第三部 中国感動の旅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4.貴州・湖南 苗(びょう ミャオ)族の里を訪ねて(2015年5月) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今回の貴州省&湖南省旅行は、つくづく、よく決断したものだと思う。70代に入って、実際に、行くだけの体力があるかどうかより、気力の面で弱くなっている自分がわかる。 長い逡巡の後、まず、関空⇔上海の航空券をネットで予約し、覚悟を決めた。今回は、今までの中国旅行と違って一人旅には不安があったので、まず、貴州省貴陽在住の親しい友人、Z先生にガイド・同伴者を探してほしいと依頼した。Z先生は20年来の友人で、現在、貴州の大学で外国語学院長をされている。ガイドに、最初、私は、先生の学生を考えていた。2、3日して、先生から、「学生は、まだ、後期の授業が残っていてだめですが、私の妹に頼めそうです」と返事があり、Z先生の妹さん(以下、Z妹さんと表記)にお願いすることになった。 まず、ここまで決まったのでおおよその日程を組み、Z先生に送った。この日程表は、私とZ先生との間を、何往復もして、より確かなものになっていったが、それでも、現地での変更が多く、結果として、次のような旅行になった。
航空券は、中国国内のものも含めて、ネットで予約・購入し、eチケットをプリントアウトして持参し、飛行場のカウンターで搭乗券を受け取った。料金は、後日、クレジットカード支払い。列車の切符は、Z先生に頼んで事前に購入してもらっていて、支払いも済んでいた。ただ、切符そのものは、当日、駅で、発券・受領した。Z妹さんは、自動発券機に身分証を挿入し、予約番号を入力するだけで簡単だったが、身分証がパスポートの私は自動発券機が使えず、切符売り場の長い行列に並んで予約番号を伝え、切符を受け取った。 第一日は、空路で、ほぼ時間通り貴陽着。
この日、午前中の用事はZ先生の大学訪問。朝6時過ぎにホテルを出て、タクシーと大学の職員送迎用のバスを乗り継いで1時間半、貴陽郊外に新しくできたキャンパスに着く。この地には、近年、複数の大学が新キャンパスを造成し、新たに大学町が出現している。大学に着き、まず、学生食堂で朝食をとる。学生のほとんどが寮生活なので、特に朝は、大規模な学生食堂が満席で、活気があって壮観。
《夜郎自大(やろうじだい)の夜郎の遺跡?》 朝食を済ませたあと、少し時間があるということで、大学のすぐ裏手、夜郎の村の見学に行く。Z先生に、「夜郎の村の見学に行きましょうか」と誘われ、「夜郎?」と聞き返した。「『史記』にでてくる、漢の時代の話、“夜郎自大”の夜郎です。*下に補足説明」とのことで、半信半疑で、Z先生に従う。大学の裏手、工事用の出口を出ると、そこはもう、夜郎の村。でも、村には入らず、川沿いの細い道を進む。しばらく行くと、なんとも奇妙な造形物が林立する区域へ入り込む。Z先生は、「すばらしいでしょう!」とおっしゃる。確かに奇妙で、その魅力に引き込まれる。「いつの時代のもので、誰が作ったのか、定かでありません。ただ、貴重な遺物であることは確かです。でも、これらの造形物が存続の危機にさらされています」。Z先生が指差す方角を見ると、道路の建設なのか大規模な土木工事が進んでいる。下の写真は夜郎の村の不思議な造形物。
《日本語科の学生に授業をする》 1時間ほど見学して大学へ戻る。事前の打ち合わせどおり、先生の授業を1コマ貰って授業をする。話の題は、「笑って話せる話を一つ 重い話を一つ」。一つは、中国人訪日客が全体の五割を超えるということで、“爆買い”について話す。もう一つは、日中双方の歴史認識のずれということで、ミズリー号上での降伏文書の調印からはじめ、村上春樹氏の新聞記事で締めくくる。
この日、午後の予定は、貴陽の市内観光と銀行での両替である。街中を歩いていると道路沿いの公園から大きな音量で音楽が流れてくる。楽しそうなリズムに惹かれ覘くと、大小さまざま、いくつものグループの男女が、カラオケやダンスを楽しんでいる。中には、民族衣装のグループもある。
次は、甲秀楼の見学。貴陽市内を流れる南明河の大きな岩に建っている。16世紀末、明の万暦年間の建立。名前は、優秀な成績で科挙に合格するような立派な人材が輩出するようにという意味でつけられたとのこと。貴陽のシンボルである。 《中国銀行で、温和な私も“ぶち切れる”》 翌日から、どんな田舎へ行くかわからないので、両替は今日中にと思って、ずっと、中国銀行を探していた。やっと、甲秀楼近くで見つけて入る。ここで、トラブル発生!そう何度も両替するのは面倒と思って、8万円を両替する。私の前に2人しか居ないのに、やたら時間がかかる。若い女性の職員は、全く緊張感がない。隣の職員との私語が絶えない。半時間以上も待たされて、やっと私の番になる。窓口で、書類と現金8万円を出す。偽札でないかと、一枚一枚透かして念入りに見ている。慎重だなと思って待っていると、上下Uカーブになった、狭く受け取りにくい窓口から、人民元394元を渡される。「何、これっ!」私はびっくりし、一呼吸おいて、怒りがこみ上げてくる。8万円を8千円で計算しているのだ。私は、半分日本語、半分中国語で声を荒らげる。ガラス越しの若い女性はきょとんとし、私の怒りの意味が察知できない。「主任を出せ!」と私。しばらくして、中年の女性が出てきて、ことの意味を理解する。そして、あと、7万2千円分の3545元を追加してくれるが、詫びの一言もない。書類上は、私が、まず、8千円両替し、続いて7万2千円、と2度両替した扱いになっているのだ。つまり、自分たちのミスとは認めないのだ。
少し落ち着き、帰りのバスで思ったのだが、怒りの原因の半分は私自身の側にあったことに気づく。それは日本円の安さに対する惨めさに起因する。日本に帰ってわかったことだが、この時期、5月下旬、日本円は対米ドルで125円まで下げていた。日本円→人民元の両替には、米ドルを中に挟むから、対米ドルの円安がダイレクトに反映したのだ。1元を買うのに20円で足りない。円安は日本安、日本人安と言われているようでなんとも惨め。つまり、中国銀行での私の驚き、怒りの半分はここにあったような気がする。 ■第三日 凱里を経て、雷山ふもとの苗族の村、西江千戸苗寨訪問 Z先生の妹さんと、いよいよ、苗族の村へ出発である。
《苗族(ミャオ族)》 中国は国家統計上(2000年)、人口の92%を占める漢族と55の少数民族からなるとされている。少数民族を人口の多い方から並べると、千六百万人のチワン族、千万人の満州族、千万人弱の回族、その次が苗族で約九百万人。更に、ウイグル族、土家族と続く。
苗族は、銀の飾りを多用した民族衣装、歌垣や竜船競漕などで有名。祭りには大小の芦笙(ろしょう。芦の茎を管にした笙)が登場する。地域によって多くの支族に分かれ、その地域々々、特色ある文化を有し、衣装にも違いがある。 夜半から大雨。朝になって、多少小降りになったが降り続いている。今日は、村のお祭りがあると聞いていたのに大丈夫かなと心配する。雨は一向にやまない。宿の中で、じっとしているのはもったいない。旅行に雨はつきもの。それくらいの準備と覚悟はできている。合羽にレインシューズといういでたちで出掛ける。この旅行に出掛ける前から、ネットで、この村を俯瞰した写真を見て、その景色のすばらしさ、印象がずっと頭にあった。それで、私は、雨の準備の不十分なZ妹さんとW君にかまわず、展望台を目指して、最初は、先頭に立って、ずんずん山道を登る。でも、歳には勝てず、中腹まで来て先頭をW君に譲り、そのうち、シンガリをつとめることになる。
凱里までの帰路は、疲れていたこともあって、村の出口で、客待ちをしていた乗り合いタクシーに乗る。帰りの道中、河の水嵩を見て驚く。対岸には、河水に浸かっている集落もある。 ■第五日 沈従文のふるさと、鳳凰県へ 最初、凱里からバスで鳳凰へ直行することを考えていた。しかし、調べてみると、途中、銅仁での乗り換えが必要な上、運行ダイヤもはっきりしなかった。結果、懐化まで列車に乗り、懐化からバスというルートに変更。10時23分凱里発、14時46分懐化着(41.5元)。
《沈従文(しんじゅうぶん)『辺城』》 私は、湖南省西部、貴州省との省境近くの山間に、鳳凰という町のあることは以前から知っていて、その町の風情に惹かれ、ずっと、行ってみたいと思っていた。そういう私の背中を押したのは、この地出身の作家、沈従文との出会いだった。神戸市外国語大学准教授津守陽氏の「少数民族と漢民族の血の間で-沈従文という作家」という講演を聞き、初めてその作品『辺城』を読んだ。沈従文は、日本での知名度は低いが、中国では、魯迅、老舎らと並ぶビッグネームのようだ。 《おどろおどろしい晩会》 ここ、鳳凰でも晩会があるというので、昨日の晩会がよかったので、おなじようなことを期待し、申し込む。ここの晩会は詐欺にあったような気分。街中からバスに乗せられ20分、着いたところは町外れの洞窟。この中で、篝火を焚き、シャーマンもどきの劇が演じられるのだけれど、篝火の煙がくさい上、おどろおどろした雰囲気が堪らず、途中で帰りたかった。でも、バスに乗らないと帰れないので、なんとか、最後まで辛抱する。帰りに、私が写っている写真を買わされ、それと合わせて100元。昨日の晩会が良かっただけに、残念!おいしいご馳走のあとに、もどしそうになるデザートを食べた気分。
■第六日 鳳凰古城 街中を見学する。まず、にぎやかな通りを外れた小山のふもとに沈従文の墓を訪ねる。入り口はわかりやすかったが、墓そのものは、なんともわかりづらく、あれこれ探しているうちに、やぶ蚊に刺されまくって、早々に退散。写してきた写真がそうなのか、自信がない。にぎやかな街中へ戻る。ここで、入城料(門票)を取られる。148元と高い。ところで、中国の観光地は高齢者に優しく、70歳を超えると、普通、無料である。そして、この措置は、外国人でも同じなのがうれしい。私が、異議を唱えると、何処かへ電話をしていた。そして、外国人は適応外という。私一人なら、別の入り口へ行って、もう一度挑戦するところだが、Z妹さんと一緒なので、あまり、はしたないことはできないので、要求されるまま148元払う。
■第七日 懐化市内見物 上海行きの夜行列車まで随分時間があるが、雨が降っていて遠出する気にはならない。歩いて30分ほどのところにある総合市場の見学に行く。なかなか活気があり面白かった。
《折二根 zhe er gen 》 上の写真の通り、形状はモヤシに似ている。貴州を中心に四川、雲南、湖南の特産品。野菜として食材になるほか、風邪、肺炎の薬としての用途があり、特に、2002年の非典(SARS)流行時、争って求められた。その効き目があったからか、当時、「貴州一個都没有非典(貴州には一人のSARS患者もいない)」と、その効能が喧伝された。これは、Z妹さんからの受け売り。 16時35分、懐化発の列車で上海へ(寝台中段、333.5元)。1元は20円。
■第八日 夜行列車で20時間、上海着 上海には、中国の大学での教え子が何人もいて、親切に相手をしてくれるのでありがたい。今回も、Oさんに、ホテルの予約を頼む。 帰国前日は、上海浦東飛行場への交通機関の関係で地下鉄2号線の沿線に宿をとることが多い。いままでも、同じ南京西路駅利用のホテルだったけれど、歩いて15分近くかかり、駅から遠かった。特に前回は、大きな雨の中、たくさんの荷物を持って困った。確かに宿泊費は、270元と、上海にしては安かった。それで、今回は、Oさんに、駅に近いところと条件をつけた。「駅からすぐですが、部屋は狭くて、窓もありませんよ」「それで結構です」ということで、今回の瑞泰酒店となった。宿泊費480元。
■第九日 上海浦東空港から関空へ
Z先生、Z妹さん、お世話になりました。おかげで楽しい旅行ができました。
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