鎌刃城

 所 在 地   滋賀県米原市番場  別 名   ―
 遺 構   曲輪、虎口、石垣、堀切、竪堀  形 式   山城(384m)
 築 城 者   土肥氏、堀氏  築 城 年   応仁の頃?
 歴  史  鎌刃城の築城は、番場の土豪の土肥氏によると伝わるが、定かではない。佐々木六角氏の城として、番場の堀氏により築かれたともいう。
文明4年(1472)、応仁の乱に際して、東軍方の京極持清の家臣、今井秀遠に攻められ、鎌刃城主・堀次郎左衛門が討たれたという記録がある。文明18年(1486)にも、鎌刃城主・堀氏成が今井秀遠に攻められている。
天文2年(1533)、天文4年(1535)、天文7年(1538)には、六角定頼が今井定清に鎌刃城を攻めさせ、城代として島秀安を入れるが、六角氏に降った堀氏が再び城主となる。
永禄2年(1559)以降は、堀氏は浅井氏に属し、鎌刃城は浅井方になる。
元亀元年(1570)に浅井長政が織田信長に敵対すると、堀氏は浅井氏を離れて織田方になる。このため翌元亀2年(1571)、鎌刃城は浅井勢に攻められるが、横山城の木下藤吉郎の援軍により落城を免れる。
天正2年(1574)、堀氏は信長により改易され、徳川家康に城内の米穀2000俵が与えられたという記録が最後であり、このときに廃城になったようである。
歴 代 城 主 土肥氏、堀氏


鎌刃城へは、番場の集落の近くのこの大手口から、山道を登ること約30分。 まず最初に、この堀切に着く。最大幅25m、高さ9mの大堀切である。


北端郭の西側斜斜面の大石垣。高さ4m、長さ30mに及ぶ。 北端郭の枡形虎口。5.5m四方の規模があり、大手門に相当すると考えられている。コの字型に石垣が積まれており、四脚門が建っていたと想定されている。


主郭の枡形虎口。北端郭の虎口と同様に、虎口内部は屈曲せずに直進する構造であり、近世城郭の枡形にまでは至っていない。 主郭から北方の展望。主郭は周囲が石垣で固められており、ほぼ総石垣の城である。


戦国時代の近江は、南は六角氏が、北は京極氏、その後浅井氏が支配し、坂田郡と犬上郡は両勢力が争う地域であり、「境目の城」が多く築かれた。鎌刃城はその代表的なものである。
鎌刃城は、中仙道の宿場町である番場(番場の忠太郎で有名?)から比高180mの山頂にある。平成10年〜14年にかけての発掘調査で、枡型虎口や、大石垣などが出土し、注目を浴びている。国指定史跡になっている。


番場の集落にある案内板より

尾根に上に400mを超える長さで曲輪が連なり、近江の戦国期の城としては、観音寺山城小谷城に次ぐ規模である。、

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