佐和山城

 所 在 地   滋賀県彦根市佐和山町・古沢町  別 名   ―
 遺 構   曲輪・土塁・堀切・石垣  形 式   山城(標高233m、比高145m)
 築 城 者   佐保時綱  築 城 年   建久年間(1190-1199)
 歴  史  佐和山城の起源は、佐々木氏10代定綱の6男、佐保六郎時綱が、鎌倉時代初期の建久年間に佐和山の麓に館を構えたのが起源とされる。
その後、近江では江北の京極氏と江南の六角氏が対抗し、佐和山城は境目の城として争奪の対象となる。戦国時代には、京極氏に代わって台頭した浅井氏の支城となる。
元亀争乱の浅井氏と織田氏の抗争の際には、浅井方の磯野員昌が城主となる。
元亀2年(1571)、磯野員昌は、8ヶ月の籠城戦のすえ、織田方に降伏して開城する。かわって丹羽長秀が城主となる。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、明智討伐に功のあった堀秀政が城主となる。
天正13年(1585)、堀尾吉晴が城主となる。
天正18年(1590)、石田三成、城主となる。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の先鋒、小早川秀秋に攻められ、落城する。同年、井伊直政が関ヶ原の功により、佐和山の城主となる。
慶長11年(1606)、井伊直政の死後、嫡子の直継は、彦根城を築いて移り、佐和山城は廃城となる。
歴 代 城 主 佐保氏、京極氏、浅井氏、磯野員昌、堀秀政(9万石)、堀尾吉晴(4万石)、石田三成(19.4万石)、井伊氏(18万石)


         佐和山(標高233m)山頂の本丸跡
広い平坦な削平地となっており、石垣造りであったとされるが、石垣は殆ど残っていない。また本丸には五重の天守があがっていたとされる。


本丸東隅に残る数少ない石垣。二段の算木積みの石であり、天守台の一部ともいわれる。 硝煙櫓の跡地


佐和山は往時、西麓に琵琶湖の松原内湖がせまり、東麓に東山道(中仙道)・北国街道が通っており、水運と陸運の要衝の地であった。また江北と江南の勢力の境目の地であり、戦略上の拠点でもあった。
佐和山城は石田三成によって、完成され、山頂の本丸を中心にして延びる各尾根に、二の丸、三の丸、法華丸、太鼓丸、西の丸、美濃殿丸、硝煙櫓などが築かれていた。
彦根城の築城に際して、佐和山城から資材が運び出され、またかなりの破壊も受けたようであり、明確な遺構は少ない。
佐和山の東麓が大手とされているが、現在、東麓から山に入ることはできない。西麓の龍箪寺からの登山道を利用すれば、20分の山歩きで本丸跡に達することができる。

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