「楽しく仕事が出来ているかい?」 | |
1.部下を伸ばす上司と部下を駄目にする上司 部下の能力を伸ばす技 パワハラと教育について考える 企業や組織においても、または研究機関においても、部下の教育や人材の育成においては常に「飴と鞭」が存在する。ここで言う「飴」は誰もがわかるように「優しさ」や「丁寧な教え」であろうが、例えば「褒める」ことや「表彰」や「昇格」なども含まれると思われる。いっぽう、「鞭」は「躾」とか「叱り」となるのであろう。 著者自身も人材育成に対して教育される側と教育をする側での双方の経験があるが、現役時代の若い頃にはいわゆる「団塊」の世代の方々から厳しい指導や教育を受けた。教えてもらう内容としては技術や技能そのものだけでなく、作業や業務に対する考え方や仕事の取り組みの姿勢、あるいはそれらの優先順位、さらには関係者との交流やそのやり方に対しても、世間でいう肉体的なパワハラや体罰こそは無かったが、叱咤激励のような厳しい指導を受けた記憶がある。また、時には、「馬鹿者」とか「ふざけるな」などと罵倒されたことも今から思えばあったようだ。最近の教育や指導においては、このような熱のこもったやり方はいわゆるパワハラ(パワーハラスメント)として言われているようだが、昭和という何10年も昔の時代の教育や人材の育成では「当たり前」であったのであろう。今となっては(今の基準から考えてみれば)、当時の状況はいわゆる「飴」と「鞭」で例えるならば、ほとんど「鞭」であったのかも知れない。ただし、著者にとっては全く「鞭」として感じたことが無く、今から思えばちょうど料理のスパイス(胡椒とか唐辛子など)のような良い「アクセント」であったと感じている。 時も流れて昭和の時代から平成を越えて既に令和となり、また教育の仕方も教え方も大きく変わり、人材育成に対しても熱意が籠りすぎると直ぐに周囲から「パワハラ」ということが言われるようになってきた。教える側からみると、非常にやり難い状況になったとつくづく感じたものである。多くの場合には、教えられる本人のやる気や能力があれば、技術そのものの講習や教育では大きな問題はほとんど無いはずである。しかしながら、教育や人材の育成で常に問題となるのは人と人の関係である。 仕事や業務ではどんな場合でも多くの人が複雑に絡んでいる。そのために技術の内容だけを学ぶだけでは決して仕事は順調には進まない。つまり、座学や演習だけでは実際の業務で活躍できる若手の技術者を育成することができないのである。したがって、人と人との交流をできるように部下の考え方ややり方に対しても指導をしなくてはならなくなる。こうしたことから、団塊の世代の先輩たちが現役であった頃には、今の状況に対応させると日常的に「パワハラ」であったとされてしまうのだろう。 「パワハラ」、正確には「パワーハラスメント」というのは、厚生労働省のインターネットの記事を参照すると(詳しくはhttps://www.no-harassment.mhlw.go.jp/foundation/definition/aboutを検索して頂きたい)、職場おいて「優越的な関係を背景とした言動」であり、また「業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの」であるとされている。さらに「労働者の就業環境が害されるもの」であり、これらの3つの要素を全て満たすものをいうとのことである。客観的にみて業務上必要でありさらに相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、職場におけるパワーハラスメントには該当しないと記載されている。 ここでいう「職場」とは、事業主が雇用する労働者が業務を遂行する場所をいう。また、労働者が通常就業している場所以外の場所(例えば出張先など)であっても、労働者が業務を遂行する場所であれば「職場」に含まれるとされている。つまり、出張などで同席する社外の場所も含まれることになる。また、勤務時間外の「懇親の場」や社員寮や通勤中などであっても、実質上職務の延長と考えられるものは「職場」に該当するとされている。その判断に当たっては、職務との関連性、参加者、参加や対応が強制的か任意かといったことなどを考慮して個別に行う必要があると記載されている。つまり、懇親会や歓送迎会などのお酒の入った席においてもパワハラが存在することが明記されている。 対象となる「労働者」は正規雇用の社員だけでなく、パートタイムやアルバイトあるいは契約社員などいわゆる非正規雇用労働者を含むとされている。つまり全ての労働者が対象となる。さらに重要な「優越的な関係を背景とした」ということは、業務を遂行するために当該言動を受ける労働者が行為者とされる者に対して抵抗や拒絶することができない蓋然性が高い関係を背景として行われるものであるとの説明が記載されている。一般的には、教育を行う側は教育を受ける側に対して「優越的な状態」にあると言える。 つまり、職務上の地位が上位の者による言動、同僚または部下による言動で、当該言動を行う者が業務上必要な知識や豊富な経験を有しており当該者の協力を得なければ業務の円滑な遂行を行うことが困難である場合、同僚または部下からの集団による行為で、これに抵抗又は拒絶することが困難である場合などが該当するらしい。 さらに最も重要な「業務上必要かつ相当な範囲を超えた」ということは、社会通念に照らして当該言動が明らかに当該事業主の業務上で必要性がない、またはその態様が相当でないものを指すとしている。つまり、業務上明らかに必要性のない言動、業務の目的を大きく逸脱した言動、業務を遂行するための手段として不適当な言動、当該行為の回数、行為者の数等、その態様や手段が社会通念に照らして許容される範囲を超える言動などが紹介されている。 ただし、「パワハラ」の判断に当たっては、様々な要素(当該言動の目的、当該言動を受けた労働者の問題行動の有無や内容・程度を含む当該言動が行われた経緯や状況、業種・業態、業務の内容・性質、当該言動の態様・頻度・継続性、労働者の属性や心身の状況、行為者の関係性等)を総合的に考慮することが適当であるとされている。そして、「就業環境が害される」とは当該言動により、労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、就業環境が不快なものとなったために能力の発揮に重大な悪影響が生じる等の当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることを指すとされている。 このようなことを考慮すると、教育や人材育成の中で「パワハラ」であるとされる例としては、教育を受けている直接の指導とは関係ない個人批判や攻撃ということになるが、職務上(教育や指導の過程において)の延長上にある言動や内容も含まれる可能性(危険性)もあるかも知れない。著者は、晩年になって企業内での技術者の育成で未熟な若手技術者を教える立場になって、上記のような「思い出したくない」経験をしたことがある。そんな訳で、この問題となった出来事を知って頂き、皆さんの今後の「対策」と「改善」に対しての1つの知見となることを願っている。 本書では既に何度も記載したが、企業の技術者は大学や大学院で学んだ基礎的な学問や知識や文献あるいは書籍で知った技術内容だけでは企業において実践的な業務を日々遂行していくことができない。仮に日常の業務をある程度遂行できたとしても、現場の技術的な背景や応用的な技術、あるいは日々刻々と更新されていく現場の技術の内容を加味しながら修正や追加を加えて技能さえも向上させて実用的な戦力とさせることが極めて難しくなる。すなわち、企業や研究所での実戦力となる技術者には自分(当事者)を中心とした人材の交流マップの作成と拡大が常に求められる。そしてそれらの人脈を活用して新たな技術や情報を獲得して企業に実践力として活用できる人材へと成長させていかねばならない。 そのために、教える側は技術の教育だけでなく関係部署の多くのメンバーとの技術的あるいは人為的な交流ができるようにしていくことが重要となる。しかしながら、こうした人為的な交流は単なる会話や交わりでは十分にできない。自部門の同僚や組織の先輩、あるいは団塊の世代のようなメンバーだけでなく、部門を越えた役付き管理職や製造部門の専門職や管理職などともコミュニケーションを取らねばならない。さらに、製造部門では現場を担当する社員との観察や現象に基づく説明や議論をしていくことも必須となる。 このような人為的なネットワークの構築のためには、上司や教育を実施する者(いわゆる講師)は、会議や出張の場などを積極的に利用して、部下をOJT(On the Job Training)の中で育成していくことが強く求められる。しかしながら、著者の現役時代の経験によれば、人と人とのコミュニケーションにおいては、学歴や知識の量あるいは経験値などにはほとんど関係なく、教育を受ける側の性格や考え方あるいは社交性や挑戦する意欲などに大きく左右されるので、事前に面談や意見交換など行っていても将来の進むべき方向性を十分に把握することができない。そのために、実際に教育を進める過程で随時教育の達成の状況を見極めていく必要がある。 製造現場や研究開発部門の双方を行き来して総合的な課題解決型の業務を展開する場合には、関係者同士のコミュニケーションは必須であるので、教育や育成の過程で状況をよく把握することが必要となる。そのような過程において、研究開発の分野においても特にルーチン的な試験・分析を主体とする業務などの選択も有り得るので適時柔軟な対応が求められる。 人材育成の中で、仮に本来の目標までには到達できない場合においても、教育を受ける側の本人の将来性も考慮して思い切った決断が求められることがある。場合によっては、製造現場の技術者に適任する場合もあり、または分析装置のオペレーターなどの技能的な業務に適している場合もある。当初に想定した人材計画を押し進めるために教育を受ける本人に対して無理矢理に過度の期待を要求したり、あるいは結果的に押し付けたりするような状況になることはできる限り避けたいものである。こうした行き違いが重なると、教育者の意図に反して本人あるいはその周囲(いわゆる取り巻きのような者)からの「パワハラ」的な指摘も受けかねないので、折角の教育や育成に「水を差す」結果となりかねない。 若手や中堅の社員の教育や育成においては、当初の計画に対して決して過度の期待をしないことである。本人の適性を早期に把握する。関係者同士の人為的な交流を重視する。そして、これらの過程で教育を受ける側の適正と将来の姿を理解して方向性に修正を加えながら思い切った判断することが重要なのであろう。 「パワハラ」もあるいは世間でよく言われる「**ハラ」も表面化した場合には、人材育成を修正することを余儀なくされ、場合によっては教育の中止や取りやめ、あるいは教育担当者の変更なども生じるために、教育する側とされる側のお互いで不幸になる。著者から見れば、何でもかんでも直ぐに「パワハラ」というような状態になることも別の意味(何か撃たれ弱い)でも問題であると思うが、精神論ではなく教育を受ける側に対しても直ぐに弱音を吐くような近年の考え方や風潮にも何かやり難さを感じるところがある。 結果的には、上司や教育者は人材育成の過程で、逐次教育を受ける側の状況を把握して、適正を考慮して将来のあるべき姿を描きなおすことが必要であろう。
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