甲府城

 所 在 地   山梨県甲府市丸の内  別 名   舞鶴城
 遺 構   石垣、天守台、堀、復元櫓、復元門  形 式   平山城
 築 城 者   浅野長政、幸長  築 城 年   文禄2年(1593)
 歴 史  天正10年(1582)に武田氏が滅亡した後、甲斐は徳川家康の領するところとなり、天正13年(1585)、平岩親吉に、躑躅ケ崎館の南3kmの一条小山に築城を開始させる。
天正18年(1590)、徳川家康が関東へ移封されると、豊臣系の羽柴秀勝、加藤光泰が入って築城が引き継がれ、さらに浅野長政、幸長の時代になって、文禄2年(1593)に完成した。
関ヶ原の戦いのあと、甲斐は再び徳川氏のものとなり、慶長6年(1801)、平岩親吉が入る。
慶長8年(1603)、家康の9男・徳川義直が入封するが、義直は慶長13年(1608)、尾張清洲へ移封される。
元和4年(1818)、将軍秀忠の3男・徳川忠長が入封する。
慶安4年(1651)、将軍家光の3男・徳川綱重が入封する。綱重の嫡男・徳川豊綱(後の家宣)は城主となったあと、宝永元年(1704)、将軍世嗣として江戸城西の丸に移る。
宝永2年(1705)、将軍綱吉の側用人・柳沢吉保が入封する。享保9年(1724)、柳沢吉里は大和郡山に転封となり、以後、甲斐は幕府直轄領として、甲府城に甲府勤番が置かれる。
歴 代 城 主 羽柴氏、加藤氏、浅野氏、平岩氏(6.3万石)、徳川氏(25万石)、柳沢氏(15.1万石)


天守曲輪、本丸(上)、天守台(右上)の石垣群


甲府城は、一条小山の最高所に本丸を置き、西に一段下げて二の丸があり、その外側を、清水曲輪、屋形曲輪、楽屋曲輪で囲む。また本丸の北から東、南を囲むように、稲荷曲輪、数奇屋曲輪、鍛冶曲輪が巡る。享保12年(1727)の火災で主要な建物が失われたが、殆ど復旧されないまま幕末に至る。
甲府城は、江戸の西を守る拠点として重視され、一時期を除いて、将軍近親者を城主とするか、幕府直轄の城であった。それだけに城の規模も巨大である。
現在は、本丸と二の丸が舞鶴公園となっており、天守台、本丸、天守曲輪、二の丸、鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残っている。また稲荷櫓や内松陰門、鍛冶曲輪門が復元されている。さらに舞鶴公園とJRの線路を挟んで向かい合う場所に、山手御門が復元されている。
往時の建物は残されていないが、石垣の迫力に圧倒されたい石垣ファン必見の城である。


             天守台
天守は築かれなかったとされるが、発掘調査により天守があったという説も浮上。
稲荷曲輪にて
左が天守台の石垣、右が本丸の石垣


天守曲輪の石垣 鉄門の跡
天守曲輪から本丸へ入る南側の門


銅門の跡
天守曲輪から本丸へ入る南側の門
            稲荷櫓
稲荷曲輪の北東隅にあり、艮櫓ともよばれる。明治初年まであったのを、絵図や史料をもとに復元。


           内松陰門
屋形曲輪から二の丸に入る門。明治の始めまであったのを、絵図や発掘をもとに復元。
           鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門。明治の始めまであったのを、絵図や発掘をもとに復元。


数奇屋曲輪の石垣
甲府城で最も高い石垣であり、17mある。
             水堀
城の回りは総て堀で囲まれていたが、現在は南側の内掘の一部が残るのみ。


山手御門の山手門 山手御門の山手渡櫓門
山手御門は甲府城には三つあった出入り口の一つ。枡形になっており、一の門が高麗門の山手門であり、二の門が櫓門の山手渡櫓門である。絵図と発掘調査を元に推定して、復元された。



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