50半ばにしてに思うこと―山と共に歩んだ人生
1.はじめに

立山弥陀ケ原でのスキーツアー(1973年?)

些か大袈裟な題ですが、今後の飛躍の糧に、今までの山と私の関わりを振り返ってみました。
もとより人に誇れるほどの立派な登山暦が有る訳ではないですが、趣味として機会ある毎に登ってきました。
私の提唱する「
前向き生活」の1つの柱として、登山が影響した部分はかなりのものでした。

今回この原稿を書く動機となった、同窓会兵庫支部からの寄稿依頼を頂いたのも何かの縁です。機会は大事にしたいものです。

2.西宮の土地
現在の仕事場は西宮浜です。
ここは旧西宮ヨットハーバーおよび西宮砲台のの沖を埋め立てた人工島です。
本土(旧市内)とは西宮大橋で繋がっています。
この橋の下をヨットが通過する為(実際は殆ど通過しない?)、橋脚が極めて高いのが特徴で、橋の上からの眺めは最高です。
大阪湾岸の埋め立て地とそれを連ねる阪神高速湾岸線の橋梁群、そして背後に目をやれば六甲の山並みが奇麗に見えます。
私の好きな光景の一つです。
知円別山ー北海道知床
 島には阪神高速道路湾岸線の西宮ICもあり、車での便は良好です。しかし阪神西宮駅からバスで20分ほどかかり、やや不便です。(歩くと、私の足で35分くらいです。電車通勤の際には、歩きます。)

職場のすぐ南が新西宮ヨットハーバーで、目の前に大阪湾沿岸の風景が広がります。夜ともなれば、いしだあゆみ(古いな〜)の「町の明かりが とても綺麗ね
♪」の世界です。
北に目をやれば六甲の緑の山並が聳え、環境に恵まれた場所です。
新西宮ヨットハーバーから六甲山 西宮はまた、大学入学までの15年間、父の仕事の関係で私が青春時代を過ごした懐かしい土地です。
6年前の西宮医師会報
の新入会の挨拶に、思い出をこのように書いています。

 小学生の頃、鳴尾辺りは一面のいちご畑で、天秤棒に木樽で水撒きの「お百姓さん」が、毎朝の風景でした。浜甲子園団地は、鳴尾競馬場や飛行場の跡地で、米軍(この頃は「進駐軍」)のキャンプ地があり、キャッチボールをしている若い米兵の姿がフェンス越しに見られたものです。浜側には多くの工場の廃虚があり、赤茶けて捻じ曲がった鉄骨を晒しておりました。「咲いている月見草の群生は、動員され爆撃に遭った学徒の生まれ変わりだ」という父親の話に、子供心にも胸の痛みを感じたものです。それでも浜では潮干狩りや魚釣りで、楽しい時を過しまし
た。

 中学生の頃は、今に続く「山歩き」の趣味が芽生えた時期で、友達を誘ってハイキングやキャンプによく六甲山に出かけたものです。阪神パークに囲まれた学校は、桜の花が綺麗で、授業中に動物の鳴き声が聞かれ、なかなかのんびりしたものでした。

3.私のストレス解消法
 西宮が私にとって懐かしい土地であるとしても、新しい職場での試行錯誤の毎日では有形無形のストレスが結構ありました。

肉体的、精神的ストレスを発散する私の方法は、まず第一に運動です。

適度の、それでいてかなりの強度の運動は、精神の開放に極めて有効と感じています。
どんこーずロゴ 現在は、職場グループによる(立地を生かした、人工島周囲での)週2回のジョギング、毎水曜日のテニスそして毎木曜日のフリークライミング(屋内壁)がウイークデイの日課です。
週末は山やスキーで予定が詰まります。

このうちジョギングは、「マリナどんこーず」と名付け、今まで何度か集団でマラソン大会に参加しました。
今までは主にハーフマラソンばかりでしたが、今年の
1月に鹿児島の「菜の花マラソン」で初めて、フルマラソンを走りました。
やはりフルともなると、5時間は走り詰めですから、完走の満足感はひとしおですね。
卒業以来、山行、スキーの記録はコンピューターのデーターベースに全て登録しています。マシン環境も以前のPC98から現在のDOS-V機に変わりましたが、ソフトは変換して使用しています。山行頻度も増加し、最近では概ね月2〜3回は出掛けているようです。

今年は更に頻回で、山スキーも含めて1〜
4月で14回出かけました。

黒部川、上の廊下でOT君と(1974年?)
芦屋川の桜 4.私と山の関わり始め

初めて山に関心を抱いたのは中学生の頃でした。

阪神間の大阪湾岸は西宮と芦屋の境付近で屈曲しています。
芦屋、神戸の市街から急角度で北に仰ぎ見る六甲山も、大学入学まで暮らした鳴尾の地からはその全景が西に見えました。
東お多福山も今のように木々が茂らず、鮮やかな草原なのが印象的でした。

無意識のうちに子供心にも「登ってみたい!」と思い続けていました。
最初の頃は週末に同級生と連れ立って、甲山々麓のハイキングによく出掛けたものでした。
今では苦楽園や鷲林寺、柏堂など住宅地になってしまっていますが、昔は自然に恵まれた高原で、楽しい散策や飯盒炊飯が出来る場所でした。

逆瀬川上流で行われた中学校のキャンプも、(当時の中学生にすれば)家庭外の野外で一夜を過ごす、大変楽しい経験でした。

次第に野山に馴れてくると、積極的に友人を誘っていろいろなハイキングコースを歩きました。
しかしこれも今から考えたら、所詮は遊びの範疇でした。


中学卒業前に初めてのテント行を計画しました。この時始めて東六甲の縦走(全縦走ではない)も経験しました。
この頃を振り返ると、それなりになかなか意欲的だったと思いますが、視野が狭く恐いもの無しの為といえるでしょう。
東お多福山から大阪湾
ムスターグ・アタ 高校は新設校で、受験勉強の圧迫もあり殆ど山登りはせずでした。
個人的な面でも、クラブ活動の分野でも既にサッカー部に入っていたので、「登山部」(
2年時に初めて出来た)にも参加出来ずでした。これには悔しい思いをしていました。

この時の思いが地下のマグマのように蓄えられていたのでしょう。
大学進学後、迷うことなく山岳部に入部しました。
入部の際に先輩に今までの山行暦を問われて答えると、(後日あのガンガプルナで死んだ)Sさんが、「ハイキングやな」と言われたのを奇妙に記憶しています。
5.学生時代と山岳部
当時の山岳部は新入部員も少なく、昔のような大規模な合宿も出来にくくなっていました。
それでも伝統のある山岳部でしたから、いろいろな先輩方が居られました。
長老の中には、かの有名なT先生(「T先生の思い出」に記載)もおられました。

初めて家庭と学校以外の広い世界に触れた私は、いろいろな意味で大いに刺激を受けました。


当時
42年入学組の山岳部員には、私以外にHA(第1外科:現在 大学助教授)、OT(第1外科、現在A病院院長)それにAD(整形外科:A整形外科院長)の各氏など、個性的な人間が沢山いました。

HA君は一番意欲的で、社会人の山岳会と岩登りに出掛けたり、その後ヒマラヤにも遠征しました。


今から思い起こせば、他のメンバーと比べると私は中途半端な山行しかしていなかった思いで一杯です。
元々
B型人間の典型なのでマイペースなのでしょう。余り厳しくは求めず、専ら穏やかな山行を好んでおりました。

笠ヶ岳をバックに(1972年?)

琵琶湖バレースキー場で(1974年?)
-間嶋(左)中川(右)の各先生
悲しい思い出は2つありました。
何れも遭難事故でした。
1年の夏山合宿時、笠ヶ岳で2年の
TRさんの転落死、これは非常にショックでした。
まさか隣のルンゼでこんな事故が起こっているとも思わずに登っていましたから..

更に5年の時
SH氏(45年卒業)氏がヒマラヤ、ガンガプルナ峰で雪崩により遭難しました。彼は大学卒業後、山登りに集中する目的で、迷うことなく信州大学で卒後臨床研修を受け、地元の社会人山岳会に入会しました。

その甲斐有って海外遠征の機会を得たのでしたが、皮肉な結果になってしまったのはかえすがえすも残念なことでした。

我々のメンバーは誰しも、その山登りに対する姿勢、山の嗜好の面でSHさんから大いに影響を受けていました。まことに惜しい人を亡くしたものです。
幸いにも我々は危険な経験もすることなく無事に卒業できましたが、次第に欲が出て来るのは自然の生業であったのかと、その頃の自分を振り返って思います。
その当時は一生懸命だったのでしょうが、年齢が行くと若い時に全力投球してなかったんだと思うわけです。

病院看護婦さんとのハイキング(1975年?)
ボルネオ、キナバル山頂にて 6.卒後の山行形

卒業後は大学の同じ医局(第
2内科)に入局した縁で、同級生のN君(元ワンゲル部員)と山行を共にする頻度が増えていましたが、それも夏山と秋山など年に数回に限られていました。

山岳部で一緒だったOT君も一緒に行動する機会も勿論ありましたが、N君とはこの後もずっと山行の機会を共有しました。初めて海外の山に出掛けたのも、彼の積極性によるところが大きいものです。
89年の韓国ソラク山、90年のマレーシア、ボルネオ島のキナバル山など、初めて大きな世界に触れました。彼はこの後も時間に余裕があるのを大いに利用し、毎年のように海外登山を続け、とうとう2002年には世界の最高峰であるエベレスト(8850m)に登頂してしまいました。
エベレスト山頂でのN君(中央)

この件については「あなたにもチャンスが有ると言われて決意した−50歳からが人生だ!7mountainsは待つ!」に記しています。

そのなかで私は、
「(前略)
色々なサポートがあるにせよ、最後は自分の足で登り、無事に下りるしかない高所登山の過酷な条件。親友として、この快挙を成し遂げた君を大いに誇りに思うものです。地道に努力して栄冠を勝ち取った君に尊敬と羨望を抱くと共に、自分だけ遥か遠くに置き去りにされた寂寥感を伴う複雑な感情を交えて…(後略)」


と書き、彼の快挙を喜ぶと共に、取り残された寂寥感も感じたのでした。

その後、私も同年の6月にはモンブラン(4886m)、2003年の10月には念願のネパール、メラピーク(6461m)に登頂出来ました。
ンブラン山頂での筆者
.7現在までの山行形態
職場で山の会を組織するのは何時ものことでした。京都では西陣のH病院、協和会でも山好きのメンバーを集めてハイキングや登山、スキーに出掛けました。
しかし山行頻度が現実に高まり、技術的にも深化して行く契機となったのは、やはり社会
人山岳会に入れて頂いてからです。

93
年に職場の知人の紹介で大阪のY山岳会に入会し、山行範囲と内容が大きく広がりました。
記録を見てみますと、
95年から久方ぶりに雪山、岩登りが再開されています。
年に
5回の合宿以外にも、月に数回の個人山行にも出掛けるようになりました。

最近には、本格的な山スキーを指導して頂ける機会が有り、重いザックを担いでの登高、滑降
も何とか出来るようになりました。
同好の士との山スキー暦も5
年目になり、色々なスキーツアーを楽しんでいます。

また長らく登っていますと、他の山岳会の人たちとも横の交流が出来ますので、山行形態も広がって来ました。


先に述べた海外登山、辺境の地のトレッキング、フリークライミングなどです。
中には今年の
1月に出かけた鹿児島の指宿菜の花マラソンにかこつけた珍妙な登山ツアーもありました。

谷川岳での山スキー















菜の花山行での誕生パーティ
登らない人にはなかなか理解しがたいでしょうが、「山屋さん」(山登りを趣味とする人の総称で、些か変人のニュアンスを含む)の世界はなかなか面白いものです。
危険と背中合わせですから、厳しいところは当然しっかりしていますが、押し並べて好人物が多いようです。

他職種の方達と趣味を通じての交流は、狭い医者の世界とは異なり、大いに目を開かされます。


これからも人生の心の豊かさを増すため、大いに山と関わって行きたいと思っています。

同窓会誌に今までの山との関わりを紹介した文です。
この中でBergen
の「ハイキングから海外登山」までのHpも紹介しました。
Hpでも謳ってますように、

記録が主体ではなく、あくまでも趣旨は「前向き生活」の提唱です。

私自身今までなかなか前向きに生きていけなかった(?)と思っていました。
最近になって漸く光が見えてきたように思いますが、遅すぎる?!


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