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第四章 羽化 (4)

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2007/08/21 Tue. 01:00(承前)


 影はクモのようにそろそろと這いだし、やがて両手で両足のくるぶしから膝を順につかんで、ゆっくりと立ち上がった。
 クモが、ヒトになった。
 僕の斜め前に立っていたキアが、吸い寄せられるようにその顔を見つめた。毛玉の浮いたジャージの上下。青白い華奢な手足。もつれた長い髪。その下の両眼は灰色がかった珍しい色で、不思議に強い輝きを放っていた。
 じっと見つめていたキアの顔からは殺気が消えていた。悲哀でも憐憫でもなく、素直に優しい目をしていた。
「……不細工な女やな。それで理屈こねよったら、そら好かれんわ」
 堂島さんの右フックがキアの後頭部に炸裂した。ごつん、とものすごく痛そうな音がした。
「なに失礼なこと抜かしとんじゃあ、このくそガキがあ!」
 頭をかかえて膝を曲げたキアは、歯を食いしばって声を飲み込んだ。たいした意地っ張りだ。その襟首を容赦なくひっぱって後ろに突き飛ばし、堂島さんは久実さんの前に立った。
「怪我はないですか。気分はわるないですか。ったく、こんな時に寝ぼけた口ききおってダボが。申し訳ない」
 久実さんは泣きも笑いもせず、静かに首を傾けた。
「大丈夫です」
 それから、ぷいと庭に出ていってしまったキアの背中を見送り、僕の顔を見て、小さな声でつけたした。
「からかわれたんと、心配されたんの違いくらい、わかります」
 僕は黙って突っ立っていることしかできなかった。
 久実さんに伝えたいことは山ほどあったのだが、堂島さんがこれ以上余計なことを言うな、するな、と目の色で無言の圧力をかけてきた。
 前庭がざわざわと騒々しくなっていた。外に残した連中が反撃に来るのかと思ったが、そうではなかったようだ。縁側に出てみると、もといた連中の倍ほどの人数の新顔が現れて、ぐるりと包囲網を敷いていた。現役の漁師さん達のようだ。日焼けしたたくましい身体は不摂生なチンピラ共とは比べようもない。
 そのなかから、おなじみの金髪が一歩前に出て、僕に向かって親指を立ててみせた。
 堂島さんは携帯で仕事仲間を呼び出していた。
「……なに?船場は鳥居町にでばっとる?今晩はマル暴は総出やったんか。かめへん。お前と瓜破だけで黙ってこっち来い。うちの当直にも声かけて合流さす。現行犯や。賭博と、銃刀法と、傷害未遂と、児童虐待と、ええと……」
 久実さんが畳に散らばった麻雀牌を踏んで、転がっていたボストンバッグを拾い上げ、中からホットケーキミックスの小袋のようなものを取り出してみせた。
「クスリや。たぶん」
 携帯を畳んだ堂島さんは、座敷に並んだ四人の負傷者の目の前でキアの木刀を拾い上げ、ぶん、と振り下ろした。刺さっていたナイフが抜け落ちて縁側に転がった。
 遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。

2007/08/21 Tue. 04:30


 県警本部の一室で、僕はスチールの事務机につっぷしてうとうとしていた。
 パトカーに乗せられた時からキアや久実さんとはばらばらで、ひと通り調書をとられたあとは、この部屋にほったらかしにされたまま数時間が経過していた。
 誰かが入室してくる気配にはっとして顔をあげた。僕の親権者で、キアの身元保証人だった。父さんは職場のデスクにつくのと同じくらい無造作に、僕の真向かいのパイプ椅子をひいて腰をおろした。
「堂島さんと話をして、滋くんに会わせてもらってきたよ」
「あいつは悪くないんだ」
 口元のよだれを拭いて上体を起こそうとしたとたん、膝がかくっと折れてこけそうになった。
「目撃者として事情を聞かれていただけだと思ったがね。違うのかな」
 父さんは平然と問い返した。
「では、きみから見た状況の説明と、あれば釈明をしてもらおうか」
 僕は椅子に座り直して唇をなめた。
「二人で海に遊びに行って、妙なおじさん達のたむろってる家を見かけて、冗談で盗聴ごっこしてたら女の子の声が聞こえたんでびっくりして。男の人たちに囲まれて乱暴されそうになったんで堂島さんに電話して助けてもらいました」
 さっき刑事さん達に説明したとおりの内容だった。しかし、父さんの沈黙は僕の説明がでっちあげだと見透かしていることの証明だった。
 視線をあわせていられなかったことで、後ろめたい気まずさを認めてしまった。観念してさらに頭をさげた。
「弁解はしません。軽率だったと反省してます」
「何を一番に反省するのかね」
 うなだれたまま、蚊の鳴くような声で応えた。
「滋をまきこんで、危ない目にあわせました。滋は僕を止めたんです。僕が悪いんです」
「二人とも怪我しなかったのは幸いだよ。運が良かっただけのようだがね」
「……」
「滋くんのことは今回は堂島さんに任せようと思う。きみの反省心についてだが、私にもわかるように行動でしめしてもらおうかね。いい提案はあるかな」

 短い夏の夜がしらじらと明け始めた頃、僕は父さんの車で家に帰った。
 母さんは寝室から顔も見せなかった。警察からの連絡を聞いて脳貧血をおこしたまま、起きあがる気力も失せていたらしい、とはあとになって勇から聞いた。
 布団の中からゴシップ速報系ブログにアクセスした。昨夜かなり大がかりな暴力団摘発作戦を県警が展開したが、成果がほとんどなかったことが載っていた。
 作戦の根拠となったのは組幹部が関与する大きな動きがあることを匂わせる複数のネット情報だったようだ。記事はその「根拠はあいまいだが、いかにもありそうな動きのネタ」について、当局の検証が甘かったのではないかというニュアンスで書かれていた。
 手ぶらで帰還する途中、別行動をとった小班が違法賭博の現場を押さえて関係者を逮捕したことは、朝刊の社会面に小さく掲載されていた。記者が現場に出向いて書いた記事ではなさそうだった。自宅から保護された女の子のことはどこにも載っていなかった。
 ほとんど休む時間をとれないまま朝が来て、まったく準備のできていない実力テストを受ける羽目になった。
 帰宅したあとはそのままベッドにぶっ倒れて十八時間眠りこけた。

2007/08/22 Wed.


 朝刊によれば、昨日、市内の特養で利用者が集団無断外出し、市庁舎の相談窓口に押しかける事件があったという。
 施設の名称は載っていなかったが、行動を起こしたお年寄りが市の職員の質問に応えて施設の処遇の悪さを堂々と訴え、連れ戻しに来た送迎バスに、にこやかに手を振って乗り込むようすはTVでも報道された。
 あとで実行者ほとんど全員が施設併設の診療所で認知症と診断されていたことがわかり、TV局はあわてて個人名と肖像の報道に自主規制をかけた。
 七階の特別室の利用者については何の言及もなかった。
 実力テストが終わった放課後、僕は長田と二人だけの理科部生物班で文化祭の打ち合わせを始めた。
 「松林の虫害と野鳥の関係」というテーマだけは決まった。
 帰宅後は勇の宿題の総仕上げを手伝っただけで一日が終わってしまった。

2007/08/23 Thu.


 通常通りの授業が始まり、通常通りの生活が戻ってきた。
 帰宅時間は七時を過ぎる。夕食後の皿洗いは毎晩続けている。
 警察からは「追って事情を聞く日を知らせる」と言われたまま、何の連絡もない。
 僕が天然記念物カードに書いて知らせたメアドあてに、京橋から連絡がはいった。北野家には大人の男はひとりもいなくなったが、智実さんはまったく生活パターンを崩さずに妹弟たちの世話を続けているそうだ。
 性格は違っても、彼女もやっぱり清子さんの孫娘だった。
 久しぶりに蜘蛛類学会のサイトを見に行ったら、「サーバがクラッシュしたのでIDを再登録して欲しい」と表示された。ログインせずに、ブックマークを消去した。

2007/08/24 Fri.


 警察に押収されていた音響機器が返却されてきた。
 機器自体に違法性はなかったとのこと。これで長田には迷惑をかけずにすみそうだ。
 キアの改造木刀のことも気になったが、堂島さんとは連絡がとれなかった。拳銃やナイフと同じ人たちの持ち物として処理されてしまったのかもしれないし、堂島さんが自分の持ち物だと言い張ったのかもしれない。

2007/08/25 Sat.


 僕の高校は、土曜日も自主学習と称して半日登校を推奨している。
 午後は勇と母さんにつきあって、JR駅前でユニセフの街頭募金に立った。浜町の人たちが頻繁に利用する駅だが、見知った顔は確認できなかった。終了してみると、小銭にまじって、いつのまにか二千円札が一枚放り込まれていた。


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