第四章 羽化 (1)
2007/08/16 Thu.
加茂川忠から二通目の葉書が届いた。僕は夕食の片づけを手伝ったあと、リビングのテーブルでしげしげとその内容を見ていた。
セミ達の行動は、盆休みも関係なく通常通りだったようだ。もちろん、本物のセミの記録ではない。地区の交番から浜町へパトロールに来る警察官をチェックしてもらっていたのだ。
北野家の座敷にあがりこんでいた警察官は喜連という巡査長だった。忠の記録ではアブラゼミだ。三交代シフトのローテーションはとてもわかりやすいパターンになっていた。予想がつきやすくなくては困る人がいるんだろう。たぶん。
アブラゼミは今晩が深夜勤だった。北野家で何かが起きていて、警察官が見てないふりをしているとしたら、それはきっと今日の夜半のはずだ。
顔をあげて、向かい側の席をちらりと見た。母さんが食後のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。パートの勤務先で何かあったらしく、夕食の支度をしている時から、ぶすっとした顔をしていた。
今も機嫌はなおっていないようだ。眉毛の端がひくひくと上下していた。
母さんの理性には、リミットセッティングの解除コードがいくつかあるのだけど、そのうちでも特に危険なのが「理不尽」というキーワードだ。僕が先に読んだ今日の新聞には、歩道橋事故の公判の記事、ひったくり犯を追いかけて逆に刺された大学生の記事、電車の中で痴漢にあって大声をあげたのに、誰にも助けてもらえなかったOLの記事が載っていた。
こういう時には他の家族はそっと各自の部屋にひっこんで、地雷を踏まないように静かにしている。定石通りに退室しようとした僕に、母さんが声をかけた。
「聡」
「何?」
「わかってると思うけど、晩ご飯が済んでからは遠出はせんといてよ」
「なんで今さら?滋のとこに泊まった以外、そんなこと、したことないだろ」
平静を装って返事したけど、頭の中では、なんなんだこの勘の良さは、と呆れていた。
「この辺も昔ほど治安がいいわけやないからね。塾帰りの女子中学生を追いまわす変な人もいるらしいし」
「……」
なんでもない顔をつくって黙って立っているのが精一杯だった。
「ともかく、夜はおとなしく家にいてちょうだい。いいわね」
自室に戻って頭をがしがしとかいた。
こう見えても、僕は今までわざと両親の言いつけを破ったことはないつもりだ。しかし、今回ばかりは迷った。
もう八月も後半にはいってしまった。アブラゼミの次の深夜勤は二十日。うちの高校の始業日だ。授業が始まってしまっては、身動きがとれなくなる。
たぶん、今夜を逃せば北野家の夜の秘密をさぐりに行くチャンスはない。英語の宿題を片づけながら、頭の隅で悩み続けた。
午前〇時。
シャーペンを置いた時、脳裏をよぎったのは、西日ににじんだ堀川さんの横顔だった。行動しなかったことを悔やむより、動いてしまったことの責めを負うほうがいい。
家族が寝静まっているのを確かめ、僕はベランダからロープを垂らして外へ出た。
2007/08/17 Fri. 00:30
北野朝一、昼二の兄弟は久実さんを利用して良からぬ連中と取引をしている。
母屋の座敷の八百長碁を見た時から考えていた。巡査長が賭け碁に食いつくように、勝敗を適当に調節するには相当な棋力が必要だ。それはおそらく、久実さんが父親に指示を出すことで成り立っているのではないか、と。
囲碁はオープンでフェアな競技だけど、岡目八目と言われるとおり、観戦者のほうが形勢を判断しやすい。それ以外でも、隠された手を頭上から盗み見する目があれば、たいていの賭博でズルをすることができるはずだ。始めは親子の連絡のためだった手だてが、いかさま賭博の道具となって、そこにもっと危ない連中が引き寄せられたとしたら……
ススキの茂みから匍匐前進して北野家に接近した僕は、昼間の閑静な佇まいとはうってかわった喧噪に仰天した。母屋の座敷は襖を閉め切ってエアコン冷房をかけているようだった。それでもプラスチックだか象牙だかの小片がぶつかりあうジャラジャラという音、男達の笑い声や叫び声は、あたりをはばからずに鳴り響いていた。
麻雀だとは思わなかった。
「仮説の修整がいるかな……」
清子さんは朝一が音響エンジニア崩れだと話していた。母屋の座敷を見た時の違和感は、天井の点々模様だった。クモの子ではなく、音楽室のように小さな穴が開けられていたのだ。
朝一の持っていた扇子の骨が、規格はずれに大型なのも気になっていた。あれが骨伝導型のアンプ兼レシーバーであれば、額や頬骨にあてただけで天井裏の久実さんとコミュニケートできるだろうというのが僕の考えだった。しかし、この大騒音のなかでどうやって女の子のささやきが聞きわけられると言うんだ。
音声でなければ電磁波か?念のため持参したポケットサイズの電波探知機を操作してみた。国道を走るタクシーの無線はかすかに拾えたが、目の前の家屋からは何の発信もなかった。時折まじる雑音は携帯電話のデジタル通信だろう。
前庭には目つきの悪い若い男達が何人か、うろうろと歩きまわっていた。危険だとは思ったが、もう少しだけ前進してみたかった。腹這いの姿勢から身体を起こそうとしたとたん、誰かにのしかかられて、いきなり口を塞がれた。
次の瞬間、ほんの数メートル離れたところから鋭い声がした。
「誰や、そこにおんのは?」
僕にできたのは、目を動かすことだけだった。手足は上からきっちり固定され、まったく身動きがとれなかった。
パニくって暴れ出したりしないですんだのは、僕を羽交い締めにした相手の汗のにおいにしっかり覚えがあったからだ。そいつは、さっきから呼吸を止めて死んだようにじっとしていた。
声のしたところから近づきかけた人影は、ススキをかきわけようとして葉っぱで手を擦ったようだった。しばらくうろうろしていたが、やがて舌打ちして遠ざかっていく足音が聞こえた。
たっぷり三分経過して、ようやく口を塞いだ手が離れた。
「キア……」
「あほが。自分のやっとうこと、わかっとんのか」
キアはかすれ声でささやいて、押さえつけていた僕の腕を逆手にとった。
「痛いよ」
「黙ってついてきたら痛ぅないわ。とっとと歩け」
茂みから後ろの草っぱらへ引きずり出され、そのままぐいぐいひっぱられてつんのめりそうになったが、まったく手加減してもらえなかった。焦って小走りになったとたん、今度は急に立ち止まったキアの背中にぶつかった。
僕らの真正面にでかい男が立ちはだかっていた。見覚えのある金髪。疑念を浮かべた目。
京橋だ。
キアは僕の腕を離してゆるりと立った。無言、無表情、無防備な姿勢で。その胸ぐらを京橋がつかんでねじりあげた。僕は思わず声をあげそうになって必死でこらえた。
キアは半眼で男を見据えたまま、ぴくりとも動かない。何時間にも感じられる数十秒間がたって、京橋はようやく手を離し、キアの肩を突き飛ばして歩み去った。口汚い罵り言葉らしきものが聞こえたが、意味を推し量ってみる気もしなかった。
「……行こか」
「……ひょっとして、危ないとこだった?」
「あいつは堅気やて言うたやろ。ここのようすが気に入らんから、うろうろと機会をうかがっとう。あの家におる連中の同類や思われとんのは……俺のほうや」
口の片端がついと持ちあがったが、目は全然笑っていなかった。
「タチの悪いつきあいにはまったトーシロを助けてやったもんかシカトしたもんか、迷いよったみたいやな」
「トーシロって……僕?」
ちょっとむっとしたので、こちらの口調も険しくなった。
「北野の連中の仲間じゃないって保証できるのか?」
「見慣れりゃ区別はつく。暴力でかたをつけるのが平気になったやつは背骨のタガがゆるんでくる」
闇夜の向こうの小さな灯火をちらりと見やった。
「生き方が雑になる」
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