(689年)に令のみが発布された。飛鳥浄御原令である。
ε敬霤傾弔塙長,賄敬陲了4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、誓いを立てた(吉野の盟約)。
Ч訛押寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった
┷能蕕硫瀛召箸気譴詆挧楞が鋳造された
天皇は「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。
稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。
天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、天皇権力の強化に向けられ、古代の国家神道が形成された。
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御陵名 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) |
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所在地;奈良県高市郡明日香村大字野口
陵 形;宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」
古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。
棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている。
遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。
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年齢 58歳
在位 7年間(690年〜)
父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘
★ 天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)。史上三人目の女性天皇
★ 天武天皇の政策を引き継ぎ、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。
★ 大宝2年に崩御した。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。
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宮都 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや) |
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所在地;奈良県明日香村飛鳥
飛鳥の諸宮の名は、地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮で「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。
673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。694年に藤原宮に遷都され、廃止された。
2004年、飛鳥京跡の発掘で奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見し、飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。
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宮都 藤原宮(ふじわらのみや) |
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所在地;奈良県橿原市
藤原京は日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。
藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、
当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。
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大津皇子の謀反 |
大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。
草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
しかし、川島皇子の密告により、天武天皇の崩御の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。
大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。
謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い。
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持統天皇の治世(天武天皇の政策の継承) |
第一回神宮式年遷宮と新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。
また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものであった。
持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。
天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。
また、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
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御陵名 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) |
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所在地;奈良県高市郡明日香村大字野口
陵 形;宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」
大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。
この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていた。
しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに捨てられたという。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている。
遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。
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年齢 25歳
草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。
弘文天皇 在位 10年間(697年〜)
★祖母・持統から譲位されて天皇の位に即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
★大宝律令が完成し、翌年公布している。 大宝律令において初めて日本の国号が定められたとされる
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宮都 藤原宮(ふじわらのみや) |
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所在地;奈良県橿原市
藤原京は日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。
藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、
当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。
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当時15歳という先例のない若さで即位した理由 |
「懐風藻」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、葛野王が「わが国では、天位は子や孫がついできた。
もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をしたとされ、
ここで弓削皇子が何か発言をしようとしたが、葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんでしまったとされる。
天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てたにもかかわらず、即位目前の689年に薨じてしまったために、
持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させようとした。そのために、成長を待つ間は自ら皇位についた。
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御陵名 桧隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ) |
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