プロローグ :第一章 孵化 :第二章 脱皮 :第三章 蛹化 :第四章 羽化 :エピローグ :

第三章 蛹化 (8)

前へ 次へ

2007/08/14 Wed. 18:00(承前)


 腰を浮かししかけたところにだめ押しされた。
「席を動かないでください。私のバッグをひったくって逃げようとか考えないでね。身分証明書は、さっき写メして私の家のパソコンに送っちゃいましたからね」
 これではまるで容疑者扱いだ。無性に腹が立ってきた。椅子に座り直して足を組む。
「逃げも隠れもしませんよ。たいした接待だけど、いったい僕から何を聞き出したいんです?」
「久実を追っかけている本当の理由。あなたを動かしている人が誰なのか」
「僕は誰の命令も依頼も受けていません。久実さんの心配をしているだけです」
「どうやって信じろというんですか。あなた北野にも浜にも何の関係もないっていうけど、それじゃあ何の得もないじゃない」
「損得の話じゃないですよ。わからない人だな」
「わからないのは烏丸さんですよ。いったい何考えてるの?」
「堀川さんこそ、よく知らない男相手になんでこんな危ない態度をとるんですか。怪我でもさせられたら、あとで訴えたって取り返しがつかないでしょう」
 堀川さんが沈黙した。太陽が少しだけかげって、その顔が見えるようになった。精一杯厳しい態度をつくっているけど、やっぱり中学生の女の子だった。
 組んでいた足をおろして、声のトーンをさげた。
「最初からお話ししますよ」
 僕は話した。
 友達の部屋でみつけたクモのこと。他にも糸をつけられたクモが何匹もみつかったこと。そこから浜町と北野家にたどりついたこと。浜町で出会った人たちや、北野家の人たちのこと。北野清子さんのことも、会って話をしたところまでは伝えた。
 堀川さんは黙って聞いていた。僕が話を終えたあとも、しばらくは何かをかみしめるように黙っていた。
「こんなに短い間に、烏丸さんは私よりずっとたくさんのことを調べちゃったんですね」
 堀川さんの声に自責の念を聞き取って、あわててフォローした。
「でも、僕にはまだ自信がないんです。久実さんがこの状況にはまりこんでしまったのはなぜなのか。今、本当に出てきたいと思っているのか」
 うつむいて口をへの字に曲げた堀川さんの顔を、そっとのぞきこんでささやいた。
「僕は久実さんには会ったこともない。久実さんのこと、一番よく知ってるのは、堀川さんでしょう」
 堀川さんがつぶやいた。
「久実は澄実さんにいじめられて怪我したんじゃありません」
 僕は黙って目を見開いた。
「澄実さんのことライバルだとも思ってませんでした。自分が負かされている、ばかにされている、と勝手に思い込んだのは澄実さんです。久実が相手にしなかったせいで、澄実さんもひくにひけなくなっちゃったんです。でも、まわりの子達はいいかげん澄実さんにつきあうのに嫌気がさしてきていて……宿泊体験中にフクロにしてやろうって計画がたった時、ターゲットは澄実さんでした。久実はそのことを知って、止めにはいったんです」
「京橋や玉造は……」
「京橋くんは澄実さんをとっちめる計画の言い出しっぺのひとりでした。久実に嫌がらせをするのに飽き飽きしてたんです。玉造くんは、絶対秘密をもらすからって、仲間にいれてもらえなかったみたい」
「ボランティアの学生さんは……」
「事故が起きてしまうまで気がついてませんでした。あとで警察にいろいろ聞かれて、いやな思いをされたと思います」
 その気持ちはあなたを含む子供達も同じだったんでしょう。そう口に出しては聞けなかった。
「うちのママは、お葬式からずっと続いたごたごたで、すっかり浜町が嫌いになってしまいました。パパを説得して、ママのお祖母ちゃんのうちに引っ越しちゃったんです。怪我が治って退院した時、北野のお祖母ちゃんは久実を中津の叔母ちゃんの家に預けました。浜小にはもう通いたくないだろうって思ったんでしょうね。東野小に転校してからも、久実は登校しませんでしたけど」
「まだ元気になっていなかったのかな」
「ひとりになって考えたいことが山ほどあるんだって言ってました。学校は休んじゃいけない、友達みんなと仲良くしなきゃいけない、他の人と違うことをしちゃいけない。そんなこと大人に言われ続けたせいで、こんなことになっちゃったんじゃないか。なんて、言ってたこともありました」
「ずっと久実さんに会って話をしていたんですね」
「叔母ちゃんと住んでた時までです。叔母ちゃんとママはぎすぎすしてたけど、久実が私に会いたがってたから、叔母ちゃんも私だけは家にあげてくれました」
「それじゃあ、北野の家に戻ってしまったのは……」
「叔母ちゃんは、北野のお祖母ちゃんが中学校に行かせようとして、無理矢理連れ去ったんだと思い込んでました。このまま東野に置いたら、ますます引きこもりが長びくと思われたんだって。でも、私は違うと思います」
 堀川さんの目が潤んだ。
「東野に居座り続けたら、ママと叔母ちゃんがうまくいかなくなる、そのせいで私に迷惑がかかる。叔母ちゃんと北野のお祖母ちゃんも仲直りできない。そんなこと考えていたんじゃないかって。私には、そんなことひとことも言わなかったけど。宿泊体験の時だって、私には何も……」
 僕は静かに頷いた。
「なんてことないおしゃべりならできるのに、肝心なことはなかなか相談してくれない。自分は他の人より強いと勘違いしてるから、黙って重荷を引き受けてしまって、それでかまわないと思ってる。友達が心配しているのにも気がつかないで」
 堀川さんは眼鏡をはずして目をこすりながら僕の顔を見上げた。
「よくわかりますね」
「僕の友達が……北野のお祖母ちゃんに会った時の話を思い出しました。お孫さんとよく似てるみたいですね」
 堀川さんはテーブルに置かれた紙ナプキンを一枚とって、目頭にあてた。
 僕はポケットからひっぱりだしたハンカチを渡し損ねて、テーブルの下で握りしめた。
「久実はバドミントンがうまかったから、総体や対外試合に出るたびに、選手名簿とか見てきたけど、どこにもみつかりませんでした」
「久実さんをさがすために、バドミントン部にはいったの?」
「東野中は全員、運動部にはいらないとあかんのですよ。今週末の試合で引退ですけど、私、やっぱり運動音痴ですわ。最後まで補欠です」
 ちょっと笑ってくれたので胸をなでおろした。
「この辺で寮のある中学いうたら生田女子くらいでしょう。そこの子らに聞いたら、ひとりだけ覚えてて教えてくれました。入学式に新入生の名前を呼ばれたけど、ひとりだけ出席してなかった、それが北野やったと思う、て。それで生田の先生にも聞いてみたら、入学式以来全然出てこないまま退学した、もう地元の公立にもどったんやないかって言われました」
「でも、浜中にも東野中にも入学してないんですね」
「私も迷ってたんです。久実がまだ学校に行きたくない思ぅてるんやったら、そっとしといたげたほうがええんやろか、とか」
「たとえ登校はいやでも、堀川さんには連絡をくれたはずでしょう。どこかで事態は久実さんが思っていたのと違ってきてしまったんだと思います」
 堀川さんは手にした紙ナプキンで鼻をかんだ。視線を落とすと、目の前のテーブルの上を小さな赤い点が這い回っていた。
 ハダニだ。表のオオアワダチソウの茂みから迷い込んできたのか。ハンカチの端でそっとすくいとって、床と壁の隙間に逃がしてやった。
「ムシの好きな人は……」
 急に言われてどきっとしたが、堀川さんはまるめた紙ナプキンを見ていた。ハダニに気づかれたわけではなさそうだった。
「子供の頃、寂しい思いをしたことがあるんだって。どこかの本で読みました。久実は、小さな命を大事にする子でした」
 まんまるい小さな手が僕の生徒手帳を取り出した。メモのページをあけて、まんまるい、ていねいな字で一連の英数字を書き込んだ。
「私の携帯番号とメアドです。お役に立てることがあったら、知らせてください」
「僕の連絡先は……もう手元に保存してるんですよね」
「ごめんなさい。さっきのは、はったりです」
 堀川さんの頬が赤くなった。
「写メなんてしている暇、本当はなかったんです」
 返してもらった手帳の次のページを破りとって自分の番号を書いた。クモの赤い糸を挟んだカードケースと一緒に手渡した。
「嘘はできるだけつかないほうがいいですよ。本気で戦う時には、本気で手だてをしておきなさい」
 それから堀川さんを安心させるように明るい顔をしてみせた。
「なんとかして、久実さんに知らせます。堀川さんがずっと心配していたよって」
 レジの前で財布を出そうとすると、店番のおばさんが、いらないよ、と笑って手を振った。たぶん、話の中身までは聞こえていなかったと思う。申し訳なかったが、ここは堀川さんのフィールドだ。
「おばちゃん。今日のことママには……」
「言わへんよ。まっすぐ帰りとうない時はいつでもおいで。おにいちゃんも、また来たってね。めったに友達呼ばん子やから」

2007/08/14 Wed. 19:30


 家に帰り着いた時にはもうあたりは暗くなっていた。
 玄関を通った時に母さんが台所から声をかけたようだったが、上の空で返事して自室にあがり、ベッドに腰をおろして深いため息をついた。
 ようやく、チイちゃんの伝言をきちんと受けとって、ふさわしい人に伝えることができた。そう思うと、初めのうちは満足感で胸の奥が暖かくなった。けど、しばらくすると、何かが足りない気がしはじめた。胸を暖めてくれていた熾火がだんだん冷めていくような感じだった。
 キアは今晩まで社長さんの家にいる。商売用の電話に気安くかけるわけにはいかない。
 ぐだぐだと布団カバーの縫い目の綿ぼこりをむしっているうちに、堀川さんの携帯番号を登録しておかなければ、と思いついた。チノパンのポケットから生徒手帳を抜き出し、開いたとたんに、ふわりと柔らかい匂いがたちのぼった。
「……おわ……」
 あわてて手帳の上に布団をかぶせて両手で押さえ込み、肌まで熱っぽくなった身体をこわばらせた。部屋のドアを閉めていないことに気がつき、どうか誰も入ってきませんようにと念じながら目をつぶってじっとしていた。
 隣の部屋まで聞こえるんじゃないかと心配なほどどきどきしていた心臓をなんとか落ち着かせて、ひと息ついたところで恐る恐る布団を持ち上げた。
 もう一度手にとった手帳に、ほのかな移り香は残っていなかった。未練たらしく鼻を近づけてみたが無駄だった。ほっとしたはずなのに、なんだか残念な気もした。
 今日の僕はどこかのネジがはずれちゃっている。番号とアドレスを携帯に登録したあと、そのページを切り取って細かくちぎろうとし……思い直してデスクの引き出しにしまいこんだ。


前へ 次へ
第三章 蛹化 (1) に戻る