魏志東沃沮伝


魏志東沃沮伝

東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居 其地形東北狭西南長 可千里 北與挹婁夫餘南與濊貃接 戸五千
「東沃沮は高句麗、蓋馬大山の東に在り。大海に浜して居す。その地形は、東北が狭く、西南は長い。およそ千里なり。北は挹婁、扶余、南は濊貃と接す。戸は五千なり。」

「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東にあり、大海のすぐそばに住んでいる。地形は東北が狭く、西南は長い。およそ千里。北は挹婁、夫余と、南は濊貊と接している。戸数は五千。」


無大君王 丗丗邑落各有長帥 其言語與句麗大同時時小異
「大君主無し。世世、邑落はそれぞれ長帥あり。その言語は句麗と大きくは同じくして、時々、小さく異なれり。」

「大君王はおらず、代々、集落それぞれに統率者がいる。その言語は高句麗とだいたい同じで、ところどころ小さな違いがある。」


漢初 燕亡人衛満王朝鮮時 沃沮皆屬焉 漢武帝元封二年 伐朝鮮殺満孫右渠 分其地為四郡 以沃沮城為玄菟郡 後為夷貃所犯徙郡句麗西北 今所謂玄菟故府是也
「漢初、燕の亡人、衛満が朝鮮に王たりし時、沃沮はみな焉に属す。漢、武帝元封二年、朝鮮を伐ち、満の孫、右渠を殺す。その地を分けて四郡と為し、沃沮城を以って玄菟郡と為す。後、夷貊の犯すところと為り、郡は句麗西北に徙る。今、いわゆる玄菟故府これなり。」

「漢の初期、燕の逃亡者、衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみなこれに属した。漢の武帝の元封二年、朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺した。その地を分けて四郡となし、沃沮城を玄菟郡にした。後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、郡は高句麗西北に移った。今、玄菟故府というのがこれ(元玄菟郡)である。」


沃沮還屬樂浪 漢以土地廣遠在 單單大領之東分置東部都尉 治不耐城別主領東七縣 時沃沮亦皆為縣
「沃沮は還りて、楽浪に属す。漢は土地広くして遠く在るを以って、単単大領の東は、分けて、東部都尉を置き、不耐城に治し、別けて領東七県を主る。時に、沃沮も亦みな県と為る。」

「沃沮は(中国に)戻って、樂浪郡に属した。漢は楽浪の土地が広く遠いため、単単大領の東は分けて東部都尉を置き、不耐城で統治して、(単単大)領東の七県を別に主らせた。その時、沃沮もまた、みな県になったのである。」


漢光武六年 省邊郡都尉由此罷 其後皆以其縣中渠帥為縣侯 不耐華麗沃沮諸縣皆為侯國
「漢、光武六年、辺郡を省き、都尉はこれにより罷む。その後、みな、その県中の渠帥を県侯と為すを以って、不耐、華麗、沃沮諸県はみな侯国と為る。」

「(後)漢の光武帝六年、縁辺の郡を省き、都尉はこれにより廃止された。その後、みな、その県中の統率者を県侯となしたので、不耐、華麗、沃沮の諸県はみな侯国になった。」


夷狄更相攻伐 唯不耐濊侯至今 猶置功曹主簿諸曹 皆濊民作之 沃沮諸邑落渠帥皆自稱三老 則故縣國之制也
「夷狄は更に相攻伐し、ただ、不耐濊侯が今に至る。なお、功曹、主簿、諸曹を置き、みな濊民がこれになる。沃沮諸邑落の居帥はみな三老を自称す。則ち、故県国の制なり。」

「周辺の夷狄はその後もたがいに攻撃しあって、ただ、不耐濊侯だけが今に至っているが、以前のように功曹、主簿や諸曹の官を置き、みな濊の住民がこれになっている。沃沮の諸集落の統率者は、みな三老を自称するが、これも昔の県国の制度なのである。」


国小迫於大國之間 遂臣屬句麗 句麗復置其中大人為使者使相主領 又使大加統責租稅 貃布魚鹽海中食物千里擔負致之 又送其美女以為婢妾 遇之如奴僕
「国、小さくして、大国の間に迫り、遂に句麗に臣属す。句麗はまたその中に大人を置き、使者と為して相主領せしむ。また、大加をして租税を統責せしめ、貊布、魚、塩、海中食物は千里を擔負してこれを致す。また、その美女を送り、婢妾と為し、これを奴僕の如く遇す。」

「国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣下として従属した。高句麗はその中に大人を置き、使者(高句麗の下級官名)となして統治させた。また大加(高句麗の大官)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。」


其土地肥美 背山向海 冝五穀善田種 人性質直彊勇 少牛馬 更持矛歩戦 食飲居處衣服禮節有似句麗
「その土地は肥美なり。山を背に海に向かう。五穀に宜しく、善く田種す。人の性は質直にして強勇なり。牛馬少なく、更に矛を持ち歩戦す。食飲、居所、衣服、礼節は句麗に似たる有り。」

「土地はよく肥えている。山を背に海に向かう。五穀に適していて上手に耕し種播いている。人々の性質は素直で強く勇敢だ。牛、馬は少なく、矛を持ち歩いて戦う。食物、飲み物、住まい、衣服、礼節は高句麗に似たところがある。」


其葬 作大木槨長十餘丈 開一頭作戸 新死者皆假埋之才使覆形 皮肉盡乃取骨置槨中 擧家皆共一槨 刻木如生形随死者為數 又有瓦*金歴*置米其中編縣之於槨戸邊
 *金歴*は金偏に歴、フォントが無く表示不能)

「その葬は、大木槨、長十余丈を作り、一頭を開けて戸を作る。新たな死者は、皆、これを仮に埋め、わづかに形を覆はしむ。皮肉が盡るや、すなはち骨を取り、槨中に置く。家を挙げて、皆、一槨を共にす。木を刻みて生き形の如くし、死者に随ひ、数を為す。また、瓦鬲があり、米をその中に置き、これを槨の戸辺に編縣す。」

「その葬儀は、長さ十余丈(24mほど)の大木槨を作り、一方の端を開いて戸を作る。新たな死者はみな仮に埋めて、わずかにその形を覆わせるだけである。皮や肉が腐ってなくなってから骨を取り、槨の中に置く。一家はみな一つの槨を共にする。木を刻んで生きている時のような形にし、死者にみあうだけの数がある。また、土器の釜があり、米をその中に置いて槨の戸のあたりに紐でつるす。」


毋丘儉討句麗 句麗王宮奔沃沮 遂進師撃之 沃沮邑落皆破之 斬獲首虜三千餘級 宮奔北沃沮
「毋丘倹は句麗を討ち、句麗王、宮は沃沮に奔る。遂に、師を進めて、これを撃ち、沃沮の邑落は皆これを破る。首を斬獲した虜は三千余級。宮は北沃沮に奔る。」

「(幽州刺史の)毋丘倹は高句麗を討ち、高句麗王の宮(人名)は沃沮に逃亡した。ついに軍を進めて宮を攻撃した。沃沮の集落はみな破って、首を切った捕虜が三千人あまりいた。宮は北沃沮に逃亡した。」


北沃沮一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗南北皆同 與挹婁接 挹婁喜乗船寇鈔 北沃沮畏之 夏月恒在山巗深穴中為守備 冬月氷凍船道不通乃下居村落
「北沃沮の一名は置溝婁。南沃沮を去ること八百余里なり。その俗は南北みな同じ。挹婁と接す。挹婁は乗船し寇鈔するを喜び、北沃沮はこれを畏れる。夏月は恒に山の巗しく深い穴中に在りて守備を為す。冬月は氷凍して船道は通わず。すなわち下りて村落に居す。」

「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。北沃沮は挹婁と接している。挹婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れている。夏の間は常に山の険しく深い穴の中にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が不可能になるので、山を下り村落に住む。」


王頎別遣追討宮 盡其東界問其耆老 海東復有人不 耆老言 國人嘗乗船捕魚 遭風見吹數十日 東得一㠀 上有人言語不相暁 其俗常以七月取童女沈海 又言有一國亦在海中 純女無男 又說得一布衣從海中浮出 其身如中國人衣 其兩袖長三丈 得一破船随波出在海岸邊 有一人項中復有面 生得之與語不相通 不食而死 其域皆在沃沮東大海中
「王頎は別れて遣はされ、宮を追討す。その東界に盡き、その耆老に問ふ。海東にまた人有や?耆老は言ふ。国人が嘗って船に乗りて魚を捕るに、風に遭ひ、吹かれ数十日を見て、東に一島を得る。上に人有るも言語は相暁せず。その俗では、常に七月を以って童女を取り海に沈める。また、言ふ。一国有りまた海中に在り。純女にして男無し。また、説く。一布衣、海中より浮き出ずるを得る。その身は中国人の衣の如し。その両袖は長三丈なり。一破船を得る。波に随い海岸辺に出る在り。一人有りて、項中にまた面有り。生きて之を得て、ともに語るも相通ぜず。食らはずして死す。その域はみな沃沮東の大海中に在り。」

「(玄菟太守だった)王頎は別れて派遣され宮を追討した。北沃沮の東の果てへ行き着き、そこの古老に『海の東にまた人がいるだろうか。』とたずねると、古老は言った。『以前、この国の人で、船に乗って魚取りにでて、風のために数十日吹き流され、東の一島に着いたものがいる。そこには人がいて、言葉は通じなかった。その風俗では、常に七月に童女を取りあげて海に沈める。』また言う、『一国がまた海の中にある。女ばかりで男はいない。』また告げた、『海の中から浮き上がった一枚の布の服を手に入れた。その体の部分は中国人の服のようだったが、両袖の長さが三丈もあった。』『また一艘の難破船を得たこともある。波に打ち上げられて海岸のほとりあったが、一人の人がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じず、食べることができずに死んだ。』その地域はみな沃沮の東の大海中にある。