「好き、って感情とは少し違うのかもしれんが…。
  特別に興味がある。上野さんのことをもっと知りたいと思った」

 特別な興味…か。
 私がこの男に対して抱いている感情もそうなのかもしれない。
 この男に興味が湧いた。

 「分かったわ。私のこと教えてあげる」

 私は、もう一度座り直した。
 精神科の先生以外に自分の病気について話すなんて初めてね。

 「私は病気なの。ウラメっていう病気」

 「ウラメ?」

 「そう、ウラメ」

 「恨むなら、己を恨め〜!!のウラメか?」

 私はこの男を買いかぶり過ぎているのだろうか。



 私はウラメについて話した。
 ウラメとは、ある行為に込められた【意図】に対して、
 その行為によって引き起こされる【結果】が逆になる、という病気。

 「うーん、よく分からんな」

 確かに抽象的過ぎたかもしれない。
 もう少し具体的な事例を挙げた方が良さそうね。

 「もし、あなたの前を歩いていた人がバッグを落としたら、あなたはどうする?」

 「そりゃあ、バッグを拾って、落とし主に届けてやるけど」

 質問の意図が分からないような面持ちで、彼は答えた。

 「では、私があなたと同じ行為を取ったら、どうなると思う?」

 「落とし主は喜ぶと思うぜ? 拾ってくれてありがとうってさ」

 「違う!!」

 私は叫んだ。

 「私はウラメなのよ」

 彼は相変わらずピンと来ない様子だった。
 私は続ける。

 「私がバッグを拾って、落とし主に渡そうとしたら、彼はこう言うわ。『盗むつもりだったんだろ』って。
  そして『返せ!』と叫びながら、私の手のバッグをひったくって、『この泥棒が』と罵りながら去って行くわ」

 悲しかった。
 自分の説明が、氷のナイフのように自分の心をえぐった。

 「上野美樹はウラメなの」

 普通の人であれば、「ありがとう」と言われるのに。
 何故私だったら…。
 どうして私の気持ちは人に伝わらない?
 別に「ありがとう」と言われたいワケじゃない。
 ただ。
 ただ、気持ちが人に伝わらないことが悲しいのだ。
 コミニュケーションが取れない存在。
 コミニュティー、つまり共同社会に入り込めない存在。
 アリストテレスは「人間はポリス的、つまり社会的な動物である」と唱えた。
 和辻哲郎は「人間存在は、人と人との『間柄』を示す」と述べた。
 だったら、私は何だっていうの?
 そこまで考えて、私は一つの結論に到った。

 「上野美樹はヒトじゃないのよ」

 そう、答えは至って単純だった。
 私は6歳の時、ウラメを煩った瞬間から、ヒトでなくなったのだ。

 「そうよ…。上野美樹は
―――

 「
―――美樹は人間だ!」

 私の言葉は、途中で彼の言葉に遮られた。
 間髪入れずに、彼は続ける。

 「もし美樹の前を歩いていた人がバッグを落としたら、美樹はどうする?」

 彼は私がした質問を繰り返した。
 全然彼の意図が分からない。
 私が彼にこの質問をしたのは、彼にウラメを教える為だ。
 しかし、ウラメである私に彼がこの質問をしても、全くのナンセンスなのだ。
 私は首を横に振った。

 「答える意味がないわ」

 「いいから答えるんだ!」

 すごい気迫だった。
 私は彼の勢いに飲まれた。

 「あなたと同じよ。バッグを拾って落とし主に渡すわ」

 「どうして、落とされたバッグを見て見ぬフリしない?」

 
―――え?
 私は虚を突かれた。

 「美樹は、バッグを拾ってあげたら誤解されることを知っているんだろ?
  それでもバッグを拾うのは
―――

 彼はニコッと微笑んだ。

 「
―――美樹が人間だからだ」

 彼は微笑んだまま続ける。

 「もし美樹が、アリストテレスとか和辻哲郎とかの思想で、自分は人間じゃないと思っているのだとしても」

 図星だった。
 私は目を大きく見開いてしまった。

 「美樹はちゃんと社会に働きかけてんだぞ。
  美樹の美樹がしたいと思っている【意図】をね」

 そんなワケがない。
 私の【意図】は、ウラメによって社会には届かないのだ。
 社会に届くのは、私が望まざることばかり。
 でも、何故か反論する気にならなかった。
 黙って彼の説明を聞いていたかった。

 「バッグを渡したいと【意図】したとき、確かに美樹の行為は落とし主に届かなかったけど、
  でもバッグはきちんと渡せている。
  また、サッカーボールを渡したいと【意図】したとき、確かにボールは少年に届かなかったかもしれない。
  でも少年にはきっと伝わってるぜ? 美樹のボールを渡してあげたいという【意図】が」

 彼は穏やかに、優しく、淡々と言葉を紡ぎ続ける。

 「ちょっと抽象的になるけど。
  何らかの【意図】に基づく行動によって、【結果】が引き起こされるとき、人は【意図】と【結果】の両方を知る。
  ちびっと変な例だが…「殴られた」という【結果】と
  相手の「ボコボコにしたい」という【意図】は両方とも知ることができるってこと。
  そして、ウラメによって誤解されるのは、【意図】と【結果】のどちらか一方だけなんだと思う」

 彼の理論は、私が今までに考えたことのないものだった。
 私は頭の中で彼の理論を整理し、口にしてみた。

 「バッグの時は、【意図】が伝わらなかった例で、
  サッカーボールの時は、【結果】が伝わらなかった例…ってこと?」

 彼は頷いた。
 私は続けて尋ねる。

 「な、なら、人を避けようとしたら、逆に人を近づけてしまったわ。
  これはどう説明するの?」

 「それは【結果】が伝わらなかった例だ。
  そもそも、人を避けるという行動は、「人を傷つけたくない」という【意図】から来るんだろ?
  その【意図】は伝わっている。だから人は近寄ってきてくれる。

 「クラスメイトを突き飛ばしてしまったわ」

 「それは【意図】が伝わらなかった例だ。美樹は実際にクラスメイトを突き飛ばせている」

 その後しばらく私は質問を繰り返した。
 しかし、どの質問も全て彼の理論で説明できた。
 全ての質問を答えきって、彼は再び口を開いた。

 「つまり、美樹はウラメだが、【意図】と【結果】のどちらか片方を社会に伝えることができる。
  コミニュケーションできてるんだよ。不自由かも知れないけどな。
  でも、美樹はちゃんと社会の中に存在している。だから…美樹は人間なんだ」

 その瞬間、私の心を縛り続けていた鎖が、音を立てて切れた。」


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