福井城

 所 在 地   福井県福井市大手  別 名   葵城
 遺 構   本丸郭・内堀・石垣・天守台  形 式   平城
 築 城 者   結城秀康  築 城 年   慶長11年(1606)
 歴 史  織田信長より、北陸の経営を負かされた柴田勝家は、天正3年(1575)に居城の北ノ庄城を築いた。
天正11年(1583)、柴田勝家は賤ケ嶽の戦いで羽柴秀吉に破れ、北ノ庄城は落城した。
慶長5年(1600)、結城秀康が68万石で越前に入封し、北ノ庄城に代わる城を6年をかけて築城した。
元和9年(1623)、2代目の忠直は、乱行を理由として豊後へ配流される。次弟の忠晶が、越後高田から52.5万石で入封し、同時に北ノ庄を福井と改める。
寛文9年(1669)、天守が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
貞亨3年(1686)、6代藩主綱昌は、乱心を理由に領地を召し上げられ、前藩主昌親に25万石が与えられる。
文政元年(1818)、13代治代のとき、32万石に加増される。
16代の松平慶永は、幕末の四賢侯の一人として有名である。
歴 代 城 主 柴田勝家、結城秀康(慶長9年、松平に復姓)、以後松平氏17代。石高の変遷:68万石・52.5万石・25万石・30万石・32万石


内堀と本丸
御廊下橋 天守台
控天守台
昭和23年の福井大地震による石垣の傾きが残る


足羽川の北岸に築かれていた北ノ庄城を拡張し、中心部をより北におき、ほぼ正方形の本丸を二の丸、三の丸、さらに二重の曲輪で囲む縄張りに形成されている。
現在では本丸とその周囲の堀が残されているだけであり、本丸には県庁が建っている。
本丸内には天守台、「福井」の地名のもとになった「福の井」がある。


本丸復元図(現地案内板)
          天守絵図(現地案内板)
外観四層、内部五階の層塔型。高さ28m、石垣を含めると37m。

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