第三部 中国感動の旅
2.承徳(避暑山荘)への旅(2011年6月)

北京~承徳、汽車の旅

承徳は北京から北東へ250キロ、燕山山脈中の盆地にある。北京~承徳は5時間ほどの汽車の旅である。1215分発丹東行きの空調普快は北京駅を定刻に発車した。丹東は鴨緑江を挟んで向こう岸が北朝鮮という国境の都市である。随分、遠いところまで行く列車で、軟座は満席で硬座の切符しか買えなかった。2人ずつ向かい合った4人掛けの席の他の3人は中国人男性で、丁度、昼時とあって、何種類もの燻製の肉の塊をナイフで切り取り、これを当に、度数の高そうな酒をぐいぐい飲み、上機嫌である。座席の間の小さなテーブルは燻製肉の油とこぼれた酒で、こてこてぴかぴか、匂いもきつい。それにしても凄い食欲である。えらい席になったと食べ終わるまで我慢する。
 列車は、すぐに、北京の市街地を離れ、車窓には農村風景が続く。それもしばらくで、間もなく山間地に分け入っていく。燕山山脈である。山海関に始まる万里の長城の最初の部分は、この燕山山脈に乗っかっている。途中の大きな駅、興隆辺りから山が険しくなり、10ほどのトンネルを抜け承徳に着いた。

清朝の避暑山荘

この地は、燕山山脈の涼しい高原地帯にあって、明の時代から避暑地として有名であった。当時は熱河と呼ばれていた。清の時代、康熙帝はここに避暑山荘を造営し、夏季は政務もここでとった。以後、清の副都のような存在になっていった。
  雍正帝は父康熙帝の徳を受け継ぐ意を表すため、「承(うけつぐ)徳」州を設けた。承徳の名はこの時に始まる。
  ところで、いまの北京の地に本格的な都が造営され始めるのは明の永楽帝からである。北京は、防衛上の要衝であるが、経済その他、国家の中心としてみると、随分、北に寄っている。
  そんな北京から更に山中深く入ったところに、夏季だけとはいえ、政務の場所を移すというのは、どう考えればいいのか。いくつか理由が考えられる。①康熙帝、雍正帝、乾隆帝の時代、国はよく治まり、彼らは統治について自信を持っていた。②ここを北方民族対策の要地と考えた。③清朝の支配者、満州族にとって、自分たちの故地に近いという安堵感があった。
  ところが、避暑山荘での夏の政務は、皇帝の能力低下、西洋列強のアジア進出など、環境が大きく変化してきた19世紀以降、具体的には、アヘン戦争、太平天国、アロー戦争など、内憂外患の時代にも続いた。
  かつて、『西太后』という映画があったが、その中で、1860年、英仏連合軍の北京侵入に際し、咸豊帝と皇族、重臣たちが避暑山荘へ向かうシーンがあったのを記憶している。こうなると、康熙帝~乾隆帝の時代の避暑地での政務というのとは、少し様子が違ってくる。

避暑山荘、ならびに承徳観光

地図の一番下に列車の承徳駅がある。避暑山荘の東には武烈河が流れ、避暑山荘の北と河の東にチベット仏教(ラマ教)の寺院が点在する。  


 まず、列車の承徳駅と町の様子を紹介いたします。

列車の承徳駅 承徳市内
承徳市内 承徳市内

 避暑山荘は、宮殿区と風景区(山景区、湖景区、平原区)からなっている。写真で、まず、宮殿区から案内いたします。

避暑山荘正門(麗正門)前 正門の石刻。右から、満州文字、チベット文字、漢字、ウイグル文字、モンゴル文字が並ぶ。
正面は、避暑山荘の正殿、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん) 皇帝御座の後ろの扁額には澹泊敬誠の文字
奥は、宮殿諸屋を結ぶ廊下 背景は武烈河 その向こうは避暑山荘

 次は山景区です。ここは広くって、歩いては無理なので写真のような遊覧バスに乗る。避暑山荘の外壁は、万里の長城の小型版である。一番北の高い尾根の外壁から見下ろすといくつものラマ教寺院が見える。ラマ教寺院は後ほど紹介します。時間少々の山景区遊覧の帰着点は湖景区。 なお、下の写真の内、3枚を「ヒュウヒョウ」さんのウエブサイト、『気まぐれヒュウヒョウ』(http://www.geocities.jp/konronhyuhyo/)から承諾を得て使わせていただいております。使わせていただいた写真には(ヒュウヒョウさん)と付記しております。

こんな小型バスで山景区遊覧(ヒュウヒョウさん)) 山景区遊覧(ヒュウヒョウさん))
避暑山荘の外壁は万里の長城の小型版(ヒュウヒョウさん) 避暑山荘の最北尾根から見たラマ教寺院
湖景区の風景 湖景区の風景

 最後は外八廟(がいはちびょう)です。外八廟とは、避暑山荘の北と東に点在するチベット仏教(ラマ教)寺院の総称。通称、外八廟だが、実際には12の寺院があるということだ。康熙帝の時代、1713年から、乾隆帝の時代、1780年にかけて建立された。山景区の尾根から見下ろしたときにも立派な寺院と思ったが、行ってみてその壮大さに感動した。
 清朝は、モンゴル諸ハーン王朝の後継者として、チベット仏教の保護者をもって任じ、歴代皇帝、皇族はじめ満州族に、チベット仏教に帰依する者も多かった。

普寧寺(ふねいじ)の山門 普寧寺山門正面の額  右から、満州文字、漢字、モンゴル文字、チベット文字
普寧寺の石段、一段の段差が大きく急で怖い 普寧寺境内
普寧寺大乗之閣 普寧寺、土産物屋街。民族衣装は店員
この建物中に世界最大の木彫観音像。デッカイ!
 普陀宗乗之廟(ふだしゅうじょうしびょう)全景。誠に壮大、小ポタラ宮 普陀宗乗之廟山門
山門正面。右からチベット文字、満州文字、漢字、モンゴル文字 黒、白、黄、緑、紅、5つのラマ塔の乗る五塔門
普陀宗乗之廟境内 普陀宗乗之廟境内
寺院の中心、大紅台  大紅台のテラスから見た外八廟の風景
大紅台のテラス 大紅台内部
上の写真2枚は日付が違っている。段差で躓きカメラを落とし、電池が飛び出し、日付が最初に戻ってしまった。

中国、若い女性の旺盛な財テク心
  今の中国女性は、というのは必ずしも正しくないか、私の知人の中国女性は、若いから恋愛は当然であるが、財テクにも熱心である。恋とお金の両狙い!今回、承徳を案内してくれたD小姐もそんな一人である。
  承徳の街中の関帝廟へ行った時のことだ。彼女が、下の写真のような大きなお線香を買ってきたときにはびっくりした。「いくら?」と聞き、「400元」という答えに、また、びっくりした。日本円にして五千円を超える。物価の安い中国では高額である。このでかい線香に火をつけ、煙に乗って財運を引き寄せるというのである。
  ところで、関羽がどうして財神になっているのか。右の写真、関帝廟の正面の石段の中央に「義」という字のレリーフがあるのはわかる。劉備・張飛と義兄弟の契りを結んだ信義に厚い武将であるから「義」というのは至極、当然である。しかし、入口の上、正面の「武財神」の額や「接福納財吉祥法会」の赤い横断幕など、商売や財テクの神としてあがめられるようになったいきさつについては、義に厚いから商売の神として祭られているとか、そろばんを発明したからとかいろいろ言われているようだが、はたしてどうなのか・・・。神戸にも関帝廟があるし、世界中の中華街やその周辺に関帝廟があるそうな。これは、武神としてより財神として関羽を祭っているのであろう。
 関帝廟の奥の部屋には、濃い茶色の衣類を身に着けた住持のような人がいて、手相見、人相見のようなことをしている。D小姐は早速、住持の前に進み出た。話が長くなりそうなので、私は一人で、廟内の見学をするために外へ出た。二十分ほどして戻ってくると、彼女は、まだ、住持の前にしゃがみ込んでおり、私にお金を貸してくれという。私は200元だけ渡した。彼女はそれを小さな賽銭箱のような所へ入れた。彼女は、住持の話の途中、催促されるままに何度もお金を入れ、手持ちのお金が無くなってしまったようだ。額が小さいといいが、大きな額になると犯罪である。インターネットを検索すると、「接福納財吉祥法会」のようなウェブサイトがわんさと出てくる。
  私はこの後、北京から南へ下って、蘇州で、かつての教え子Xと会ったが、彼女も財テクに熱心で、最近、マンションを買って、頭金を支払ったと言っていた。独身女性一人でマンションを買うとは凄い。そのXも、D小姐と同じように、占いと祈祷に多額のお金を納めた経験があるそうな。政府も取り締まっているようであるが、神仏にすがってでも財運をという人間心理は変わらない。中国沿岸部のバブルの今日、自分も乗り遅れたくないということなのだろうか。