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★ 第7日目7/11(土) アテネ市内観光 → ドーハ乗継 ★


午前10時、バスでホテル・オスカーを出発。車窓から国立考古学博物館、国立図書館、アテネ大学、アテネ・アカデミー、シンタグマ広場、国会議事堂等々を見学しながらまずはアクロポリス北西に広がる
古代アゴラへ。
アゴラとは市場の意味だが、昔は政治・経済・文化の中心を意味していた。現在は廃墟と化しているが、かってこの広大な土地には神殿、音楽堂、博物館、トロスと呼ばれる円形の建物等があった。その中で唯一つ完全に再建された古代アゴラ博物館を見学。ここには古代アゴラで発見された貴重な出土品が展示されている。

古代アゴラの遺跡群

音楽堂前の巨人像とトリトン(半人半魚)像

古代アゴラの遺跡群

古代アゴラ博物館(アタロスの柱廊)
そしていよいよアテネの中心にある海抜156mほどのアクロポリスの丘に聳え立つパルテノン神殿( Parthenon)へ。アクロポリスはギリシャ語で“高い丘の上にある都市”という意味。
東西300m、南北200mほどの石灰岩の丘で、紀元前6世紀頃には神域となり勝利の女神ニケの神殿やいくつもの神殿が立ち並んでいたという。
紀元前5世紀のアテネの黄金期には、フィディアスをはじめとする芸術家たちの傑作が続々とここで誕生した。中でも名高いパルテノン神殿は、フィディアスとイクティノスによる、アテナ神を祭る壮麗なドーリア式の神殿として建てられた。

当時の大国ペルシャが、いくどかギリシャへ侵攻を試みたが、結局“マラトンの戦い”や“サラミスの海戦”で敗れた。この勝利に自信を得たギリシャは、ますますその繁栄に拍車をかけることになり、とくにアテネはポリスとして黄金期を迎えた。

神殿の着工はそうした時期で、ペルシャ戦争に勝利したのをアテネの町の守護神で知恵の女神でもあるアテナ・パルテノス(処女)にささげる神殿として紀元前447年に建築がスタート、15年の歳月をかけ紀元前432年に完成。
アテナ神は、戦いの神(平和のための)であると同時に戦略、芸術、建築、陶芸、工芸、知恵を司るギリシア神話(オリンポス12神)の女神。神殿は幅約31m、奥行き約70m、柱の直径約2m、柱の高さ約10m。前後に8本ずつ、側面に17本ずつ、計46本の柱で囲まれた、周柱式神殿。1987年世界文化遺産に登録された。

パルテノン神殿は、全て白い大理石で造られている。15世紀にオスマントルコ軍に占領されたときと、17世紀にベネチア軍がアテネに侵攻したときの砲撃で激しく破壊された。今も丘には散乱する大理石の破片で滑りやすく歩きにくい。神殿は現在も修復工事中で、クレーンや足場やらで雑然とし、いつになったらすっきりするのやら…。

チケット売場からヘロド・アティクス音楽堂を右に見おろしながら炎天下の階段を登り、前門プロピレア(聖域への入口)をくぐると、壮大なパルテノン神殿が姿を現わす。やはり本物を間近で見ると、雑誌やテレビと違いその重厚さ巨大さ柱の太さ、本数に圧倒される感じだ。ピラミッドでも思ったが、重機や測量機器もない古代によくぞこんな凄いものを建てたものだととつくづく感心する。

ヘロド・アティクス音楽堂

前門プロピレア(聖域への入口)をくぐるとパルテノン神殿

アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿、その重厚さ巨大さに圧倒される感じ

神殿の破風(屋根の下の三角部分をいう)やメトーブ(屋根や破風と柱の壁面)にはギリシヤ神話から題材をとったレリーフ(浮き彫り)が施されている。
パルテノン神殿のメトープには東西南北に高さ1.34m、幅約1.3mの大理石の浮彫り板が92面はめ込まれていた。東側にはオリンポス12神とギガース族(巨人族)の戦いギガントマキアが、西側にはアマゾノマキアと呼ばれるギリシャ人とアマゾン族の戦いが。南側にはラピタイ族とケンタウロス族との争い。そして北側にはトロイア落城の様子を表したレリーフで飾られていた。

これらの彫刻群の約半分は現在イギリスの大英博物館の所蔵品で、ギリシャ彫刻の最高傑作「エルギン・マーブル」として展示され、エジプトのロゼッタストーンと並んで人気を博している。
何故「エルギン・マーブル」と呼ばれ、大英博物館に展示されているかというと、今から約200年前、駐トルコ英国大使エルギン伯爵が、当時まだオスマン・トルコ領だったギリシャ・アテネのパルテノン神殿の彫像や壁面を剥ぎ取って運び出し、そのままイギリスに持ち帰ってしまったからである。

ギリシャ政府は建国直後から、イギリスに対して彫刻群を返すよう求め続けていたが、無視されている。イギリスは“オスマン・トルコ政府の許可を得て、合法的に持ち出したもの”とこれらの所有の正当性を主張し、今も返還を拒否し続けている。いやはやこの解決は何時のことになるやら…。

私も昔、何回となく大英博物館で実物を見ていたが、その時は単なる戦利品や略奪品の一つとして、その歴史的、文化的、芸術的価値もあまり判らずに見学していた。今回ギリシャを旅行しあちこちの神殿や遺跡、彫刻等を見学し、ギリシャ神話の世界を垣間見て、ギリシャ人の聖域であるパルテノン神殿への人々の神聖・崇高な思いを考えると、有るべき物は在るべき所にあるほうが良いように思う。


酒と演劇の神ディオニソスの劇場

東側から見たパルテノン神殿

アクロポリスの中で最も神聖なエレクティオン神殿

エレクティオン神殿の6人女神柱のひとつはエルギン伯爵が
イギリスに持ち帰った。今は大英博物館で展示している

アクロポリスの丘から見たアテネ市内と市内最高峰リカベトスの丘(中央)

パルテノン神殿の見学を終えプラカ地区のアドリアヌ通りにあるタベルナ(ギリシャ風食堂)HANIで 、ムサカ(ナスと挽肉の重ね焼き)の昼食。
プラカ地区は、アクロポリスの丘とアテネの現代の政治・経済・文化の中心であるシンタグマ広場との間に広がるアテネの旧市街地区。19世紀頃の家並みが保存され、高いビルもなく殆どの家は2階建て、通りも石畳で情緒のある落ち着いた繁華街。プラカのメインストリートはダシネオン通りとアドリアヌ通り、たくさんのタベルナやお土産物店、洋品店等々が軒を連ね昼夜を問わず観光客のざわめきに溢れている。
昼食後はフリータイム、このプラカ地区をブラブラ散策したり、また新アクロポリス博物館がすぐ近くに最近オープン(2009年6月20日)したので見学に行き自由時間を過ごす。

第一回近代オリンピック(1896年)が開催された競技場

オリンピア・ゼウス神殿北側のハドリアヌスの門

新アクロポリス博物館から見たアクロポリス

昼食はムサカ(ナスと挽肉の重ね焼き)

アテネ随一の観光スポット、プラカ地区の大通り

アテネ随一の観光スポット、プラカ地区の大通り

午後4時バスでアテネ国際空港へ、午後8時前カタール航空QR477便定刻より少し遅れてドーハへ向け離陸、午後12時過ぎドーハ着
                             
★ 第8日目7/12(日) → 関西国際空港 ★


ドーハで関空行のカタール航空QR820便に乗り継ぎだが、アテネからの便が少し遅れたため乗り継ぎ時間が30分を切っており、急ぐがドーハ国際空港入管職員の悠然たる態度にイライラしながらもなんとか間に合い,ドーハ国際空港を定刻の午前00時45分より少し遅れ離陸。約10時間の飛行時間の後、午後4時40分関西国際空港に無事着陸。

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