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アメリカ編

アメリカはグレイハウンドのバスで走り回った。
日本の国土の25倍もの広さがあるアメリカは長距離バスの路線網が、全国至る所に張り巡らされ大型バスが走り回っている。運転本数も多く、予約なしで乗れる手軽さと料金の安さで、若者や黒人を中心に低所得者層に利用客が多い。

バスでは沿線の雄大な景色、風俗すべてが車窓から充分に味わえ素顔のアメリカを見ることが出来たと思う。車両は40人乗りぐらい、冷暖房付きリクライニングシートなので長距離ドライブもさほど疲れなかった。

このバス旅行ではアメリカのバカでかさ、懐の深さ、豊かさを本当に実感できた。よく整備された道路網、縦横無尽に走る片側3〜6車線のフリーウェイ、2、3時間走っても周りは大平原や砂漠ばかりの広大な土地、近代的な都市群、レストランで食べた安くて豊かな食事の数々。

よく雑誌などに書かれているが、どうして日本がこのアメリカと戦争して勝てると思ったか?、もしも日本の軍部の上層部がこの国を実際に見ていたら、とても戦争を仕掛けるなど無謀なことは考えなかったと思う。
バス旅行を通じて、ヨーロッパ文化とは違う、アメリカの強大な国家・文化を目にして、強烈な印象を受けた。まさに
To see is To believe だ。

ニューヨークのエンパイア・ステート・ビル

このバス旅行で、自分の英会話力も少しレベルアップしてきたことを実感した。長時間のバス旅行では2、3時間置きにトイレ休憩、朝、昼、晩と食事時間になるとミールストッといってバス乗客全員で、食堂(今のファミリーレストランと同じ)に入り4、50分かけてドライバーも一緒にワイワイ言いながら食事をする。こうした環境では自然と英会話力も上達してくる。

ただし日常会話だけで、ちょっと専門的な会話になるとまだまだだったが。しかし最後の訪問地であるハワイになると、ワイキキの浜辺で寝ころびながら、アメリカ人女子学生とベトナム戦争についてちょっぴり論じるまでになって、意気投合したこともある。

ニューヨークの国連本部ビルを望む


エンパイア・ステート・ビルの展望台から見たマンハッタン島ミッドタウン。左に懐かしいパンナム・ビルが写っているが
当時世界最大の航空会社であったパンアメリカン航空(愛称パンナム)も1991年破産宣告をうけ今はもうない。


リバティ島の自由の女神像からマンハッタン島を望む。
左側のツインビルが当時建築中のワールド・トレード・センタービル、これも今はない。

上の写真を撮った後、写真のアメリカの女子大生との会話
「あのワールドトレードセンタービルが完成したら、エンパイア・ステート・ビルも世界一の座を明け渡すね!」

「形式上はね、だけどエムパイア・ステート・ビルはアメリカ人には特別な存在で心の中ではずっと世界一のままよ!
それだけあのビルはアメリカ人の誇り、象徴、バックボーンとして慕われ、精神的支柱にもなっているのよ!」


小田 実氏の「何でも見てやろう」の本の中に、外国で道を訊ねるときは必ず女性に聞く、と云うような事が書いてあったと思う。 私もこれを見習って、旅行中、道を訊ねるときは必ず女性に訊ねるようにしていた、それも当然若い女性にです。近くに若い女性がいないときは、仕方なくおばさんに聞いたりしていた。ときには、道も判っているのに、若い女性と話したくてわざと訊ねたり、目的地が同じような女性を見つけては、これまたわざと訊ねて、一緒にその目的地に行ったこともある。

これは今風に言えば、ナンパというのかも知れないが、私の場合はこれが英会話上達の手段でした。何しろ英会話は喋べらないことには上手くならないわけだから、同じ喋るなら相手は若い女性の方が楽しいに決まっている。ふれあい、出会いと英会話の上達、この一石二鳥を狙って、どこでも積極的に話しかけるように努力していた。

その成果は徐々に現れていたように思う。それと例えば日本の若い女性に“貴女は美しい”と日本語で歯の浮くようなお世辞はよう言わないが、英語であちらの若い女性に“How beautiful you are!  Are you an actress?”と言っても恥ずかしいとも何とも思わないし、簡単に言える。
それにしても、あゝ
こんなフレーズ何回も言っていたなぁ……。

外国旅行では“沈黙は金”ではない。単に、各国の名所、旧蹟の観光だけで終わるのであれば、話せなくなくてもよいが、ふれあいや出会いを目指すのであれば、やはり少しは話せるに越したことはないと思うし、その方が格段に楽しい。



日曜日のニューヨーク・セントラルパーク

ニューヨークは人種のるつぼ、白、黒、黄人種が混ざり合った一種独特の文化を形成している街だ。
それが端的に判る場所が日曜日のセントラルパーク広い公園のあちこちで色々の人種が、カラフルな民族衣装で一人あるいは大勢で民族音楽に合わせパフォーマンスを演じている。まさに写真の被写体にはもってこいの風景だった。
私も日本のいわゆる中型の一眼レフカメラを持ってぶらついていたが、彼等にはこれが高級カメラを持ったどこかの雑誌のカメラマンとでも写ったか?、どうかは判らないが、あちこちで写真を撮るように言われた。
とくに、若い女性はカメラを向けただけでポーズを取ってくれたし、断られたことはなかった。ヨーロッパ女性との違いに本当に驚いた。
図々しく黒人カップルの女の方にカメラを向けると、連れの男が“俺の彼女はそんなにキレイか?”と聞くので、イエスと答えると“さぁ!撮れ撮れ!何枚でも撮れ!”と言われて何枚も撮ったりしたが、フィルムがまたたく間になくなって、その後の撮影チャンスを逃してしまったほどだ。

ニューヨーク・セントラルパークの美女達

旅行中、日本の出来事も気になったので、時々各地の日本大使館領事館、それに各国の日航支店を訪れては日本の新聞を読み漁った。こうした施設には日本の新聞・雑誌が置いてあり自由に閲覧出来る談話室のようなところがあった。現在のようにインターネットや衛星テレビで、簡単に情報を入手できる時代ではなかった当時は、新聞が唯一の情報源だった。

群馬県高崎市の元美術教師でアルパカ帽を被った大久保 清が、8人の女性を殺害した容疑で逮捕されたショッキングな事件も大使館の新聞で知った。最初の女性の遺体発見ニュースから、逮捕のニュースを知るまでに4ケ国ぐらいの大使館へ行ったが、行くたびに猟奇的事件の進展に興味を持って読んだ記憶がある。

ワシントンの故ジヨン・F・ケネディ大統領の墓

シカゴからサンフランシスコまではルート(国道)80が走っている。
このルート沿いには東からイリノイ、アイオワ、ネブラスカ、ワイオミング、ユタ、ネヴァダ、カリフォルニアの各州がある。この中の
ワイオミング州にはシャイアン、ララミーといった西部劇ファンにとっては何とも懐かしい名前の都市があって途中下車した。

シャイアンは西部劇に出てくるインディアンの有名な部族の名前。その少し西にあるのがララミーの町その郊外にララミー牧場がある。1960年代初めの人気西部劇テレビシリーズ「ララミー牧場」が日本中に巻き起こした感動と興奮はものすごいもので、61年春に来日した主演俳優のロバート・フラーが首相官邸に招かれ、当時の池田内閣総理大臣と握手を交わしている。

その後66年6月に来日した人気絶頂のビートルズでさえもこんな待遇を受けてないことをみてもその凄さが判るだろう。 現在45才以上の日本人でララミーの名を知らない人はいないと思う。
シャイアンはワイオミング州の州都、といってもニューヨークやシカゴと比べたらやはり西部劇っぽい田舎町、ララミーはもっともっと小さな田舎町という感じだ。が、西部開拓史時代は全長3200キロに及ぶ
オレゴン街道の途中にあって交易所や幌馬車隊の食料供給基地、また畜産地帯として共に重要な拠点だった。

さて期待に胸膨らませララミーの町に降り立ったのはいいが何の予備知識もなく、どの辺を観光したらいいのかも全然判らない。とりあえずバス停近くの小さなホテルに荷を解いて、ホテルの人に郊外の牧場に行くにはどうしたら良いか訊ねたら“ここは観光バスもないsmall townだけどLaramie自体はBig countryだから車がないとどこにも行けないよ!”とあっさり言われガックリ、車社会の米国では足代わりの車がなくては本当にどこにも行けない。

結局ホテル周辺を一時間ほどブラブラ散歩したが、特別目につくような建物や施設もなく、のんびりとした田舎町といった風情が感じられる程度で早々に切り上げてホテルに戻り寝てしまった。次の日、午前のバスで西に向け出発したから24時間も滞在してない勘定だ。

ララミーの町を出ればまたまた大平原、その先に美しいロッキーの山々が聳え立っている。西部劇の名作『シェーン』の舞台はワイオミング州、ラストシーンで少年の“シェーン、カムバック!”の叫び声を残しシェーンは美しい山々にむかって去って行く、なんかそうした場面を彷彿とさせる風景が続いていた。

アメリカは、欧州と比べてユースホステルが少なく、YMCAホテルや安ホテルを利用した。アメリカはバスで回ったから、バス停留所近くの安ホテルだ。

欧州にいたときからアメリカのホテルは物騒で、よく日本人がエレベーターの中でピストルをつきつけられて、金を巻き上げられたという話を聞いていたので最初は大分緊張した。

しかし幸いにして、アメリカ旅行中たいしたトラブルもなく回れたが、中には怪しげなホテルや、人種差別的なホテルもあって、ハラハラドキドキしたり、大いに憤慨したりした事もある。良きにつけ、悪しきにつけアメリカ民主主義の裏表を見た気がする


グランド・キャニオンにて


オクラホマ市のバス停近くの安ホテルに泊まったとき、黒人専用のホテルだったのか判らないが、周りは黒人ばかりでビックリした。別に人種的偏見がある訳でもないが、彼等の顔は何回見ても全員同じような顔で誰がボーイか客か判らない。ホテルのエレベーターや、薄暗い廊下で
2m近い黒人と一緒になったら、少しばかり恐怖心が起ったが、しかしこちらが何か訊ねたらいかつい顔の黒人が、巨体を折り曲げて親切丁寧に教えてくれたのには、正直いって面食らった。

ニューヨークの地下鉄でも黒人のおばさんに行き先を聞いたら、親切にも乗り場まで案内してくれたし、またバスでは多くの黒人と相席になって話をしたが、皆親切でした。まあ先入観や外観で人を見てはいけないと悟った次第です。

それにしても、いろんなホテルに泊まったが、あのオクラホマのホテルだけは汚さにおいてワーストワンのホテルだ。部屋は薄汚れ、ゴキブリが這いまわり、ベッドのシーツはいつ洗濯したのかと思うほど汚れ、窓は開かず、エアコンもあまり効いていなくて蒸し暑く、部屋の外の方が涼しいくらいだった。

英語にまつわる失敗談は数え切れないほどあって、随分と恥ずかしい思いもしたが、ここで一つだけ書いてみる。

スウェーデンの首都ストックホルムの夜の繁華街をぶらぶらと一人で歩いていた。が、あまりにも寒かったのでどこかディスコでも入って温まろうと廻りを見ていると、とある建物の地下に次々に若い男女が入っていくのが見えた。音楽も聞こえていたから、多分、ディスコだろうと思って自分も入ろうとすると、入口で呼び止められ、数人の係員らしき男が口々に"フィニッシュフィニッシュ"と言うのが聞こえた。

フィニッシュ?、Finish?、終わり? なるほどもうディスコは終了したと言っているのかと判ったが、しかし私以外の若者はまだ次々と中に入って行っている。何故自分だけ入れないのかと文句を言っても、"フィニッシュ、フィニッシュ"と繰り返すだけでラチがあかない。

これは人種差別かと、こちらもむきになって入ろうとして押し問答になったが、しまいには係員に両腕を掴まれて外へ連れ出された。そしてまた"フィニッシュ、フィニッシュ"と言う。この野郎!と思ったがいかんせん多勢に無勢、あきらめて帰りかけていると、その一部始終を見ていた学生らしき女性が、近づいて来て、少し上手な英語で言った。

"Stranger(外国人)さん、ここはフィンランド人(フィニッシュ)のための集会所(サロン)で、外国人は入れません、悪く思わないで下さい"と。

 結局フィニッシュ(Finish、終わり)フィニッシュ(Finnish、フィンランド人)の発音の聞き違いによる誤解と判って納得したが、もう少しでケンカになるところだった。

サンフランシスコのケーブルカー

サンフランシスコ湾の遊覧船から見る金門橋
その後、辞書で両者の発音の違いを調べたが、発音記号もまったく同じで、両者を区別して発音することは、日本語のの発音の違いと同じで、英語圏の人以外は無理ではないかと独り合点した次第だ。

失敗談といえば、アメリカではチップに関する失敗も多い。
ヨーロッパでは朝・夕食付のユースホステルやペンションに泊まっていたので、チップを渡す機会もほとんどなかった。
ところがアメリカでは、安ホテルやどんな小さな食堂でもチップの習慣があって、当初はいくら渡すかで随分と迷った。そのうち慣れて適当な金額を渡したが、時にはチップがないとか少ないとかの文句を、他の客の面前で言われて、チップのない日本を懐かしく思い出してもう日本に帰ろうかと弱気になったこともあった。その国独自の文化や習慣に慣れるのは、短期間の旅行ではなかなか難しいと感じた次第だ。
アメリカ本土からハワイのホノルル空港に着いたときは正直いってホッとした。なぜならハワイは今回の旅行に出る6ヶ月ぐらい前に、パック旅行で一度来ていた。
ですから二度目のハワイは、ある程度勝手が判っていたしなんだか自分の家に帰ったような気分になった。それに日本へは、もう飛行機に乗ればひとっ飛びで着くという安堵感もある。
当初は一週間ぐらいの滞在で日本に帰るつもりだったがハ
ワイの気候、風土、人情に魅せられ、また日本に帰ったら就職先を探して働かなければならないと考えると、なかなか踏ん切りがつかず、ずるずると引き延ばし、結局一ヶ月余りも滞在し、持ち金がゼロどころかマイナスになる時点で、ようやく日本に帰る決心をした。       
        

  こうしてハワイに一ヶ月余り滞在したが、ワイキキビーチのあるオアフ島だけで、他の島に行く余裕もなくしかも節約のために、ほとんどワイキキビーチ近辺で過ごしたので、帰る頃には本当に真っ黒に日焼けしていた。

ワイキキで滞在したホテルは、ビーチから歩いて数分の所にあったトロピカーナホテルという名のホテルだったが、今は取り壊されて、その跡地には免税店が建っている。このホテルは木造3階建くらいの小さなホテルで、なかなか家庭的な雰囲気のあるホテルだった。

アメリカ本土からハワイのホノルル空港に着いて、ウロウロしていたら日系のタクシー運転手につかまったので、どこかcheap comfortable near Waikiki beach のホテルを紹介して欲しいと言ったら、連れて行ってくれたホテルである。

このホテルには、これからアメリカ本土に渡るという日本の若者や、アメリカ本土の観光や留学を終えて、日本に帰る途中にハワイに寄ったという若者が泊まっていたので、直ぐ皆と仲良くなって一緒にハワイの休日を楽しんだ。一度目のハワイで泊まった大きなホテルも近くにあって勝手が判っていたから随分助かった。

常夏の国、南国の楽園だから、Tシャツ、半パンツ、ゴムぞうりで高級ホテルを闊歩しても文句を言われないし、ハワイのホテルの良い所は、どの高級ホテルのプールも無料で宿泊者以外でも誰でも利用できること。

トロピカーナホテルはプールもない安ホテルだったから、仲の良かった皆と毎日のように、あちこちの大きなホテルのプールに行ったり、ビーチで過ごし、ハワイの太陽と海と自然を、からだ一杯に味わった。夜になるとビーチ近くの高級ホテルの、かがり火の焚かれた中庭で、太平洋の潮騒を聞きながら、生バンドのハワイアンの演奏に耳を傾け、時にはダンスに興じていた。

まさに至福のひととき、本当に日本には帰りたくない、このままハワイに永住したいと何度も思ったものだ。ハワイに行った経験のある人なら、誰もがそのように考えるようで、リピーターが多いということもよくわかる。

私もその後、新婚旅行や家族旅行等々でハワイには何回も行ったが、行くたびに南国の楽天的、開放的雰囲気に魅せられ、余裕さえあれば毎年でも行きたいと思うところだ。




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