第三部 中国感動の旅
 
 この第三部では『客家の里を訪ねて』、『承徳(避暑山荘)への旅』、『紹興みてある記』、『苗族の里を訪ねて』、『井岡山・瑞金への旅』、『太平天国の故地を訪ねて』、『毛沢東の故居を訪ねて』を掲載しています。
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 『承徳(避暑山荘)への旅』、『紹興みてある記』、『苗族の里を訪ねて』、『井岡山・瑞金への旅』、『太平天国の故地を訪ねて』、及び『毛沢東の故居を訪ねて』は、それぞれ、下の画像をクリックしてください。

2.承徳(避暑山荘)への旅 3.紹興みてある記 4.苗族の里を訪ねて
     
5.井岡山・瑞金への旅  6.太平天国の故地を訪ねて   7.毛沢東の故居を訪ねて 

1.客家(ハッカ)の里を訪ねて(1996年暮れの旅行)  
 私は、
 1992
年の暮れ、広西壮族自治区桂平県金田村に太平天国起義の地を訪問
 93
年の暮れ、湖南省韶山市の毛沢東生家訪問
 96年の暮れ、福建省および広東省の客家集住地訪問
 97年の暮れ、革命の聖地、江西省の井岡山および瑞金訪問
などと、よく、中国の友人の案内で、ツアーではちょっと行けないような旅行をしていました。

 この頃は、フイルムのカメラで、その持ち運びと装填の面倒が苦になっていました。空港、列車の駅、どこでも荷物検査は厳格で、X線を当てられるので、フイルムは感光防止の袋に入れていました。旅行中は、嵩(かさ)張るし、旅行から帰ってからは、DPEに時間と金がかかりました。また、私の旅行は、年末年始が多かったので、寒さの中でのフイルムの装填は煩わしく、特に、井岡山の氷点下の中での装填は応えました。

  こんなに苦労して撮った写真にも、ホームページへのアップには大きな問題がありました。それは、アナログ写真のパソコンへの取り込みでした。このホームページに既にアップしているのは、デジカメ時代になってからの旅行ばかりです。
  古い写真をスキャナーで取り込んでも、容量がやたら大きくなり、webに載せるのには適しません。しかし、今回、画質が落ちるのを承知で、容量を抑え、webに載せてみました。ということで、写真が、あまり鮮明ではありませんが、ご諒承ください。
  上述した旅行のうち、まず最初に、96年の暮れから97年の年始にかけて福建省および広東省の客家集住地を訪ねた旅行を「客家の里を訪ねて」と題して取り上げました。

 一、Kさんの家、福建省福州市東湖新村

 第一日■上海を午後八時に発った飛行機は、九時十分に福建省の省都福州に着いた。上海~福州、六百五十元(約九千円。一元は約十四円)。かつて、飛行機、寝台車などの運賃は中国人の倍近く取られていたが、九四年からそれがなくなった。
 空港にはKさんが迎えに来てくれていた。〝橘先生〟(先生とは、〝さん〟と言うほどの意味)と大きく書いた紙がすぐ目についた。
 「はじめまして、橘です。お世話になります」
 「Kです。どうぞよろしく」
 Kさんの妹さんは、明石在住の中国人留学生で、私の知り合いだ。妹さんの尽力で今度の旅行が実現した。簡単なあいさつの後、タクシーに乗った。私は、もう夜も遅いし、今夜は何処か空港近くのホテルに泊まろうと思っていた。ところが、Kさんは、「高い宿泊費を払う必要はありません。私の家に泊まってください」と私を家に連れて行った。
 Kさんの家は、空港からタクシーで二十分ほどのところにある東湖新村という団地だった。八階建てぐらいの住宅が幾棟も並んでいた。
 新村というのは、日本でいう、○○ニュータウンの規模の小さいものと思えばよい。中国の大都市周辺部によくある地名だが、ここ東湖新村は福州の中心部に近い。
 Kさんは私の大きな荷物を持って、そんな一棟の真っ暗な階段をどんどん登っていった。階段には電灯がなく真っ暗なうえに狭く、所々に家財道具らしき物まで置かれている。私は、そんな階段を足で探りながら遅れ遅れで付いて行った。
 Kさんの家は六階だった。
 現在のKさんの家族は、Kさん、Kさんのお母さん、Kさんの奥さんの三人だ。この他、Kさんの兄さんが近くに住んでおられて、この家によく出入りしておられた。一緒に食事もしたし、福州の案内もしてもらった。Kさんの兄さんは三十代半ばで、まだ独身で、「近くに一人で住んでいる」と言っておられたが、どうやら、私を泊めるために部屋を空けてくれたようだ。次の写真は、私が泊めてもらった部屋。
 Kさんの家の間取りを紹介しよう。入ってすぐがダイニングで、その奥がトイレとシャワー室になっている。これが家の真ん中で、これだけで三分の一。これらの右手に二部屋、私が泊まった部屋とお母さんの部屋、これで三分の一。左手手前がキッチンで、奥がKさん夫婦の部屋、これがまた三分の一。
 部屋数は多いし、洗濯機、テレビ、立派な冷蔵庫に電話もある。私は、「Kさんの家の生活水準は、中国の平均より高いのでしょうね」と聞いてみた。
 「中国全体から見ると高いでしょうが、福建省は華僑が多いし、経済発展も早いので、むしろ低い方です」とKさんの返事。
 Kさんは、奥さんと一緒にクリーニング店を経営している。私のために十日間も仕事を休んでくれた。店は、奥さん一人で大丈夫だろうか。
 Kさん宅では、福建省での最初の夜と最後の夜の二泊お世話になった。 
     
 第二日■福州見物。阿片戦争の英雄林則徐(りんそくじょ)の生家見学。パンダ研究センター見学。鼓山登山および涌泉寺見学。「空海入唐之地」の碑のある開元寺見学。 

林則徐生家
旅行の最後、また福州へ戻ってきたが、丁度、元旦だった
福州市内

二、客家(ハッカ)って何?

 客家とは、漢民族の一支族で、漢語(中国語)の一方言である客家語を話す人たちをいう。
 もと、黄河流域の中原に住んでいたが、四世紀の西晋末以降、唐、宋など歴代の戦乱を逃れて南下し、華南を中心に住み着いた。台湾、東南アジアなど世界各地にも移り住み、八十ヵ国・地域に及ぶ。その数、中国大陸、海外合わせて六千万人といわれている(この数字は林浩著『客家の原像』による)。古代中国語に近い客家語(客家をハッカと読むのは客家語の発音)など、独自の文化や生活習慣を守っている。
 客家の歴史上の人物では、朱子学の朱子、陽明学の王陽明、太平天国の洪秀全、辛亥革命の孫文、孔祥煕(こうしょうき)に嫁いだ宋靄齢(そうあいれい)、孫文に嫁いだ宋慶齢、蒋介石に嫁いだ宋美齢の宋三姉妹などが有名である。
 ある全国紙の連載、『奔流中国』が九六年十一月二十三日の記事で、客家について次のように伝えていた。「東洋のユダヤ人」、「血のネットワーク」、「最強の華僑」、「時代を動かす風雲児」など、最近、日本で出版された客家を紹介した本には、おどろおどろしい表現が並ぶ。
 客家の一員として、彼らが誇る人物群には中国の鄧小平氏、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー上級相らがいる。いずれも国際的に知られた指導者であることから、「客家が華人社会を動かす」との宣伝文句で本が売れている。

三、土楼の里への道

 第三日■昨夜九時に福州を出た特快(特急)は、終着駅龍岩(ロンイエン)まであと一時間というあたりで夜明けを迎えた。間もなく到着時刻の六時四十五分なのに、かなり遅れている。
 福州~龍岩、四百八十五キロ、軟臥車(グリーン寝台、四人で一つのコンパートメント)百二十四元(約千七百四十円)。
 列車はきれいな流れに沿って走っている。まだ明けきらない朝靄の中、あちらこちら、竹を組んだ筏を浮かべ漁をしている。
 そんな川を眺めていると、川の水が急に泡立ち始めた。「どうして」とKさんに聞くと。すかさず横から客の一人が、
 「人びとの生活排水や工場廃水による環境汚染だ」と教えてくれた。龍岩の人のようだ。〝環境汚染〟といった言葉がさっと出てきたことに感心する。中国において環境汚染が深刻になってきていると聞くがそうなのだろう。私は更に、
 「龍岩にはどんな工場があるのか」と聞く。
 「石炭の鉱山や煙草の工場だ」と龍岩の人。こんなやりとりをしているうちに、一時間少し遅れて龍岩に着いた。
 改札口を出ると駅前広場には、「梅県」、「永定」、「湖坑」、「大埔」等と行き先を表示した大、中、小、いろんなバスが並び、客引きがすごい。今、中国では、このような地方都市や、中距離、長距離のバスは、ほとんどが個人経営(複数人経営も含めて)である。そういう個人経営の大型バスを大巴(ターパ)、中小型バスを中巴(チォンパ)といい、これらは利に聡い。列車が一時間以上遅れたこともあってすごい客引きで、私が、「客家の土楼へ・・」と言いかけたら、客引きは、「これでいい」と引っぱり込む。何時間乗るか分からないので、「乗る前にトイレへ行きたい」と言うと、「路上下車・・」と言って、降りようとする私を押し止める。「路上下車」の後はよく聞き取れなかった。「行きたくなったら、止めてやるから路上でしろ」とは恐いこというなあと思っていたら、バスは十分程してガソリンスタンドに立ち寄り、そこにトイレがあった。Kさんの補足説明によると、車掌は、「路上下車去厠所、很快就到(〝路上〟には途中という意味もあり、途中で降りてトイレへ行け、すぐに着く)」と言ったようだ。 
 トイレ問題は解決したが、行く先は間違いではなかったが、ぴったりでもなかったようで、途中、バスを二度乗り換え、最後は十五分ほど単車に跨がり、合計三時間半近くかかってやっと洪坑(ホンカン)に着いた。

四、振成楼、ガイドが歌ってくれた客家山歌(さんか)

 洪坑は土楼の村として売り出しており、村の入り口には〝ようこそ土楼民俗文化村へ〟という看板と付近の絵地図が掲げられている。私たちの単車はここを通り過ぎ、振成楼というでっかい円楼の前で止まった。次の写真は、振成楼の楼主の林日耕さん。 
 やっと着いた。「行きたいな」と思ってから、ここまで来るのに十年近くかかった。やっと来たのだから、見学だけでは残念だ。単車の運転手に、「円楼に泊まれるか」と聞くと、
「頼めば泊めてくれる」と言うので、Kさんに交渉しに行ってもらう。
 この振成楼(しんせいろう)は観光用として開放しており、顔写真と名前の入った工作証を胸に付けたガイドらしき少女が三人、円楼の大門の前で編み物をしたり雑談をしたり、暇そうにしている。
 泊まれるということになって大門を入る。円楼の一階はにぎやかだ。流しや竃(かまど)があり、主婦が食事の用意に忙しい。ちょうど昼食時だ。すぐ横では鶏が餌を食んでおり、豚がうるさい。子どもたちが走り回っている。
 私たちは、木造の階段を登って三階の部屋の一つへ案内される。頑丈な木の戸を開けて内に入ると、大きな木のベッドと木の机と、何が入っているのか大きな木の箱とだけの薄暗いがらんとした部屋で、田舎の実家の蔵の二階を思い出した。
 寝台の幅は広いのだが、二人寝るのは無理だし、布団も一人分しかない。Kさんは、机と箱を並べてその上に寝るなどという。それは無茶なので、もう一部屋頼みに行ってもらう。相当、時間がかかってKさんは帰ってきた。頼み込んで四階にある家族の部屋を借りられることになったという。三階の部屋はKさん、四階の部屋は私が泊まることになり、私は荷物を持ってもう一階登る。「わーきれい!」。今度の部屋はさっきの部屋と大違い。寝台にはピンクの薄絹の蚊帳がかかっており、布団もピンク。壁には香港の歌手のポスターが貼られている。これはきっと、さっき下にいた、このおばさんの娘さんの部屋、と思いながら、案内してきてくれた私と同年輩のおばさんに、「誰の部屋」と聞いてみた。おばさんの返事は、「私の部屋」。これにはたまげた。この部屋一泊二十元(約二百八十円)。三階の部屋は十元。
 振成楼近くの食堂で昼食を済ませた後、楼内の見学をする。まず目につくのは大門や石柱にある聯である。

  振綱立紀     
  成徳達材

 聯の左右の頭の文字を取ると、この楼の名前の「振成」になる。
 また、別の聯、

  振作那有閑時、少時壮時老年時、時時須努力
  成名原非易事、家事国事天下事、事事要関心

 (奮起せよ、暇なときはない。幼いときも壮年時にも老年になっても、いつも努力せよ。名をなすことは容易なことではない。家事、国事、天下のことすべてに関心をもて)
 これも、聯の左右の頭の文字を取ると〝振成〟になる。青年は、こういう環境のなかで成長し、自分の子弟や一族で才能ある人材に教育の機会を与えたのだ。
 客家集住地の学校の多さ、客家の教育レベルの高さはよく言われることである。客家の集住地には耕地が少ない。そういう環境のなかで、一族繁栄のため、教育投資が行なわれてきたのである。

裏山から見た振成楼      右上に方楼が見える
振成楼  中央に見えるのは中堂

 楼内の展示・資料等を見ていると、さきほど、大門のところで暇そうにしていたガイドらしき少女が、
 「どこから来た」等と話しかけてくる。どこへ行っても、こうゆう質問をよく受ける。私が外国人であることを特に意識しての質問ではないようで、中国人同士でもよくある質問のようだ。
 私も負けじと、「歳はいくつ」と聞く。
 少女は、
「当ててみて」と茶目っ気を示す。
 そういうと、十五、六に見えるが、もっといっているようだ。といって二十三などと言って間違っていたらまずいので、
「当てられない」と言うと、「二十だ」と答えた。だから、厳密に言うと少女というのは適切でない。
  彼女は、円楼の中を次々案内してくれる。
 「この円楼には陰陽二つの井戸があって、この井戸が陰井で美容水。もう一つの井戸が陽井で知恵水」と彼女。
 「その水を毎日飲んでいるから君はきれいで賢いんだね」と私。彼女は、はにかみ、でも、うれしそう。 
 こんな私たちを見つけて、残りのガイド二人もやって来た。
 「現在この楼には何家族、何人住んでいるの」と私。
 「八家族で三十数人」と彼女たち。
 この後行った承啓楼のように、現在なお四百人近くが住んでいるという楼もあるが、ほとんどの楼ではどんどん住人が減ってきているようだ。
 「君たちもか」と私。
 「裏の二階に住んでいる」と彼女たち。
 これは後で分かったことだが、この土楼は二重になっていて、私たちが泊まった四層の主楼の内側にもう一つ二層の楼があり、この二階に彼女たちの部屋があったのだ。

 彼女たちの工作証を見ると、先程から話している娘の姓は「鄭」、他の二人は、「許」と「盧」。未婚の彼女たちの姓がみな違うのはおかしい。円楼は、同姓の一族のみが住む集合住宅と聞いている。私は、
 「君たちはさっき、この楼に住んでいると言った。それなのにどうして三人、姓が違うの?」と聞いた。
 「仕事で来ている」と彼女たち。
 「では、どこから来てるの」と私。
 「詔安(ジァオアン)から」と許さん。
 「詔安ってどこ」と私。
 「たいへん遠い」と許さん。
 後で調べてみると、詔安は福建省の南西の端の都市である。鄭さんは龍岩。龍岩は、今朝、私たちが列車を降りた都市で、この地方の中心だ。盧さんは坎市(カンシ)。これは近い。
 「君たちはみんな客家?」と私。
 坎市の盧さんだけが客家で、後の二人は違っていた。
 だいぶ核心に迫ってきた。
 「君たち、客家山歌を歌える?」これが言いたかった。でも三人とも黙っている。
 「君たちガイドだろう」と私。すると、鄭さんが、「途中までなら」と答え、私を資料の展示室へ連れていった。そこには、客家山歌や客家民謡の歌詞がいくつか紹介されていた。
 客家の里は、美しい山々、谷川を流れる水、静かな田野、鳥、花、蝶などの自然環境の中にある。この里で暮らす若い男女は、農作業を終えると、木を伐り、草を刈るため森に入って行く。そこには多くの異性が来ており、礼教の束縛や家長のうるさい目もないので、互いに自由に語り合うことができた。このような時、遠くから異性を発見すると、山歌を高らかに歌い、相手の気を引くのだ。
 客家の山歌には情歌が多い。以前、八月十五日(旧暦)の中秋節の前後には、月が昇ると、あちらこちらから山歌の声が聞こえてきて、十五日、十六日の二晩は、一晩中、山歌が歌われて朝になる、といったことがよくあったということだ。
 彼女は、客家山歌の歌詞の前で立ち止まり歌いだした。下の写真、向かって左が客家山歌を歌ってくれたガイド。

     八月十五看月光

 八月十五看月光 八月十五夜よい月だ  

 看見鯉魚騰水上 鯉が水の面(みのも)を跳びはねる

 鯉魚唔怕漂江水 鯉は泳ぎを恐がらない 

 恋妹唔怕路頭長 恋路の遠きも恐くない 

 八月十五看月華 八月十五夜よい月だ  

 郎出月餅妹出茶 茶と月餅で語り合う  

 郎食月餅甜到肚 男は腹まで甘くなる  

 妹食細茶開心花 娘は茶を飲みああうれし

 八月十五月団円 十五夜お月さんまん丸だ

 粉絲炒面纒対纒 春雨、焼きそば纏いつく

 妹子有情郎有意 娘も男も恋心   

 交条人情万万年 二人の愛は千万年  

 八月十五是中秋 八月十五夜中秋節  

 買個月餅送朋友 月餅送ろういい人に

 今日交了有情歌 思いを歌で届け合う

 永久相好情不diu  心変わりは許さない 

         (永定客家山歌)

 直訳するとリズムが崩れてしまう。できるだけリズムを崩さないようにと思って訳を付けたら上のようになった。私は、こんな事もあるのではと思って、テープレコーダーを持って行っていた。彼女は少し恥ずかしそうにしたけれど録音させてくれた。でも聞いていて少しも分からない。普通話(私たちが習っている標準語)ではなく、客家語の発音なのだ。
 新たな観光客が来たようで、大門の方がにぎやかになってきた。三人のガイドはあわてて駈けて行った。
 旅行から帰ってきて、中国語の先生にこの話をした。先生は貴州省の出身で、少数民族の〝歌垣〟(男女が歌の掛け合いをしたり踊ったりしながら求婚をする行事)のことをよく知っておられた。省都貴陽では今でも毎年四月八日に、市の中心部にある噴水池にミャオ族が集まり、「四月八(スーユエパー)」という祭りが開かれ、求婚行事の歌垣が行われていると言っておられた。

五、〝円楼王〟、承啓楼へは単車の三人乗りで

 振成楼の見学を済ませた後、振成楼のある洪坑村から更に四、五キロ奥の高北村の承啓楼へ行く。承啓楼は現存する最古最大の円楼で〝円楼王〟といわれている。
 単車で行くことになる。一台の単車に私とKさん二人が跨がり、私は運転手に抱きつき、Kさんが私に抱きつく。 洪坑村から高北村への道は、ちょうどタイかカンボジアの山地へ来ている感じだ。赤茶けた山肌が露出し、初夏を思わせる暑さの中、対向車とすれ違うたびにすごい土埃が上がる。
 単車の三人乗りは危ない。ヘルメットも被らず、土埃りの石ころ道を走る。対向車が来てもぎりぎりになってやっと避ける。石ころ道に車輪を取られ、ヒヤッとすることが再三だ。
 私は、「二人、別々の単車に乗ろう」と、いつも言うのだが、Kさんは、
 「能節約就節約、在na(口偏に那)zheng(手偏に争)銭都不容易」
 (節約できる時には節約しよう、どこでも金儲けは容易じゃない。)が口癖。

 Kさんは最近、会社を辞めてクリーニング店を開いた。開放経済の進む中国、それも広東、福建、上海など沿海部では、企業を退職して個人で事業を起こす者が増えてきている。これを「下海(シャーハイ)」という。Kさんは、「四万元ほど要った。その多くは親戚や友達から借りた」と言っていたが、「金儲けは容易じゃない」という言葉には実感がこもっている。
 そんなわけで、結局、Kさんに従うことになる。
 二十分程で承啓楼に到着。

現存する最古最大の円楼、承啓楼
承啓楼の大門前で

 永定県には、方形、円形いろんな土楼合わせて二万程あり、その内、円楼は約三百六十程ということだ。これは、振成楼の中の説明書の数字。そんな円楼の中でもこの承啓楼は最古最大なのだ。
 この円楼は、もう、四、五年前になるだろうか、NHKの番組で見たことがあった。旅行に出かける前にビデオを見直して、
 ●全盛時には、八十数戸、六百人からが住んでいたが、取材の段階での住人は、五十六世帯、三百八十人。
 ●一族の長老、江龍済さん。今年で七十歳? もう一人の長老、江万慶さん。今年で七十四歳?
 ●最高齢者、李祝風さん。今年で八十七歳?
 などと、要点をメモして行っていた。
 なんと、私たちを案内してくれたのは、その番組に登場していた、一族の長老の江龍済さんではないか。黒い帽子を被り、眼鏡をかけた特色ある顔立ち。眼鏡が黒縁に変わっている以外はテレビのままであった。
 私は、メモを見て、
 「江龍済さんですね」と聞いた。
 江龍済さんは、びっくりして私のメモを覗き込み、どうして自分の名前が書いてあるのかといぶかった。続けて、

 「失礼ですが、おいくつですか」と尋ねた。
 「六十九歳」という返事で、これは私の計算より一歳若かった。

  「李祝風さんはお元気ですか」と私。
  「去年死んだ」と江龍済さん。

一族の長老、江龍済さん 右はKさん

 江龍済さんの案内で円楼内を見学する。江さんは、「この円楼は、清の康煕四十八年(一七〇九年)、江集成という人が建てた。以来、三百年近い間に、この楼からたくさんの人が日本、マレーシア、シンガポール、香港、マカオ等へ出て行った」等と説明しながら、私たちを案内してくれた。

 円楼は一般に厚さ一米を超える土の外壁を持ち、各部屋は頑丈な木造である。この承啓楼は、同心円状に三重になっており、一番外の主楼は四層で、高さ十二・四米、周囲千九百十五・六米。この内側に更に二重の平屋があり、円楼全体の部屋数は三百八十四。円楼の中心に祖先を祭る祖堂がある。現在なお三百八十人近くが生活しており、この円楼一つで一つの村といえる。
 最後に、写真を撮ろうと裏山に登る。段々畑の細い畔道を登り裏山に立つと、客家の人たちが、自分たちのふるさとを「八山一水一分田」と表現するのがよくわかる。

 来た道を、また、単車の三人乗りで帰る。

六、勝手が違う、円楼の風呂とトイレ

私は風呂が大好きだ。というより、風呂に入らないとよく眠れない。この楼では風呂はどうなっているのだろう。私は、偵察に下へ降りて行った。そして、竈のところで夕食の準備をしているおばさんに、「手と顔を洗うので湯がほしい」と言ってみた。「浴室を使いなさい」とおばさん。
 「しめた!」と思って、おばさんの指図に従う。 おばさんは、大きな釜から桶に湯を取り、その桶を持って、豚小屋の横手にある「浴室」と書いてあるところに私を連れて行った。浴室の中は、浴槽も何もなかった。ただ、脱いだ衣類が置けるだけの棚があったので、裸になって体を拭いた。幸い、ここ福建省永定県は日本よりずっと南で、台湾とほぼ同緯度なので冬でも暖かい。
  振成楼も承啓楼も、各階の回廊の所々に甕(かめ)や桶が置いてあり、これが小便用であることは知っていた。旅行に出る前に読んだ本に、「回廊を歩くと、尿の臭気が鼻を刺す」と表現されていた。しかし私は、臭気についてはそんなに気にならなかった。問題は大便だった。昨日の夜行から腹の調子が良くなかった。寝る前に便所の場所をちゃんと確認しておくことは大切なので、一階の便所らしきところを見に行った。
 ところが、そこにも甕と肥え桶が置いてあるだけで、大便の設備はなかった。仕方なく、いつも世話になるおばさんのところに、「トイレはどこ?」と聞きに行った。
おばさんは、後についてくるように手招きして、暗闇を懐中電灯で照らしながら楼の外へ出て行った。私を、一軒の民家に連なった家畜小屋のようなところに連れて行き、「ここを使え」と言う。おばさんは、私に懐中電灯を渡し帰ってしまった。中を懐中電灯で照らすと、確かにトイレだった。でも、気が付くと、入口の壁に「女」と書いてある。おばさんはここだと言ったのにおかしいなあと思って隣を懐中電灯で照らすと、豚が寝ていた。更に隣は民家の入口だ。男性用は無いようだ。

 第四日■明け方近くトイレに行きたくなった。私は懐中電灯を持って暗い階段を下りていった。ところが、まずいことに、大門には大きな閂(かんぬき)が掛かっていてびくともしない。私はすごすごと引き返した。「廊下の小便用の桶でしようかな」と思ったが、「中に落ちたら大変」と思いとどまり、朝まで我慢した。六時を過ぎ、鶏が鳴き、人の気配が感じられるようになって再び行動を起こした。大門は、今度は開いていた。

円楼の内部
円楼の回廊にある尿桶と尿甕

 昨夜のトイレで坐っていると、トイレの戸の前で小さな女の子の声がする。何と言っているのか分からないし、まだ途中なので無視していると、子どもは、戸の隙間から細い竹を突っ込んでくる。早く出てほしいと言っているのだと思って、出てやった。すると子どもは、私に何か言いながら逃げて行った。振成楼の子どもで、昨日、私が遊んでやった子だ。私を、おちょくっているのだ。けしからん。
  前述した円楼のもっとも特徴的なところは外壁の厚さが一メートル以上もあり、しかも四階建ての一、二階に窓がないことである。まさに堅牢な要塞だ。客家は、もと、黄河流域の中原に住んでいたが、四世紀の西晋末以降、唐、宋など歴代の戦乱を逃れて南下し、華南を中心に住み着いた。客家は新しい土地に入るたびによそ者であった。従って、もとからいる漢族や原住のショオ族、ヤオ族など少数民族との争いが絶えなかった。このような状況から円楼が作られたのだ。
 原住者から、「本地」に対する「客」とされ、その「客」に軽蔑の意がこめられて呼称されもしたが、やがてその呼称を逆手にとって自らも「客家」と称するようになったのだ。


七、福建省~広東省、客家の里横断

 旅行四日目の朝九時過ぎ、土楼の里を後にする。今日は大きな荷物があるので、Kさんと私、一人ずつ別の単車に跨り四十分、岐嶺に出る。
 ここ岐嶺は幹線道路に面し、街道の分岐点である。小さな町であるが、街の中心の十字路の周辺には、「永定」、「湖坑」、「下洋」などと、比較的近距離を表示した中巴(チョンパ、小型バス)が客待ちで停まっている。また、私たちのように、時間待ちをする客のための食堂も数軒ある。私たちは、隣の省、広東省の梅県へ行きたいのだが、「この時間帯では直行はないから、十一時発の大埔(タープゥ)行に乗り、そこで乗り継ぐといい」と食堂のおばさんが言うので、従う。
 まだ、一時間以上あるので町をぶらぶらするが、小さな町なので、すぐまた食堂に帰って来てしまった。まだ少し時間があるし、かといって、食事を摂るだけの時間もないしと迷っていると、食堂のおばさんが、「いつも遅れてくるから十分時間はある」という。食べていると、竜岩からのバスが時刻通りにやって来た。「おばさんの嘘つき」と日本語で言って、味の良かった面条(うどんのようなもの)に未練を残しながら急いでバスに乗った。
 バスは、こんな田舎にしては立派な中巴で、「臥鋪車」と書いてある。上下二段の寝台(少し窮屈だが横になれる)バスなのだ。でも、すでに満員で、私たちは高い料金だけ取られて、小さな竹の簡易椅子に坐らされた。

 今回の旅行に出発する前、福建省から、山間部を越えての広東省入りを心配していた。しかし、岐嶺から、下洋、茶陽を経て大埔まで、ところどころ、まだ建設工事の続いている所もあったが、完成したばかりの立派な道路がついていた。
 道中、バナナの木、大きな角をした黒い牛、山間の赤茶けた土が露出した山肌など、亜熱帯の風土を見ながらバスは走る。一時間半少しで大埔着。ここで、梅県行のバスに乗り換える。途中、三河という所でトイレ休憩。ここは、文字通り、梅県からくる梅江など、三つの流れが合流するところで、ここからは韓江となる。ここから見る川の流れはすばらしい。
 私は、すばらしい流れを眺めながら客家山歌の一つを思い出した。
 三河から梅江を少し遡った辺りに松口という所がある。松口の客家は特に山歌が好きだといわれている。華僑として東南アジアへ出稼ぎに行く若者たちは、梅県の県城から船に乗って梅江を下る。松口を過ぎる頃、山へ樵に出かける娘たちの姿を見かけると、山歌を歌い呼びかける。

  陽は昇りつむ、かんかんと

  そなた山へ蘆刈に

  家にある麻、紡がずに

  何を好んで陽に焼ける

 こうして男たちが呼びかければ、岸の向こうの娘たちも即興の情歌を返してくる。

  陽は昇りつむ、かんかんと

  あなたわたしに首ったけ

  家にある本、読みもせず

  旅路さまよい声かけて 

三河付近の風景

 バスは、きれいな韓江の流れに沿って走る。景色はきれい。道路は立派に舗装されている。車掌の娘も可愛い。バスだけおんぼろだ。

八、客家集住地の中心、広東省梅州市

 福建省の円楼の村から、単車、バス、バスと二度乗り継ぎ、約七時間で広東省梅州市の中心梅江区に到着した。
 梅州市は福建省と江西省に接し、梅江区、興寧市、梅県、大埔県、豊順県、五華県、平遠県、蕉嶺県の一区一市六県から成る。人口は四百六十万、面積は日本の県で最大の岩手県よりまだ少し大きい。梅州市の全域が客家の集住地で、その人口の大半が客家である。 梅州市の中心市街を梅江区といい、通常、梅州市という場合、この梅江区を指す。ここには山はない。大都市である。

梅州市内の狗肉(いぬにく)料理店
梅州市梅江区の通りの街路樹(ガジュマル、榕樹)

 梅州市街図を広げると、市街は梅江の流れによってほぼ二分されている。北上してきた梅江は馬蹄形にカーブし流れを南に変える。馬蹄形の先端が梅江橋で、馬蹄形の内と外を結んでいる。

 第五日■梅州滞在二日目の午後、人力三輪車に乗り梅江橋を北へ渡って嘉応大学へ行く。この橋はいつ渡っても、人、自転車、人力三輪車でごったがえしている。
 運転手の若者に、「梅州市の人口の何割ぐらいが客家か」と聞いてみた。
 「全員が客家語を話す」と若者。もっともな答えである。何を基準に客家と言うのか、という問題がある。この若者は、客家語を話す人イコール客家と判断し、このように答えたのだ。賢明だ。
 「学校でも、客家語で行う授業はあるのか」と私。    
 「家では客家語で話すが、学校では普通話(共通語)だ」と若者。
 嘉応大学は市街地の一番北にある。道路に面しコンクリートの新しい校門ができている校門正面「嘉應大学」の字の横には葉選平書とあり、その後には「この校門は曽憲梓氏の寄付によって建てられた」とある。
 校門をくぐり、学生の行き交う並木道をしばらく行くと正門に着く。正門を入ると、きれいなキャンパスが広がる。
 まず目に付くのは、正面芝生の中、周りを圧する馬上ゆたかな葉剣英の像だ。   

嘉応大学の校門
キャンパスに立つ葉剣英像

 葉剣英は梅県出身の客家で、郷土の英雄である。長征時代からの紅軍、八路軍・新四軍人民解放軍の元老であった。
 さきほどの葉選平とは葉剣英の長男で、父親の後を受け、広東省長、広州市長、広東省党書記などを歴任した。党中央は広東省における葉選平の権力を削ぐため、彼を中央のポスト、政治協商会議副主席につけたり懐柔につとめている。
 葉剣英像の立つ芝生の庭の奥に八階建ての立派な建物がある。正面には大きな字で、「憲梓教学大楼」と書かれている。大学本部ということだ。嘉応大学は、曽憲梓を中心に五人の華僑の寄付によって建てられたのだ。
 昨日、梅州駅へ列車の切符を買いに行く途中、「曽憲梓中学」と書かれた立派な学校を見た。これも曽憲梓の寄付なのだ。
 曽憲梓は、客家の立志伝中の人物である。彼は香港に工場を持ち、「ネクタイ王」と呼ばれている。「ゴールドライオン(金利来)のブランドでネクタイを中心に、ベルトなどオリジナルの服飾品を生産・販売、華人社会の消費者の心をとらえて急成長した。 キャンパスを歩いていて、「請講普通話」という立て看板に出くわした。「共通語を話そう」という意味だが、その裏には、客家語で話す学生が多く、共通語の普及に力を入れたいという大学の意図が読み取れる。

九、文学革命の先駆者、黄遵憲(字公度)

第六日梅州滞在三日目、黄遵憲(こうじゅんけん一八四八~一九〇五年)の故居である「人境廬(じんきょうろ)」(下の写真)を訪ねる。人境廬は清光緒十年(一八八四年)に建てられた。人境廬の名は東晋の詩人陶淵明の詩の「廬を結んで人境に在り、而(しか)も車馬の喧(かまびす)しきなし」から取られたものである。

彼(一八七六年の挙人)は一八七七年、初代駐日公使何如璋(広東省大埔県の客家、進士)の書記官として来日。琉球・朝鮮問題の解決に努力する一方、日本の漢学者と交遊、『日本雑事詩』を著わした。のち、アメリカ、イギリス等にも外交官として勤務した。彼はまた、早くより口語使用を主張し、漢字の簡略化に思いを馳せ、文学革命・文字改革の先駆者とされている。

黄遵憲

 客家の里を訪ねる旅もいよいよ終わりだ。梅州から列車で汕頭へ出て、後は、海岸沿いをバスで福州まで帰る。この梅州~汕頭間は九五年に開通した新しい鉄路である。

 梅州を出てしばらくして、隣の車両から朗々とした歌声が聞こえてきた。「ああ、また歌っている」と周りの客はそれが誰だか知っているようす。やがて、私たちの車両にやって来た。何ともすばらしい歌声である。歌は客家山歌のようだ。客は一元、二元と男に渡す。なかなかよい収入だ。男の歌を聞きながら、周達生氏が『中国民族誌』の中で、「汕頭~梅県の長距離バスに胡弓を奏でる吟遊詩人が乗ってきておもしろかった」と書かれていたのを思い出した。いまだに、吟遊詩人などという職業が存在するんだなあと感慨深かった。

 私の旅はまだまだ続くが、ホームページへの掲載は、ひとまず、ここまでとしておきます。機会があれば続きをご報告いたします。

私の旅行に付き合ってくれたKさん
衣料品店でジャンパーを買うところ


侯孝賢の世界


 (この項、1997年作成の文章です)
  今度の旅行とは直接関係がないが、現在活躍中の客家の著名人といえば、どうしてもこの人を忘れたくない。台湾ニューシネマの旗手、侯孝賢(ホウシャオシェン)である。
  主な作品を新しい方から順にあげると、『戯夢人生(ぎむじんせい)』、『悲情城市(ひじょうじょうし)』、『恋恋風塵(れんれんふうじん)』、『童年往時(どうねんおうじ)』、『冬冬(トントン)の夏休み』、『風櫃(フォンクイ)の少年』、『向こうの川岸には草が青々』などである。侯孝賢の映画は日本でもかなり上映されており、私もこの内の三本を見た。


 1989年、『悲情城市』がヴェネチア映画祭でグランプリを獲得したことにより、侯孝賢は一躍、世界的映画監督の仲間入りをした。『悲情城市』は、1945年から49年までの港町基隆(キールン)を舞台に、日本から国民党への支配者交代にまつわる悲劇と混乱の中を、台湾人がいかに生きたかを描いている。左の写真は『悲情城市』のロケ地となった基隆近郊の九フン(人偏に分)。
 台湾には、固有の言語を持つ先住少数民族がいた。そこへ、17世紀初頭以来、福建省南部を中心とした?南語を母語とする人々が移住しはじめる。このような移民に、広東省を中心とする客家(はっか)の人々も加わるようになる(現在、台湾の人口2千万人のうち、3百万人が客家だといわれる)。
 そして、1895年から1945年の50年間は日本の統治下に入る。戦後には、国共の内戦に敗れた国民党とそれに関わる人々が大陸から渡ってくる。いわゆる外省人である。彼らは、主として北京語を話した。
 侯孝賢は、1985年に自分の生い立ちを語った作品、『童年往時ー時の流れ』を作っている。彼は、1947年に広東省梅県に生まれた。彼が一歳のとき、家族は台湾に移住、南部の小さな町、鳳山などに住んだ。そこでは、周囲に客家語の通じる人がいなかった。彼は、家族の中では客家語を、学校では北京語を、近所の子どもたちと遊ぶときには?南語を使っていた。
 客家語の通じない町で、客家語しか話せない祖母は寂しい日々を過ごす。祖母と主人公の少年との会話は客家語だ。少年の友達はそれをからかう。年老いた祖母は、風呂敷包を提げては、故郷へ帰ろうとして道に迷う。幼い少年は、訳もわからぬまま祖母に従う。
 また、父の寂しさも描かれる。父は肺病で死ぬが、三、四年で大陸に帰るつもりで安い家具ばかり買っていたことが遺書でわかる。金門島で台湾と大陸の武力衝突が起きたとき、寝苦しい夏の夜、夢うつつに通りを過ぎ行く戦車の轟音を聴く。翌朝、父は道路に残された轍を、もう帰れないかもしれない故郷への思いを胸に黙って見ていた。
 この寂しさ、虚ろは、なにも少年の祖母と父だけのものではない。いつ、どこへ行っても、どこに住んでもついて回る客家の哀愁である。

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