目加田城
所 在 地 | 滋賀県愛知郡愛荘町目加田 | 別 名 | 目賀田城 |
遺 構 | 土塁 | 形 式 | 平城 |
築 城 者 | 目加田貞政 | 築 城 年 | 天正4年(1576) |
歴 史 | 目加田(目賀田)氏は在郷の土豪であり、南北朝期には目加田玄向が北朝方の細川氏、六角氏の配下として畿内を転戦した記録がある。 戦国期にも、六角氏の家臣として、天文7年(1538)の肥田城攻めに出陣している。 目加田貞政は、永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻、六角氏の没落以降は、織田氏に従っていたものとみられる。 織田氏に従う前からか、従った後かは不明であるが、目加田氏の居城は、観音寺城のある観音寺山の支尾根の安土山にあった。 |
天正4年(1576)、安土城築城に際して、安土山を信長に明け渡して、目加田氏の本貫地に、目加田城を築く。 天正10年(1582)、貞政の子の堅政のとき、本能寺の変に際して、明智光秀に従う。そして光秀が山崎の戦いに敗れると、堅政は城を出て浪人となる。 慶長2年(1597)、目加田城は破城となる。 |
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歴 代 城 主 | 目加田氏 |
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城跡は、宅地の中に埋もれているが、主要部が愛荘町の史跡に指定され、目加田城公園として整備されている。 保存された土塁の前に、石碑が建てられている。 |
本丸の土塁が、芝生を張って保存されてている。手前の土塁の途切れている部分が虎口になるのか、それとも土塁が破壊された跡かは不明。 右の図のように、本丸は濠により囲まれており、岩倉川と舟が出入りできる水路で繋がっていた。 |
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![]() 現地案内板の図 |
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