太尾山城

 所 在 地   滋賀県米原市米原  別 名   ―
 遺 構   曲輪、堀切、土塁  形 式   山城(254m)
 築 城 者   米原氏  築 城 年   15世紀後半
 歴  史  築城は在地土豪の米原氏によるとされるが、詳細は不明。文明3年(1471)に美濃の斎藤妙椿が近江に侵入し、米原山で合戦が行なわれたという記録があり。この頃築城されたと考えられている。
戦国期に入り、太尾山城は、江北の京極氏・浅井氏と江南の六角氏の「境目の城」として攻防が繰り返された。
天文7年(1538)の六角氏の江北攻めでは、湖西の永田伊豆守が太尾に着陣した。
天文21年(1552)には、太尾山城は六角氏方になっていたようで、京極高広の命により今井氏が攻めるが、失敗した。
永禄4年(1561)、浅井長政方の磯野員昌と今井定清が攻め、今井定清は戦死するが、城は攻略された。そして城番として中嶋宗左衛門を入れた。
元亀2年(1571)、浅井長政と敵対するに至った織田信長方の軍により佐和山城が攻められると、、中嶋宗左衛門は太尾山城から退去した。織田軍に攻められて灰燼に帰したともいう。以後、廃城になったようである。
歴 代 城 主 米原氏、中嶋氏


南城の掘切 南城の主郭。一部に石垣がみられる。
北城の主郭 南城主郭の土塁  土を盛り上げたのではなく、掘り下げて形成されている。


太尾山城は、北城と南城からなる「別城一郭」と呼ばれる構造であり、麓の油谷神社から南城へ、青岸寺北城へと登山路が整備されており、それぞれ登山路を25分登った比高約170mの太尾山山頂にある。


北城主郭跡の説明板に記載された概要図。
上が北城、下が南城。ともに尾根上に曲輪、土塁、堀切を並べて設けている。
発掘調査の結果、北城、南城の主郭にそれぞれ礎石建築があったことが検出されており、門や櫓が存在したことが確認されている。また土師器皿や天目茶碗なども出土し、恒常的な生活が営まれていたことが明らかになっている。
北城と南城の間、約200mは自然の尾根道であり、特に両城を分断する堀切などがないので、南城と北城で一つの城を形成する「別城一郭」と考えられている。

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