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第四章 羽化 (2)

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2007/08/17 Fri. 01:30


 国道沿いの電柱につないだMTBにたどりつくまで、キアは不機嫌そうに黙りこくっていた。僕も敢えて口をきかなかった。
 気まずい雰囲気のなか、MTBの前で立ち止まった僕に、キアは腕組みをして厳しい声をかけた。
「帰れ。ご両親と勇ちゃんが待っとう」
「母さんに頼まれて来たのか」
「お前が黙って家を抜け出したりするからや。ピンク電を取ってくれた長池さんにまで迷惑かけてんぞ」
「そんなに心配しなくたって、もうちょっとしたら帰ったのに……」
 ひゅっと風を切ってとんできた拳が、僕の目の前で静止した。キアの目に氷のような怒りが燃えていた。僕はしぶしぶMTBを押して家へ向かって歩き出した。
 午前二時をまわっているのに、国道は長距離輸送のトレーラーや夜行バスでけっこう混み合っていた。キアは僕を監視するように後ろについて歩いた。僕は背を向けたまま、独り言のように言った。
「今夜のあの家は治外法権だったんだ」
 キアもそっぽを向いて、独り言のように言った。
「始めは漁師仲間の遊びやったやろに、あほが目端効かしたつもりでイカサマなんか始めるから、いらんもんを呼び寄せてもうた」
「ローチスポット……ゴキが集まればクモが呼び寄せられる。クモを喰いに来るのはネコかイタチか……」
「その喩えは生き物に失礼や」
 最近めっきり数の減った公衆電話ボックスをみつけて、キアは何ヶ所かに電話をかけた。ボックスを出てきたところで僕と目があい、にらみあうようなかたちになった。
「探偵ごっこは終わりや。あの家はヤバすぎる」
「そのヤバい藪を、僕らはつついてしまった。もう既に久実さんを余計に危険な立場に追いつめてしまっている」
「この先は大人にまかせろ」
「物証がない。クモの与太話だけじゃ、警察は動かないよ」
「俺が船場の野郎に頭さげて説明する」
「あの人が、いるかいないかもはっきりしない子供の安全を第一に配慮してくれると思うか?」
「児童相談所に虐待通告しておく」
「丸腰のワーカーさんだけで調査に行かせるのか?半端に手を入れたら久実さんの身が危なくなるだけだ」
「ともかく、お前はもう動くな」
「本気で信用しちゃいないくせに。警察も、児相も」
「税金払っとう分は仕事してもらうさ」
 涙がにじみそうになって、きつく目を閉じた。
「ラス……聡……」
 目を開けた時にも、キアは表情を変えていなかった。右手で左肩を押さえていることに、自分では気づいていないようだった。
「お前に、何かあったら……」
 一瞬、言いよどむ。
「……親御さんが泣くやろ」
「久実さんにも、何かあったら、泣く人がいる。僕らはもう知っている。知らなかった時には戻れない」
「本気でどないかできる思ぅとんか」
「証拠が欲しい。あと一回だけだ。試させてくれ。それでうまくいかなけりゃ、言うとおりにするよ」
「その一回でドツボふむなよ。絶対ひとりでは動くな」
「準備がいるから。決行する時はちゃんと知らせる。協力してくれ」
 キアはしぶしぶ頷いた。

 家の玄関の中までついてきて、キアは僕の両親に頭をさげた。
「大事な息子さんを連れまわしてすみませんでした」
 母さんは、
「今夜は聡が勝手にほっつき歩いてたんでしょ。よう探し出してくれたわ」
 と言って、腕を組んだ。最上の微笑みを浮かべていることで、猛烈に腹をたてていることがわかった。
「あとは私がちゃあんと面倒みてあげるから、まかせときなさい」
 父さんは、普段と変わらぬ落ち着いた顔で僕らを見比べていたが、キアが出ていこうとした時に、初めて口をひらいた。
「私らは、滋くんのことも大事な息子だと思っているよ」
 玄関ドアにかけたキアの手が止まった。
「ご両親を差し置いて厚かましく意見するつもりはないが、もう少し、きみの心配もさせてくれてもいいんじゃないかな」
「……もう、じゅうぶんしてもうてます」
 キアはもう一度、頭をさげて、あとは何も言わずに出ていった。
 胸がずきんと痛んだ。さっきかわした約束を守るなら、あいつは僕の両親にもう一度謝らなければならなくなってしまうだろう。
 母さんはくどくど説教するタイプではない。反省の言葉なんか、僕なら簡単に作文してしまうこともご承知だ。その夜は携帯をとりあげられて、まっすぐベッドに追い立てられた。

2007/08/17 Fri. 05:30


 翌朝はいつもより一時間早くたたき起こされて家族全員分の洗濯を命じられた。シャツの干しかたに散々文句を言われ、時間ぎりぎりで補講に追い出された。
 教室ではひたすら睡眠不足の解消に努めた。
 帰宅すると、今度は台所の換気扇とガスレンジまわりを徹底的に掃除させられた。態度が悪いとノルマを上乗せされるだけだとわかっていたから、ともかく低姿勢に徹して粛々と作業にいそしんだ。
 二時間後、やっと解放されて自分の部屋に戻った。
 案の定、PCからは無線LANアダプタが撤去されていた。
 母さんが台所にいることをそっと確かめ、PCの音声出力端子にヘッドフォンをつないで起動した。通学鞄の隠しポケットからは同級生のPHSをこっそり取り出した。旧機種だが最低限のネット機能はついている。宿題の答えと交換に一晩だけ貸してもらった。
 まずは本体メモリのバックアップをコピーしてからマイクロSDを抜いた。PCのアドレスブックは普段から携帯と同期してある。そこからクラブの友人の自宅番号を検索し、慎重にプッシュした。
 長い長い呼び出し音のあとで、PHSは固定電話と通話がつながったことを表示した。
「……」
 誰かが受話器を持っている気配はするのだが、ひとこともしゃべってこない。
「長田だね。生物班の烏丸だよ」
「レイヴン……」
 長田は相手が僕だとわかってほっとしたようで、ようやく声を出してくれた。
「鳥、見に行く?」
「ごめんな。今はバードウォッチングにつきあえる状況じゃないんだ。逆に、つきあわせる話で悪いんだけど、きみらが野鳥の声の録音に使っている装置があるだろ。どこで手にはいるか、ちょっと教えて欲しいんだ」
 思い描いていた機能とそのために必要と思われる仕様を手短かに説明した。
「特注か、改造がいる。たぶん、操作にも説明がいる。レイヴンが必要なら、店までつきあうよ。でも……」
「遠いのかい?電車、苦手だったね。学校から一緒に乗っていこう」
「……助かる」
「用が済んだら装置はまとめて理科部に寄付するから」
「ありがと」
「こっちこそ。助かるよ」
 始業日の放課後に出かけることを決めて、携帯を切ろうとしたところで、
「ハリアーは元気?」
 唐突に聞かれて、一瞬とまどった。
「ハリアー……チュウヒか。元気だ。相変わらずだよ」
「……そう」
 数秒の余韻を残して通話は切られた。
 教室では、いるのかいないのかわからないほど内気で、慣れないと何をしゃべっているのかも理解されない長田だが、去年何度か会っただけのあいつのことを覚えていてくれた。それも、嫌ったり怖がったりしているわけではなさそうだった。
 心の中で長田にもう一度礼を言ってから、次の作業にとりかかった。
 PHSをモデム設定にしてPCにつなぎ、ネットに接続した。堀川さんあてのメールには、寿荘の住所とピンク電話の番号、キアに手渡して欲しいものについて書き込んだ。
 蜘蛛類学会のサイトにもログインした。
『糸付きクモの元飼い主がみつかりました。ありがとうございました。今度の月曜日に返しに行く予定です』
 チャット相手が目を留めてくれるかどうか。分の悪い賭けだが、報告しておけばそこからつながる糸もあるかもしれない。
 PC関係の作業を終え、接続設定とアプリの履歴、ついでに浜小PTA新聞の画像データも削除した。借り物のPHSはハードリセットしてからバックアップデータを戻した。
 長田の家の電話は一八四設定だったので友達の番号が残ってしまっているだろう。会った時に消去を頼んでおこう。
「次は金髪だ」
 「可処分グッズ」入れの空き箱から天然記念物のトレーディングカードを発掘した。以前購読していた雑誌の付録だ。一枚の表面を薄く剥いで、むきだしになった灰色の厚紙にびっしりと文章を書き込んだ。もう一枚、無傷のカードを重ねて白無地のコピー用紙で包み、中身がわかる程度に透けているのを確かめた。
 別のコピー用紙に大きな字で手紙を書いた。
「忠くんへ きみが読みたいと言っていた本がみつかったので、プレゼントします。一緒に入れたカードは、俊之くんにわたしてあげてください。この前お世話になったお礼です。烏丸聡」
 カードの包みと手紙、それに僕が小学生の頃愛読した昆虫の本をまとめて大判の封筒に入れ、宛名を書いた。
 明日は補講へ行く前に郵便局に寄って手紙を出して貯金をおろして……
 軽いめまいを感じてベッドにどすん、と腰をおろした。
 母さんのペナルティなんて鍵のかからない牢屋みたいなもんだ。おとなしくしているつもりがなければ何だってできてしまう。父さんが本気で調べる気になれば僕の子供だましの小細工なんて通用しない。結局、僕は親の信頼をいいことに、まったく反省のない行動を続けている。
 ベッドサイドの水槽で小さな音がした。コモンヤドカリがごそごそと歩いていったあとに、つるりと中身の無くなったアサリの貝殻が転がっていた。
 数日前から元気のないのが一匹いるのには気がついていた。とうとうヤドカリに殻をこじあけられて喰われてしまったのだ。みそ汁になる運命から逃れて、二ヶ月だけ永らえた命だった。アサリのために口の中で南無阿弥陀仏を唱えてから立ち上がった。
「……後悔はしない」
 PHSと郵貯カードを隠しポケットにしまいこんで、リビングに戻った。


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