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第三章 蛹化 (7)

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2007/08/14 Wed. 17:30


 いつもより念入りに髭を剃り、短い髪に手櫛を通してなでつけた。洗面所の鏡とにらめっこしていると、背後で勇がにやにや笑っているのが映った。
「お兄ちゃん、デートォ?」
 こういう時だけ鼻が利くんだから。チノパンを履いた足を交差させて振り返り、ちょいと格子柄の綿シャツの襟をひっぱってみせる。
「どう?いけてる?」
「んー、六十五点。素材は悪くないのに、ビミョーにはずしてるんだよねぇ」
「センスが古いって言いたいんだろ。どうせ」
「あと、変ったムシをみつけても素手でさわっちゃだめだよぉ。まぁ、がんばってねぇ」
「はいよ」
 妹の評価が女の子の標準じゃないさ、と自分に言い聞かせて家を出た。

 国道沿いの進学塾の前に駐輪して、講義の終了を待った。ビルから出てきた堀川さんの今日のスタイルは、フレンチスリーブのカットソーにタイトフィットのジーンズだった。バドミントンのユニフォームよりはすっきりときれいに見えた。
 僕の顔は覚えていてくれたらしい。ちょっといやそうな表情をされた。かまわず、深々と頭をさげた。
「先日は失礼しました」
「やめてください。見られてますよ」
「今日はちゃんと、恥ずかしくない格好で来ました」
「困るんです。私、受験生なのに」
「お願いします。お時間はとりませんから、用件くらいは聞いてください」
 もう一度頭をさげた。うんと言ってもらえるまでは、土下座してでも食い下がるつもりだった。人目につくのを嫌ったのだろう。堀川さんは仕方なく、MTBを押す僕と並んで歩き出した。
「僕はこういう者です」
 生徒手帳の身分証ページを開いて手渡した。堀川さんはそこに貼られた写真と僕の顔を見比べて、説明を求めるように首をかしげた。
「預かっといてください。僕の態度が失礼だとか、いやなこと言われたとか思ったら、それ持って先生に言いつけてもいいし、警察に行ってもいいから」
「思いきったことしはりますね」
 ぽっちゃりとしたかわいい指が手帳を畳み、一瞬、躊躇してからトートバッグの内ポケットにしまいこんだ。
「私がこれを悪いことに使ったらどうするの?」
「そんなことする人じゃないと思うけど、見込み違いだったらその時は天罰だとあきらめます」
「クカタチですか。ちょっと大げさですね」
 やっと少しだけ微笑んでくれた。さらりと小難しい言葉を使って、きどりも気負いも感じさせない自然さだった。
「真剣なんだと知って欲しいだけです。すぐには信用してもらえないこともわかってますが」
「お話を聞いて、私が『病院に行きなさい』って言ったら、どうされますか?」
「いいお医者さんをご存じなら、教えといてください」
 国道の歩道沿いにだらだらと西へ向かっていた。堀川さんが黙ってしまったので、言葉をついだ。
「ある人の命……までいかなくても、人生の半分くらいはかかってるかもしれません」
「私の知ってる人?」
「たぶん」
「名前聞いてもいい?」
「……クミさん」
 堀川さんがため息をついた。あまり驚いたようには見えなかった。
「どうせ長くなるんでしょ。座れるとこに行きましょう」

2007/08/14 Wed. 18:00


 堀川さんは、僕を少し先の小さな店に案内した。
 一階が駐車場で、二階が喫茶店。見かけは最近増えてきた個人向け貸し倉庫そっくりだ。駐車場の裏にはオオアワダチソウが密集して咲き誇っていた。階段をあがってフローリングの店内にはいる。椅子もテーブルも低めなので広々と明るく見通しがよい。壁際にはきれいな装丁の詩集だの写真集だのが手に取れるように飾られていた。
 コンセプトはわかるが、立地条件に合っていない。国道を挟んで向かいは重機工場だ。客がまばらなのも仕方ないだろう。
 堀川さんは店番の女性とは顔なじみらしく、軽く手をあげて隅の席に向かった。注文したコーヒーと抹茶ミルクが運ばれてくるまで、二人とも黙ってカーテンが半開きになった窓の外を見ていた。恐竜みたいに巨大なトレーラーが、これまた巨大なタイヤを積んでごろごろと出てくるところだった。
 けっこうな騒音なので、僕らの声は隣の席までも聞こえそうにない。二階なので窓の外から覗かれる心配はないし、店の人が皿洗いをしているキッチンからは丸見えなので、その気があったとしても悪さのしようもない。なかなか、うまい場所選びだ。
 抹茶ミルクにちょっとだけ口をつけて、堀川さんがきりだした。
「日が暮れる前には帰りたいから、さっさと始めましょう」
 見かけよりはてきぱきした人だ。
「ちょっとしたご縁があって、北野久実さんのことを知りました。お家のこと、ご姉妹のこと、学校のこと。いろいろな人にお話を聞いてまわっているうちに、久実さんが今、困った状況にいて、誰かに助けてもらいたいと思っておられる、そんなふうに考えるようになりました」
「烏丸さんは、久実に直接会ったことがあるんですか?」
「……いいえ」
「私が久実と知り合いだって、誰に聞いたの?」
 僕は慎重に言葉を選んだ。
「小学校時代の写真を拝見する機会があったので」
「ずいぶん熱心に調べはったんですね」
 とげのある口ぶりに、黙って唇を噛んだ。
「久実のママのお墓で中津の叔母ちゃんに会ったのは、烏丸さんですか」
「……はい……。お知り合いでしたか」
「叔母ちゃんから、うちのママに電話がありました。お墓を教えたのはママかって。叔母ちゃん、今でも思ってるみたい。ママは私と久実を同じ中学に行かせたくなくて、北野のお祖母ちゃんを後押ししたんやろって」
 両膝をつかんだ手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
「手段はまちがっていたかもしれません。いろんな人に迷惑をかけてしまいました。謝ります。けど……」
「久実のことに、どうしてそんなに興味を持ったんですか?」
 たたみかけるように厳しい質問がとんでくる。
 情報をもらうどころか、僕のほうが尋問されているようだ。
「最初に謎解きの問題をくれたのは、たぶん久実さんです。答えをみつけようと夢中になっているうちに、大変なことにまきこまれてしまった、と気がつきました」
「ゲームのつもりやったんなら、おもしろくなくなった時にやめればいいやない。わけわからへんわ」
 冗談めかした口ぶりにかちんときて、顔をあげた。ほとんど同時に堀川さんが窓のカーテンをさっと全部引き開けた。
 夏の西日が差し込んでまっすぐ僕の目にあたった。一瞬、何も見えなくなって、反射的に片手をあげてさえぎった。堀川さんの顔は逆光に沈んで見分けられなくなっていた。


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