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昭和46年(1971年)27才の3月から同年10月まで約8ヶ月かけて以下のコースで一人旅をしてきた。1ドルが360円の時代、海外旅行は昭和39年(1964年)4月1日自由化され、日本初の海外パッケージツアー・ジャルパック誕生、が、外貨持ち出しは厳しく制限されていて、いわゆるヤミドルなる言葉がはやっていた時代です。

前年に両親を病気で相次いで亡くし、商売も一人では無理で廃業、さてこれからどうするかと考えたとき、頭に浮かんだのが欧州一人旅。ヒマは充分にあるし、何よりも独り身です。それに当時のベストセラー旅行記だった、現在作家の小田 実氏の「何でも見てやろう」や、犬養道子氏の旅行記を読んで海外旅行に大いに憧れていた。

最初の計画では欧州だけだったが、途中で気が変わり、資本主義の盟主国であるアメリカを見ずしては画竜点睛を欠くように思え、無理してアメリカに寄ってから日本に帰ってきたが、しかしこれは正解で大変勉強になった。

まず東京よりソ連国営航空アエロフロートでモスクワ乗り継ぎコペンハーゲンに飛び、そこから鉄道でストックホルム→ヘルシンキへ、また同じコースを通ってコペンハーゲンに戻り、→ドイツ→フィレンツェ→ローマ→スイス→マドリッド→パリ→アムステルダム、ここから又、コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキを再訪し、→飛行機でロンドンへ→ニューヨーク アメリカ合衆国をバスで一周→ハワイ→日本。

なんでも見てやろう式の気楽な旅で、道中いろいろな出来事があった。少しばかり危ない目にも会ったり嫌な思いもしたが、しかしそれ以上にワクワクする楽しいことの連続だった。私の青春そのものともいえる思い出です。

ちなみにこの年の日本の出来事を記してみると、成田空港団地強制執行、ねずみ講告発、大久保清逮捕、アンノン族、ディスカバージャパン、雫石上空で空中衝突、1ドル360円の固定相場制より変動相場制に、歌では「傷だらけの人生」「また逢う日まで」「二人の世界」「私の城下町」等が流行り、洋画では「ある愛の詩」「小さな恋のメロディ」「ダーティハリー」が、テレビでは「仮面ライダー」の放映が始まった年だ。
この前年には大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(万博)が開かれ、またよど号乗っ取り事件が起きている。

なおこの文章は、私が43才のとき難病指定の病気で約6ヶ月の入院を余儀なくされ、その折にベッドでこの欧州・アメリカ一人旅の楽しかった情景を懸命に思い出してはワープロ機で記録していたもので、また以前にある会報誌に掲載された中からリメイクしたものです。



ヨーロッパ編



  ストックホルム王宮の衛兵交代式
その当時の、一番安くヨーロッパへ行く人気コースといえば、日本からハバロフスクよりシベリア横断鉄道を利用し、モスクワを経由してヨーロッパへ入るルートがあった。
 私も、1月か2月に当時の日本交通公社(現、JTB)へ申込に行った所、夏まで予約で一杯ですと断られてしまった。仕方なく、それに変わる一番安くヨーロッパへ行く方法を聞いたところ、ソ連国営航空アエロフロートなら、日本航空の半額ぐらいで行けるとのことだった。それでも現在の格安の航空運賃からすれば、随分と高い運賃だった記憶がある。

当時の航空機は、ボーイング747いわゆるジャンボジェット機が導入され始めて1,2年しか経ってない頃で、日航も昭和45(1970)からジャンボ機が就航した関係で海外路線でも全便ではなく、半分以下の便しかジャンボ機でなかつた。出発曜日によってジャンボ機と150人乗り位の従来機DC-8が交互に飛んでいた。

アエロフロートも安かった分、ジャンボ機ではなく従来機だった。真中に通路が一本で片側に
3席と3席の座席がある航空機。なにしろ機内は狭くてきゅうくつで、ジャンボ機のように機内を歩き廻れないので、ジッと座ったまま十数時間も乗っていて、クタクタに疲れたのを憶えている。

まず東京からモスクワを経由してデンマークの首都コペンハーゲンへ飛んで、そこからヨーロッパ各国は鉄道で回った。
日本で、ユーレイルパスという欧州均一周遊券を購入していたから、その都度切符を買う手間がいらず発車間際に駅に行って、この周遊券を見せるだけで乗れたから随分と楽だった。 


   ヘルシンキの高校生と
鉄道は映画等でよく見るように、車両の片側が通路でコンパートメント(個室)が一車両に8室位あり、個室の定員は4人から6人位だ。この個室を一人で占領することも時にはあったが、大抵は相客がいて随分と助けられたり、英会話の勉強にもなった。

何しろ狭い個室なので、じっと黙っているわけにもいかず、拙い英会話力で一生懸命に話しかければ、フランス人であれイタリア人であれ、これまた知っている限りの英語を使って話しかけてくれるので大変勉強になる。

こうした会話の中に必ずでてくるのが“出身国はどこか”という質問。この手の質問を受けたらいつも“当ててよ!”と言って出身国を当てさせていたが、一発で日本と言い当てる外国人は皆無だ。当時の日本はまだまだマイナーな国で、赤軍派の活躍ももっと後、国際的なニュースになるようなこともなく地味な国だつた。一番よく言われたのが当時のベトナム戦争の影響かベトナム人、そしてインド、中国、タイ、エスキモーと言われたこともある。私自身は典型的な日本人の顔立ちと思うが、外国人には日本も中国もインドもベトナムも皆同じ人種に見えるようだ。

欧州で鉄道に乗ると一晩で他の国に着くので、その国の通貨を持っていないと、朝食の弁当も買えない事態になってしまう。そんな時、同室の外国人には大変助けてもらった。どこの国であれ困っている外国人には皆親切でした。

鉄道利用ではこんな事もあった。フランクフルトの中央駅で、突然お腹の調子が悪くなって2回駅のトイレに行き、その度にトイレ番の女性に使用料として30円か50円ぐらいを払った記憶がある。3回目に行きたくなって、フト考えて鉄道に乗って列車のトイレを利用したらタダだと思いつき、
列車に飛び乗ってフランクフルトからハイデルベルクを往復した事もある。ユーレイルパスを持っていたから出来たことだ。

また、宿泊費節約のためによく夜行列車を利用したが、寝台車と違ってあまり眠られず、次の日はボォーとなった頭で観光、よく公園のベンチで昼寝をしていた。


ユースホステルは帆船

ヨーロッパでは、ユースホステル、ペンション安ホテルを利用した。左の帆船はスウェーデンの首都ストックホルムユースホステル

最初、一応電話で宿泊の予約をして住所も聞いて行ったが、いくら探してもそれらしき建物はなく、通りがかりの人に聞いても判らない。途方に暮れていたとき、丁度近くを通りがかったバックハ゜ッカーのアメリカ人の若者に聞いたら、目の前の川岸に係留しているヨットというか帆船を指差すではないか。
そうです!帆船そのものがユースホステルだったのです。これにはビックリしたが、船の中はなかなか快適でした。
あれから30年以上、いまも現役で同じ場所で、世界中の若者を歓迎しているそうです。

ヘルシンキ市内のユースホステルは、市の中心部から市電に乗って30分ぐらいのオリンピックスタジアムの中にあったが、シベリア横断鉄道で着た日本人で一杯だった。日本のユースホステルに居るのかと錯覚するほどだ。

アムステルダムのユースホステルは、中央駅から歩いて10分位の市中心部にあり、すぐ近くには有名な「飾り窓の女」の店もあって、あまり環境的には良くない所にあった。アムステルダムはヨーロッパの交通の要衝として有名で、特にニューヨークとアムステルダムには格安の航空機が頻繁に往復し、多くの学生がこうした便を利用してアメリカとヨーロッパの間を大量移動している。

アムステルダムのユースホステルもアメリカの学生やヨーロッパ各地の学生で一杯だった。オランダという国は、麻薬の取り締まりには寛大なのか判らなかったが、彼等はユースホステルの部屋の中で堂々と麻薬(ハッシシ等)を吸っていた。 私も奨められて好奇心で23回吸ってみたが、こんなまずいものをよく吸うなと云うのが実感でした。



フィンランド・ラハティ市
ヒッチハイクもフィンランドで経験した。当時フィンランドはなぜか均一周遊券が通用しない国で、ヘルシンキ以外の地方都市へも行ったりしたので、節約のためヒッチハイクをした。ヒッチハイクのやり方や最適の場所等々をユースホステルの皆に教えてもらい実行したが、案外と簡単に出来た。

道端に立って、2、3台目の車で成功することもあれば、10分くらい手を上げ続けてようやく止まってくれる時もあったが、ヒッチハイクのベテランに聞いたところでは、フィンランドという国はヒッチハイクのやり易い国だという。

フィンランドといえば有名な交響詩「フィンランディア」作曲家で国民的英雄のシベリウスに敬意を表して、ヘルシンキから1時間ほどにある彼の墓までヒッチハイクで行ったことがある。

行き先をドライバーに言ったら、わざわざ日本からシベリウスの墓参りに来てくれたかと感激して、昼食をご馳走になり、またヘルシンキまで送ってもらったこともあった。またあるときはドライバーの家に泊めてもらったこともある。
ヒッチハイクしたときのお礼や、列車、バスの中で退屈したときに、折り紙でツルを折って上げたら大変喜ばれたが、これもユースホステルの皆から仕入れた情報だ。

あるとき、ヒッチハイクで降りる時に、お礼の意味を込めてドライバーにツルを一つ折って渡したら大変喜んで、自分には子供が3人いるからもう二つ作って欲しいと頼まれ、交叉点近くで車を止めたままツルを折っていたら、駐車違反だと警官に怒られたこともある。


コペンハーゲン・人魚姫の像

ハイデルベルク城より見たネッカー川

ユースホステルは学生時代から時々利用していたから、別段、違和感もなく利用出来たが、慣れない人には少し大変かと思う。なにしろ一部屋に二段式のベツトが5、6あってプライバシーはまったくなし、安さだけが取り柄の、雨露をしのいで寝るだけと云う感じのいわば簡易宿泊所。しかも門限、消灯時間まであり、勝手に夜遅くまで遊ぶことは出来ない。

ただし旅行者同士の情報交換は活発だったから、その点では随分と助かったし、国によっては食事の配膳、食後の食器洗いを義務づけているところもあった。世界各国の若い人達とワイワイガヤガヤと喋りながら、配膳や食後の後片付けをするのも結構楽しいものだ。

ユースホステルはドイツが発祥地で立派な理念があるがそれはそれとして欧州各国を回っていると、お国柄が表れていて大変おもしろい。ドイツ、フランス、イギリスでは規則通りで、門限も午後9時、消灯は午後10時とか大変厳格で夜遊びなどは出来ず、その点は健康的だった。

所が、イタリア、スペイン、フィンランドでは門限も消灯時間も一応はあったが、誰も守らずまた管理人もうるさく言わず、門限を過ぎて帰っても、チップを渡せば門を開けてくれた。厳格な日本ではとても考えられない運営だ。


もっとも北欧では白夜の季節だと、午後11時でも明るかったから10時消灯ではちょっと無理な話だ。
私も北欧では同室のアメリカ人、ドイツ人と一緒に近くのディスコで明け方まで踊り、朝帰りしたこともたびたびある。
余談になるが、あちらのディスコでは女の子を誘って踊るとき2曲は必ず一緒に踊ってくれた。それが誘われてOKした女の方の礼儀みたいで、誘って断られた記憶もあまりない。



イタリア・フィレンツェ
ユースホステルやペンションでは朝・夕食付が普通。朝食はいわゆるコンチネンタルスタイルの、パン、チーズ、サラミソーセージ等の簡単なものに、牛乳かコーヒが付いている。夕食もシチューとか煮込み物が多く、大勢が手っ取り早く食べれるようなものしか出なかった。そしてアルコールは厳禁だ。

昼食は大抵、屋台か立ち食いのホットドックかハンバーガーですませていたように思う。節約を第一にしていたので、その地の名物料理、イタリアのピザやパスタぐらいは食べたがフランスのエスカルゴ、スイスのフォンデュ、スペインのパエリャ料理等々の名物料理を食べた記憶もなく今にして思えば少し残念な気もする。

以外に思われるかも知れないが、昼食で時々利用したのが大学の食堂。ヘルシンキ大学パリ大学ロンドン大学など、市内のど真ん中にあったので利用しやすかったし、なにしろ安くてボリュームがあったから有難かった。こうした情報もユースホステルの宿泊者から仕入れたものです。        

いずれも市内の繁華街から歩いて行ける距離にある大学で、中でもロンドン大学大英博物館の近くにあったのでよく行った。料理がおいしかった訳ではないが、古色蒼然とした大学のキャンパスが気に入って構内を歩きまわっていた。ついでに23回大教室に入り込んで皆と授業を受けた事もある。もっとも授業の内容はもちろん全然判らなかったが。パリ大学でも2回ほど授業を受けた記憶がある。


ローマでは、映画「終着駅」に出てくるテルミニ駅に、フィレンツから夜、着いた途端に駅構内でホテルの客引きに捕まって宿泊料金の交渉、安かったので泊まったのは良いが、次の日の朝早く、物すごい鐘の音でビックリして飛び起きてしまった、すぐ隣が教会だった。

 その後も、昼、夜とすごい鐘の音で、その度にビックリし2日位で早々と安ホテルを退散した。安くて、清潔なホテルだったが、あの鐘の音だけは睡眠不足になった。
しかし後でよく調べたら、この教会は有名なサンタマリアマ
ッジョーレ教会
教会の鐘の音で逃げ出すとは、バチ当りかも知れない、ローマの懐かしい思い出だ。

ローマ・コロッセオ

スイス・ユングフラウヨッホのアレッチ氷河
いろいろな場所で泊まったが、その中でベストワンというとスイス・グリンデルワルトのユースホステル。
スイスアルプスを代表する
ユングフラウヨッホイガーなどを中心とした地域は、「ベルン州の高地」という意味でベルナーオーバーランドと呼ばれる。

これらの観光拠点になるのがグリンデルワルトの村
ベルナー三山を中心とする山々、純白に輝く氷河、緑のアルプ(牧草地)、おもちゃのような登山電車、誰もが憧れるスイスの風景がグリンデルワルトには揃っていた。
ユースホステルは高原の小高い丘の上に建つ瀟洒な山小屋風の建物で、窓は赤や黄色の花々に囲まれ、素朴な田園風景の中にあった。
窓からはアイガーの切り立った北壁が直ぐ近くに見え、窓ワクが額縁となって、部屋の中から窓越しに見る風景はまるで一筆の絵画のようだ。
朝日や夕日を浴びたアイガー北壁は形容し難いほど美しかったし、それを見ながら食べる朝食や夕食は本当に美味しかった。


スペイン・マドリッドの子供
旅行中、身分を聞かれると本当は無職だったが、説明するのが面倒でいつも大学生と答えていた。
実際、大学生ではなかったが国際学生証(IDカード)は取得していた。
ユースホステルには情報通がいて、大学生でもないのにこのIDカードを取得する方法や、どこの国が一番簡単に取得出来るかを親切に教えてくれる者もいた。

そして、スペインはマドリッドの学生センターで、日本の運転免許証を示して、私は日本のコレコレの大学の学生ですと言ったら、すぐ信用してIDカードを発行してくれた。
このIDカードはその後大いに役立ったが、不正に取得しただけに今でもチョッピリ胸が痛む。
この国際学生証があれば美術館、博物館、劇場、鉄道
飛行機、観光バス、ホテル等が2、3割引になった。ニューヨークのYMCAホテルでダメモトで見せたら確か2割引してくれた。ヘルシンキからロンドン、ロンドンからニューヨークへも格安のステューデントフライトのチャーター機を利用したがこれも国際学生証のお陰である。もっとも格安なだけに機体は古くて空中分解しそうな感じで飛行中は冷や汗の連続だったが。
パリには10日ほど滞在して、あちこちと見物した。ところがパリといえば誰もが行くルーブル美術館は行けなかった。いや正確には、パリ滞在最終日にルーブル美術館には行った、が、休館日だった。

これはシマッタと思ったが、ユーレイルパスの有効期間が残り数日しかない。なにしろ有効期間の切れる日までにヘルシンキにたどり着かねばならない事情(フィンランドの思い出参照)があるのに、まだ、オランダやベルギーにも寄る予定をしていた。従って日程的に、パリ滞在をもう一日延ばしてルーブルを見学する時間的余裕がなかった、という訳です。

その時は、また2,3年すればパリに来るだろうと至極簡単に考えていた。しかし、パリを再訪し、ルーブル美術館へ行けたのは1993年7月、当初の旅行より22年後になる。
パリ・ノートルダム寺院内部
パリで4、5日ほど泊まっていたホテルは、下町情緒溢れるモンマルトルのピガール広場近くの星もないような共同トイレの安ホテル。ちょっと歩けばあの有名なムーラン・ルージュテアトル広場サクレクール寺院があった。ホテルから少し歩いて表通りに出ると、ナイトクラブやバーが林立し、ネオンきらめく夜になると呼び込みの兄ちゃん、姉ちゃんで表通りを怪しげな雰囲気に盛り上げていた。

こうしたナイトクラブやバーに入って、お金をふんだくられたという失敗談をアチコチで聞いていた。側についた女の子がチョコレートを食べても良いか、と聞いたのでまぁチョコレートぐらいはそんなに高いものでもなしとOKしたら、なんと!持ってきたチョコレートは見たこともない豪華なもの、本人はシマッタとおもったがアトの祭り、結局有り金10万円ほどはたいて支払ったとか、フランス語で酒の名前を言われても判らないし、適当にOKと言ってたらこれまた高そうなボトルを開けられて、法外な請求書を突きつけらたとか。

そんな話を聞いていたので“君子?危うきに近寄らず”と避けていた。が、ある晩クラブの前で呼び込みをしていた女の子を見てビックリ、なんという美女か、こんな絶世の美人今まで見た事もないと見つめていたら入れとジェスチャー、魅入られてノコノコついて入って行ったら、いままで明るかった照明が突然に薄暗くなり、静かだった店内に突然大音量の音楽が鳴り響いた。

どうもおかしな雰囲気になったなぁと思ったその時ハッと気が付いたが、もう周りには2、3人の女の子と屈強そうなボーイに囲まれていた。手持ちのお金は2、3千円しかない、困ったなぁ、どうして逃げようかなと思案していてフッと思いついた。

   ボーイ 「飲み物は何?」
     私  “私はBuddhist仏教徒だ、宗教上厳しい戒律があってお酒はダメだ”
   ボーイ 「ここは酒を飲むとこや!」
     私  “私はこの女の人と会話しにきた”
   ボーイ 「バカ野郎、酒飲まんかったらトットと帰れ!」 
という訳で、運良く解放された次第、冷や汗ものの出来事だ。失敗談の一つです。


ロンドン・トラファルガー広場
ロンドへはヘルシンキから格安のステューデントフライトのチャーター機でガトウィック空港に着いた。
ガトウィックの入国審査官はうるさいぞと聞いていたのでだいぶ緊張したが、簡単に3ケ月滞在OKのスタンプを押してくれてビックリ。どうも真面目なフィンランドの学生達と一緒だったことが幸いしたようだ。
ユースホステルは、朝10時から午後3時位までは宿泊者全員が、建物の外に出なければならないようになっている。これだけは各国共通でした。雨が降ろうが、体調が悪かろうが建物の中には入れない。
左の写真を撮ったあと、ベンチに座っていたら
トラファルガー名物のハトに頭や肩にフンをポトポト落とされたが、ユースホステルに帰ることも出来ず、近くの水道を探し回って洗ったが、一日中匂いが気になって観光どころではなかった。
欧州で旅行中の情報源の一つとして、アメリカの新聞ヘラルドトリビューン紙の海外版を読んだら良いと教えられて、時々駅の売店で買っては読んでいた。
こうした新聞のトラベル欄に格安のフライト情報が載っていて結構参考になった。
ニューヨーク行きのステューデントフライトのチャーター機もこの新聞から見つけたのだが、こうした飛行機は毎日飛んでいるのではなく1、2週間か10日に一回の割で飛んでいる。

ロンドンにはブラックフライアーズ駅近くのユースホステル(サマーハウス)に2週間ほど居たが、これは飛行機の発着の関係上待たされたからで、毎日何もすることがなく朝10時にユースを締め出されると、すぐ近くのセントポール大聖堂の石段に腰掛けて、一時間ほど雑談しながら町行く人々をぽかんと見つめ、やおら立ち上がって3、40分かけてトラファルガー広場まで歩くのが日課だった。


そして暇つぶしによく大英博物館に行った。何しろ入場無料で、中は大変暖かい。7月初めのロンドンは、雨がよく降って寒かったから暖かい大英博物館は大変有難い存在だ。思いは同じと見えて、ユースホステル宿泊者の多くとここで再会したり、また欧州各地で知り合った人たちとも再会した。
いわば大英博物館は、貧乏旅行者の溜まり場兼待ち合わせの場所だった。

入場無料の大英博物館(もっとも植民地時代の略奪品・収奪品の展示ばかりだから入場無料も当然か?)に、毎日のように来て館内をブラブラしている我々にいやな顔一つしなかった太っ腹の係官の態度には今でも感謝している。



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