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★ 第6日目7/14(水) パルミラ遺跡→クラック・デ・シュバリエ→ダマスカス ★


.パルミラはシリアの首都ダマスカスから北東へ約230km。広漠たる砂漠の中に建設されたオアシス都市。しかし、豊富な地下水が湧き出るオアシスで、ナツメヤシの緑に包まれ、パルミラの名もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」が起源といわれる。紀元前1世紀にローマ帝国の属州となり、その後3世紀までは、地中海とメソポタミアを結ぶシルクロードの中継都市として大いに繁栄、“シルクロードのバラ”と謳われたローマ様式の美しい都市であった。

パルミラがシルクロード上の要衝として最も繁栄したのは、クレオパトラの再来といわれた理知的にして美貌そして野心家の女王ゼノビアが統治していた3世紀であった。砂漠に広がるパルミラは6キロ四方の地域にまたがり、世界最大級の規模を誇る。最盛期には人口30万人を超えていたというパルミラには、ローマ様式の円形劇場、公共浴場、四面門、市場、神殿、住居など高度な技術で造られた石造りの建造物が多く建てられた。

3世紀後半、ローマからの自立という野心を抱いた女王ゼノビアは、ローマに反旗を翻すが、ローマ皇帝アウレリウスが遠征を開始。結局は272年、ローマ軍に破れ、パルミラの街も壊滅し、衰退の道をたどっていった。今日見るパルミアの広大な都市遺跡は、かってローマにも恐れられたほどの栄光の日々を雄弁に物語っている。1980年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

広大なパルミア遺跡の見学はまずパルミア博物館で予備知識を仕入れ、バスで少し離れたエラベル家の塔墓、三兄弟の地下墓室を見学し、戻ってベル神殿、円形劇場、四面門、バールシャミン神殿の順に見学するコース。今日も気温40度の炎天下の見学だが、ペトラと違って廃墟の日陰もあり少しは楽だった。


パルミラ博物館のライオン像、神殿から出土した断片を復元

“墓の谷”に広がる墳墓群

エラベル家の墓その右山の頂上にアラブ城砦が遠望できる

エラベル家の墓内部の家族の肖像

3人兄弟の地下墓室

3人兄弟の地下墓室内部
パルミラ博物館はパルミラの遺跡から出土した碑文、レリーフ、神々の大理石像、青銅の装飾品やベル神殿の復元模型などが展示され、また入口にはアラート神殿から出土した断片を復元した巨大なライオン像も展示されている。この博物館の展示品や復元模型を見てまず遺跡の全体像をつかみ、その後に遺跡を見学する方が理解が早い。

パルミラ遺跡の西に広がる渓谷は“墓の谷”と呼ばれ、色々な形をした墓が並んでいる。
その中でもエラベール塔墓は最大のもので室内は美しく装飾され保存状態も良い。1世紀に造られた4階建て塔型の墓で200人の遺体を収容出来るとか、金持ちエラベール家の一族郎党が入っている。
次は2世紀に造られた3人兄弟の墓へ、この墓はエラベール塔墓と違って当時主流だった地下墓室、美しい壁画やフレスコ画や彫刻で飾られている。

二つの墓を見学後、いよいよパルミラ遺跡の本丸ベル神殿へ、ベル神殿は紀元32年に建てられたパルミラの主神殿。ベルとは、主の意味でパルミラの主神をさした言葉であると云われる。パルミラ最古にして最大の建築物、なかなか壮観な眺めだ。神殿周辺の回廊や前庭の犠牲祭壇なんかは壊れているが
神殿そのものはかなり綺麗に残っている。外壁や色々なレリーフも結構残っており細かい装飾や壁画も野外のわりによく残されていると思う。


パルミラ最古にして最大の建築物、ベル神殿の正面


ベル神殿の裏側だが巨大な列柱、その上の彫刻など素晴らしい眺めだ


ベル神殿内部の北の神像安置所

ベル神殿の月神アグリボールの彫刻

ベル神殿を見学して次は記念門(凱旋門)をくぐり列柱道路をぶらぶら歩いて左のエラベール家が多額の費用を出して建築したナボー神殿、また右へ行ってシルクロードの旅人や商人が砂漠の旅の疲れを癒した大浴場円形劇場へ、ボスラ遺跡の劇場と比べると規模はそれほど大きくはないが、音響効果は抜群に良いという。次は四面門、4本の柱が4組になった珍しい建築物でそれぞれの中には彫像が置かれていた。これらを見ていると当時、いかにパルミラがシルクロードの中継地として繁栄していたかが想像出来る。
最後の見学はバールシャミン神殿、3世紀初めに完成した雨と豊穣の神、天上の主バールシャミンに捧げられた神殿。ギリシャ語でゼウスを意味するバールシャミンとは、土地に雨をもたらす神のこと。
このローマ式の神殿は、保存状態も大変良く、青空に映えてとても美しい。


パルミラ遺跡、右に記念門が見える

列柱道路

円形劇場の舞台

四面門


バールシャミン神殿


パルミラ遺跡

パルミラ遺跡を後にして昼食後、バスで西へ約250キロ走り、十字軍の要塞だったクラック・デ・シュバリエ城塞へ。世界遺産には2006年に登録されている。
クラック・デ・シュバリエは11世紀後半に建造された。この時代、ヨーロッパのキリスト勢力が、聖地であるエルサレムをイスラム勢力から奪還しようとする動き、いわゆる十字軍侵攻が活発だった。十字軍勢力は、各地に要塞を建造することで影響力を強めていったのであるが、その代表的な城がこのクラック・デ・シュバリエである。もともとこのお城は、この地を統治していたホムスの王が建造したのであるが、占領した十字軍が当時の築城技術の粋を集め城砦として大規模な改築を行ったのだそうだ。

十字軍時代は聖ヨハネ騎士団の本拠であり、クラック・デ・シュバリエは「騎士の砦」を意味する
広さ3万平方m、4000人の守備兵が暮らし、400頭の軍馬が飼育され、21の貯水槽と2年分の食料を保存する貯蔵庫、13の塔を持つ巨大で強固な難攻不落の城である。 それ故に1188年にはエルサレムを奪回した、あの有名なアラブの英雄サラディーンでさえ、切り立った急勾配の丘の上に立っている城をひと目見ただけで攻略を諦めたほどだという。


クラック・デ・シュバリエ

クラック・デ・シュバリエの堀

クラック・デ・シュバリエの屋上
クラック・デ・シュバリエを後にして、バスで約230Km走りこの旅行の最終目的地のダマスカスへ。
午後7時すぎホテルに到着。午後8時過ぎからホテル最上階の展望レストランにて夕食。この旅行で最後の全員揃っての夕食となるので、旅行会社も奮発したのかローソクの火の下で食べる食事は、今回の旅行では一番豪華だった。




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