丸岡城

 所 在 地   福井県坂井郡丸岡町霞町  別 名   霞ケ城
 遺 構   天守  形 式   平山城
 築 城 者   柴田勝豊(勝家の甥)  築 城 年   天正4年(1576)
 歴 史  丸岡城は、柴田勝家の甥の、柴田勝豊により、天正4年(1574)に築城された。天正10年(1582)、柴田勝豊は長浜城に移り、丸岡城は北ノ庄城の支城となる。
慶長5年(1600)、城主の青山忠元(4.6万石)は、関が原の戦いの後、所領を没収された。
慶長6年(1601)、福井城の結城秀康の重臣、今村盛次が、2.5万石で在城する。
慶長18年(1613)、結城秀康の子、松平忠直の付家老、本多成重が4万石で入城する。このころ、天守が完成する。そして、松平忠直が配流されがことにより、本多成重は、大名に列する(4.6万石)。
元禄8年(1695)、4代重益のときに、本田氏はお家騒動で改易された。有馬清純が、越後糸魚川より入封する。以後、有馬有馬氏が幕末まで在封する。
昭和23年6月の福井大地震で、天守が倒壊した。この天守は昭和30年に 旧材により修復して再建された。
歴 代 城 主 柴田勝豊、丹羽長秀、青山宗勝・忠元/江戸時代、今村氏(2.5万石)・本多氏4代(4.6万石)・有馬氏8代(5万石)


 天守
(現存12天守の一つ 国重要文化財)
(構造)  望楼型
(重・階) 二重三階
(形式)  独立式
(高さ)  約12.5m

天正4年(1576)頃建築され、慶長18年(1613)に大改修されたか、あるいは慶長18年に建築されたか、いずれかと考えられている。
天正4年説であると、現存天守のなかでは最も古い。


明治5年(1782)に、廃城のあと、天守は3両2文で払い下げられたが、破壊を免れ、その後、丸岡町に寄贈された。
昭和9年(1934)、天守は旧国宝に指定されたが、昭和23年の福井大地震で崩壊した。そして昭和30年に、崩壊した木材を組み立てなおして復旧された。このため天守は、重文指定ではあるが、国宝指定にはなっていない。
堀は昭和初期に埋め立てられ、現存しない。天守の周辺は霞ケ城公園となっている。


入母屋造りの単層櫓の上に、望楼を載せた、初期望楼型の古式な独立式天守
屋根瓦は、福井周辺にのみみられる、笏谷石の石瓦。最上階の廻縁は装飾のためのもので、格式を高める効果をねらったもの。


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