エピソード編 |
旅行中のいろいろな出来事の中から、特に思い出に残る二つを書いてみます。
―フィンランドの想い出―
今回の旅行で一番の思い出の都市はと問われると、迷わずフィンランドと答えます。 ここでフィンランドについて少し説明すると、フィンランドは別名森と湖の国と言われ、人口約500万人、首都ヘルシンキ、北欧五カ国の一員だが、他の四カ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランド)がゲルマン系なのに対し、アジア系のフィン人が人口の9割を占めているのが特徴で、かって隣国ロシアの重圧に苦しんできたという歴史的背景から日露戦争以来、親日感情の強い国です。というようなことは帰ってから本を読んで判った事だが、その時は、なぜこのように親切なのかと疑問に思っていた。 しかし、当時の私の持っていた欧州鉄道乗り放題の均一周遊券は、何故かフィンランドだけが除かれていた。こうした事情もあってフィンランド行きは乗り気ではなかったが、彼から前年行ったその祭りがいかに楽しかったか、とくとくと聞かされて、騙されて元々という気持ちで一緒に行くことにきめた。 その祭りは首都ヘルシンキから汽車で1時間位の所にある地方都市ラハティ市で迎えた。極北の冬は長く厳しいだけに、待ち焦がれた春を迎えた時の彼らの爆発的な喜びようは容易に想像出来よう。一晩中踊り騒ぎ、道端に座り込んで酒を回し飲みし、若い男女は着飾って町の大通りを行きつ戻りつしている。大学生は何故だか知らないが、男女とも全員が白い帽子を被ってはしゃいでいる。こうした人ごみの中に日本人が二人紛れ込んでも何の違和感もない、本当に大歓迎された。 それにこの夜は無礼講らしく、町の若者は、道行く女の子を捕まえては片っ端からキスをしている。隣の男に、お前もトライしてみろと言われて、恐る恐るキスしても別に嫌がる風もなく、逆に「日本人ですか」と言われてキスの返礼を受けたりもした。 さあこうして何人の女性を捕まえたか判らない。その夜はずっと4、5人の女の子に取り囲まれていた。日本であまり女性に持てた経験もない身には本当に楽しい出来事だった。 その日から一週間、お祭り騒ぎの中で知り合った人の家で過ごした。しかし均一周遊券の有効期間が2ケ月余りしか残っていないので、後ろ髪を引かれる思いで再会を約し別れ、欧州をぐるっと時計廻りに駆け足で見物し、6月ラハティ市郊外のその人の家に戻った。 もう白夜の季節になっていた。ここで又1ケ月滞在しその両親、友人、近所の人々の心温まるもてなしを受けた。 フィンランドの人々の私「=日本人」に対する親切、厚意は想像を超えるもので、ここは楽園ではないかと錯覚するほどであった。 しかし、帰国後数年してこの楽園も、噂を聞いた日本人の若者旅行者の急増により、踏み荒らされ親日感情も随分悪くなって、今では最低と聞いた。集団行動に走りやすい髪の黒い日本人は、観光客の少ないフィンランドでは目立つ存在だし、何よりも彼等は相手の好意につけこみ、“旅の恥じはかき捨て”を実践した。 こうして楽園もまた一つ消滅していった。 |
―U.C.L.Aの想い出―
欧州を約5ケ月かけて一周し、各国の親切、厚意etcを受け、誰かの標語ではないが「人類は一家、人間みな兄弟」を実感し、さまざまな思い出を胸にロンドンからニューヨークに渡ったのが昭和46年(1971年)7月でした。 この夏、日本経済は一挙に激動局面に突入していった。高度経済成長を続けた日本経済はGNPで自由世界2位となっており、国際収支の黒字の増大により、アメリカの日本経済に対する風当たりを強くし、8月16日ニクソン米大統領はドル防衛のための新経済政策を発表、各国の対ドルレート切り上げを迫った(いわゆるニクソンショック)。 この為、日本も昭和24年4月以来22年4ケ月続いた1ドル360円の固定相場制に終止符を打ち、変動相場制へと移行していった。 この発表の時、U.C.L.A(カリフォルニア州立大学ロスアンゼルス校)の寮のテレビで何気なくニュースを見ていて、東京証券取引所の大混乱、大暴落を写し出し、大いに不安になったのを今でも鮮明におぼえている。 それはさておき、何故私がU.C.L.Aの学生寮なんぞに居たかであるが、欧州旅行中、スイスからスペイン行きの汽車の中で同室になったのが、実はU.C.L.Aの幹部職員でロスアンゼルスに来る事があればぜひ寄るようにと住所、電話を書いた紙切れをくれた。 こうしてロスアンゼルスに着いて早速彼に電話すると、すぐバスターミナルまで迎えに来てくれ、大学を案内してもらい、その上夏休みで空いている学生寮を使える手配をしてくれた、それも無料である。残り少ないドルを数え数えの旅行では大変助かった。 U.C.L.Aの広大なキャンパスにはスペイン風の建物や近代的な建築物など、新旧さまざまの美しい校舎、研究所、図書館、体育館、寮などが整然と立ち並び、芝生や木々の緑と美しい調和をみせている。本当に勉学には最適の環境に見えた。 しかしこの広大なキャンパスも夏休み中で、学生の人影もほとんどなく閑散とし、また多くの校舎には鍵がかかり、中の様子を見ることが出来なかったのは残念でした。 ただ私が泊まっていた男子寮だけは活気があって世界各国から早々と到着した留学生が20名ほどいた。インド、イスラエル、ドイツ、イギリスからの留学生が大半。新学期が始まるまで何もする事がない彼等は毎晩、寮のホールに集まってはワイワイと騒ぎ、皆でフォークソングを歌った。時には政治、経済、文化、音楽あるいは哲学的な話題に議論がいくことがあっても、最後にはいつも形而下学的な話題で終わっていた。 勿論、私の貧弱な語学力では彼等の会話の半分も理解出来なかったが、ヒマだからというコトで毎晩のように騒ぎの中にいた。それに近くの女子寮からもヒマを持て余した留学生が次々来て、毎晩のようにデイスコパーティやら乱痴気騒ぎを繰り広げていた。 日中は、朝食を9時頃に済ませると誰彼となく「ビーチ」と言う声と共に海水パンツ一枚でオンボロ車5、6台に分乗して女子学生を誘い、大学から30分ほど走った所にある、サンタモニカビーチかベニスビーチで一日中日光浴、サーフィン、バレーボール、ローラースケートをして過ごした。 カリフォルニアの青い空、明るい海、さんさんと降り注ぐ太陽、それに男女学生の嬌声はまさに青春真っ只中という感じであった。今でも時々あの時の彼等、彼女達はどうしているだろうかとフト思い出す事がある。過ぎ去った青春の楽しいメモリーである。 |
![]() フィンランド・ラハティ市で |
![]() サンタモニカビーチで |
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