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第四章 羽化 (3)

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2007/08/20 Mon.


 初日から始まった授業のあと、予定通り長田と一緒に神部市の高架下へ買い出しに行った。それから二人で寿荘の留守宅に機材を運び込み、試験的に動かしてみた。機械は文句なく作動したが、現場で役に立つかどうかは本番になってみないと確かめようがない。
 長田は不思議そうな顔で、ケージの隅に半分隠れたチイちゃんを見た。
「そいつが、今回のもめ事の始まりなんだけどね。かたが付いたら、話してあげるよ」
 堀川さんからの荷物もスポーツバッグに詰められてちゃんと届いていた。バッグから中身を取り出し、機材を押し込んだ。キアにあてた手紙を残し、僕のウエストポーチには穴をあけた紙箱をつっこんで、アパートを出た。
 長田を自宅まで送り届けて夕食に間に合うように帰宅した。
 ここ数日神妙に行動していたおかげで、母さんの機嫌はかなりましになっていた。学校が始まるということで、しぶしぶ携帯は返してくれたものの、無線LANアダプタは差し押さえられたままだ。携帯をモデムにすればネット接続は可能だが、電話代は自腹だからおいそれと使えない。
 父さんの沈黙は不気味だった。堂島さんや社長さんから何か聞いていたのかもしれないが、夜間外出の理由を直接問いただしてはこなかった。
 僕がよちよち歩きを始めた頃、母さんは横にはりついてはらはらしながら声をかけていたが、父さんは僕が転ぶまで離れたところで見ているだけだったそうだ。転んで泣き出してからおもむろに近寄って、
「助けがいるのかい?」
 そう一歳児に尋ねたという。いまだに我が家の語りぐさだ。
 夕食のテーブルでは勇ひとりが四人分しゃべってくれていた。こういう時にはにぎやかな妹がありがたかった。
 自室にひきあげたあとは、早めに布団にもぐりこんで少しでも仮眠をとろうとしたが、目が冴えてまんじりともしなかった。いつもよりも国道の交通量が多く、パトカーのサイレンが頻繁に聞こえたような気がしたが、思い過ごしだろうと考えていた。

2007/08/21 Tue. 01:00


 午前一時。
 ベッドを抜け出して堀川さんに用意してもらったウェアに着替えた。
「夜明けまでには必ず帰ります。滋と一緒にいます。携帯は消音モードにしているので、メールをください」
 自分勝手な書き置きをデスクに残した。
 没収されたロープのかわりにシーツと布団カバーを結びあわせてベランダから垂らし、外へ出た。MTBは使わず、弓張月の下を走って海に向かった。息を切らしながら待ち合わせの砂浜にたどりついた。
 キアはハマゴウの花畑の中に海を向いてひっそりと立ち、目を閉じていた。
 東野中バドミントン部の試合用ユニフォームは、モノトーンの幾何学柄をプリントしたポロスタイルの上着とそろいのハーフパンツ。上にはおったウインドブレーカーには黒地に白の放物線ラインがはいっていた。すらりとした身体の線がきわだって、一瞬、声をかけるのをためらったほど迫力があった。
 僕の気配に振り向いたキアは、いつもの表情に戻って不機嫌そうに言った。
「この格好に意味あるんか」
「ひょっとして久実さんが僕らを見た時に、そのへんのチンピラと区別がつくようにと思ってね」
 夜中にそこまで見えるかい、とかテニスウェアとどこが違うんや、とか文句を言われるかと思ったが、今夜のキアはいつもにも増して口数が少なかった。手にしたラケットケースをたすきに背負って、静かに草原に入っていった。
 僕は足元に置かれたスポーツバッグを拾い上げてあとを追った。

 四日前に隠れた地点より少し後方のススキの茂みの陰から、母屋のようすをうかがった。北野家の座敷は襖越しでも煌々と灯りがついているのがわかったが、麻雀牌の騒音は前回よりは控えめだった。賭博の熱に浮かされているというより、何か他に関心事があって上の空、という印象だった。
 今晩のメインイベントは他にあるのだろうか。
 憶測を並べていても始まらない。僕はスポーツバッグから機材を取り出して手早くセッティングを始めた。三脚を立ててパラボラ集音機を設置し、イコライザつきの小型アンプを通してHDレコーダーに接続した。アンプのもうひとつの入力端子には手持ち型のガンマイクをつないだ。ヘッドフォンでガンマイクの拾う音声をモニタしながら、座敷の天井あたりに音源を求めてさぐっていく。
 指向性マイクを使っても、座敷の騒音はまじってくる。イコライザを操作して低音域から入力音声をカットしていき、可聴域ぎりぎりのところだけを残した。
 モスキートサウンド。ある程度年齢がいけば聞き取れなくなってしまう高音域。エフェクタをかまして聞き取りやすい周波数帯に落としてやる。久実さんの手元にも変調器つきのスピーカーがあれば、周囲には気づかれずに音声を届けることができるはずだ。
 僕が機械の操作に集中しきっていた間、キアは油断なく周囲を警戒していた。
「おい。中断できへんか」
「待ってくれ。もうちょっとだけ」
 期待したような音声はなかなか拾えなかった。パラボラアンテナの向きを微調整し、マイクと切り替えながら周波数帯を変えていく。
「ラス」
 ささやき声で呼ばれたちょうどその時、ヘッドフォンにかすかな音が……声にもならないわずかな呼吸音が拾えた気がした。ボリュームをめいっぱいあげようとしたら、手元の月明かりがさえぎられて真っ暗になった。
 はっとして顔をあげた時には既に、キアは目の前に立ちふさがった目つきの悪い若い男と対峙していた。後ろから似たようなのがもう二、三人集まってきている。
「お前ら、何やっとんじゃ」
 返答を期待されているとは思わなかったが、一応用意していた言い訳を口走った。
「ミツカドコオロギの鳴き声の録音です。ちょうどその先あたりに音源が……」
「ばっくれんなよ」
 先頭の男が機材に迫って手を伸ばそうとした。アンテナを倒されては元も子もない。あわてて三脚を押さえた僕の前に、キアがすっと移動した。
「それ以上、近寄るなよ」
 キアがラケットケースから引き抜いたものが、ひゅん、と虚空に弧を描いた。
 ケースに収まる長さに柄を切り落とした木刀だ。切り口から二十センチほどのところまで、きっちりパイル地のグリップテープが巻かれていた。
 僕の頭からざーっと音をたてて血の気がひいた。
「マジですか……」
「こいつに指一本でも触れてみい……」
 普段にもまして低い、ドスの利いた声だった。
「やる気かよ、ガキ」
 先頭の男が身構えた。僕は焦ってキアの前に身を乗り出そうとして失敗した。
「おい、落ち着け!」
「今日は冷静やで」
 まずい。キアは本気だ。めちゃくちゃまずい。
 僕のせいだ。僕が頼んでしまったから……。
 ポケットをまさぐって携帯のダイレクトコールボタンを押した。間に合ってくれ。
「頼む。暴力沙汰だけはごめんだ。お前がつかまっちまう」
 頭の中で緊急地震速報のメロディが鳴り響いていた。
「さきに仕掛けられたら正当防衛や」
「得物持ってて言えるこっちゃないだろ!」
 なんとか時間を稼がなければ。
「皆さんも、いい大人なんだから、これ以上挑発しないでください!」
 さらに数人の男達が騒ぎを聞きつけてばらばらと座敷から出てきた。北野朝一と昼二の姿もまじっていた。
「小僧、あの時の……」
 昼二の眉がつりあがった。
「特養のタコか。てめえ、オカンの世話はちゃんとしよるやろな」
 朝一が弟を振り返って、余計なことを言うなとばかりににらみつけた。
 その時、国道方面から耳になじみのある爆音が急接近してきた。
 何事かと一同が顔を向けたところへ、一台の超大型バイクが走り込んできた。
 小道も茂みも無視してはずみながらまっすぐに降りてきたと思うと、あわてて下がった男達をかすめ、僕らのすぐ横でドリフトして急停止した。
 漆黒ボディのBMW。エンジン音が捕食動物のうなりのように響くのを間近で体感すると、寿荘の家賃より維持費が高いことも納得してしまう。さすがの存在感だ。
「ダボがあっ、とうとうケツ割りよったなぁ!」
 バイクとおそろいの黒いヘルメットを脱いで、堂島さんが怒鳴った。ライダージャケットも黒革なので、とても警察官には見えない。
 キアは舌打ちして木刀を構えた腕をさげた。
「まだ、何もしてへん」
 横目で僕をにらんだ。
「チクったな」
「危機介入だ」
 強気で言い返したが、元凶は自分なのだから全然説得力がない。
「滋、貴様、真夜中に家を抜け出しよって、俺が気づかんとでも思ったか」
「聡が呼ぶまで、俺がどこにおるかわからんとその格好でうろうろしよったんやろが。あほか」
 しばし呆然と言葉を失っていた北野朝一が、ようやく気を取り直して割り込んできた。
「失礼ですが、この小僧……学生さんの保護者さんですかいな」
 堂島さんはバイクから降りてじろりと周囲を眺め渡した。
 その目はもろに不信感を語っていたが、一応、大人らしくていねいな応対をすることに決めたようだ。
「県警少年課、捜査係長の堂島順慶です。このガキ……少年は以前から私が直接指導しておったものです」
「ちょうどよろしいわ。学生さんらがなにやらうちの若いもんともめよったようですねん」
「お前らが先にからんできたんやろが」
「ひとん家の庭先で怪しげなことをしよるからや」
「黙らんかい!」
 堂島さんと朝一が一緒に怒鳴った。キアと相手の男はまたにらみあったまま動かなくなった。
 僕はほぞをかんで成り行きを見守っていた。キアを制止するために堂島さんを呼び出したものの、あとのことまでは考えが及ばなかった。朝一は、いきなり登場した警部をなんとか丸め込んで退場してもらおうとしている。けんか沙汰の仲裁に入られて事情聴取なんかされては困るのだ。
 堂島さんも勤務時間外にキアをまきこんだごたごたは起こしたくない、と顔に書いてあった。
「まあ、怪我人もおらんようやし、お互いおとなしゅう引き下がってくれるなら警察の出番もないでしょうが……」
 このままでは何の証拠もつかめないままにこの家に近寄れなくなってしまう。
 僕の胸の中で何かがはじけ飛んだ。
「蜘蛛姫!」
 気がついた時には母屋の天井に向かって大声で叫んでいた。
 その場にいた全員が、キアも含めて、呆気にとられて仁王立ちの僕を見ていた。
「蜘蛛姫ぇ!お願いだ。声を聞かせてくれぇ!」
 声を嗄らして絶叫したあとに、不気味なほどの静寂が訪れ……誰かが何かを言い出すより先に、首にかけたヘッドフォンからかすかな音が漏れ聞こえてきた。僕はヘッドフォンをジャックから引き抜き、アンプの音量を最大限にあげた。
「……すか。そこにいるのはけいさつのひとですか」
 雑音にまじって、アヒルの鳴き声のような割れた音声が聞き取れた。
「堂島さん、返事してあげて!」
 いきなり名指しされて、警部が目を白黒させた。
「返事って。どっからしゃべっとんねん、こいつ」
「あっちの家です。向こうにはレシーバーはないから、大きな声で名乗ってあげて」
 堂島さんはまだ、わけがわからない顔をしていたが、僕の懇願を聞きいれてくれた。
「県警の警部ですう!あんた、どないかしたんですかい?」
 アンプのスピーカーがヒスのような音を出した。僕はもう一度大声を出した。
「声は拾ってます!エフェクトを切ってみてください!」
 女声の高音域にイコライザを絞ると、今度は涼やかな声が聞こえた。
「……ノクミといいます。この家に閉じこめられています。助けてください」
 朝一が破鐘のような声で割ってはいった。
「自分とこの娘や。家において何が悪い!」
 堂島さんがうなるように応えた。
「いくら我が子でも、いやがりよるのを閉じこめると虐待っちゅうんですよ。今どきは」
 なおも食い下がろうとした朝一の声にかぶさって、座敷からばーん!とすごい音がした。
 キアだ。いつの間に移動したのか、奥座敷の襖を蹴り倒したところだった。
 中には数人の人影がみえた。ひとりは襖ごとキアに踏んづけられて短くうめいた。
 奥に逃れたひとりが腰から黒い物を引き抜いて構えようとした。
 キアの木刀がその手の甲をしたたかに打ちすえた。
 二人目が背後から光るものを振りかぶって突進して来た。
 振り向いたキアは真正面から振り下ろした木刀で相手の刃を受けとめた。そのまま横にねじ伏せて相手を転がしたところへ三人目がつかみかかってきた。ウインドブレーカーのポケットにつっこんだ左手がさっと横なぎに動いて、赤いものが飛び散った。
 ほんの数秒間の動きだった。
 僕は座敷に駆け寄って、畳の上に転がった黒い金属の塊を拾い上げた。
 予想外の重みがずん、と腹にこたえた。本物の拳銃だ。キアの木刀に突き刺さったナイフを見て、腹に沈んだ重い物が胸まで逆流した。
 キアは一味唐辛子粉で赤く染まった左手を上着の裾で拭おうとして、借り物であることを思い出したようだ。立ち上がりかけた二人目の襟をつかんで左手をなすりつけ、
「じっとしとれよ」
 と言い捨てて、両目から大粒の涙を流している三人目に向けて突き倒した。
 堂島さんは既に、ひとりめの両腕を後ろにねじってベルトで縛り上げていた。
 男達の罵声がやや静まったところで、僕は彼らが立っていたあたりのすぐ奥、座敷の床の間の天井に、黒々とした隙間が口をあけているのに気がついた。隙間からは細いロープが一本頼りなげに垂れ下がり、その真下に小さな影がうずくまっていた。


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