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第三章 蛹化 (5)

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2007/08/11 Sat.


「と、いうような話だったわけか」
「脚色し過ぎや。最後らへんはお前の妄想やろ。しゃべってて恥ずかしないか」
 灯りをともさない部屋は真っ暗だったが、キアの声はおだやかになっていた。
 僕にもようやく船場さんの所属が見えてきた。刑事部の組織犯罪対策局だ。
「藪蛇をやらかしたんは俺のほうやったな」
「だって、祖母ちゃんまで隔離監視されてるとは思わなかったもんな。ほんと、ややこしい家族だよ」
「おばちゃん……連れ出してやれんかった」
「仕方ないよ。敵を追いつめて本気にさせるわけにはいかなかったろ。清子さんの判断は正しかったと思う」
 返事はなかった。
「まだごまかせる、と思ってるうちは清子さんにも下手な手出しはしないさ」
「母親やろ」
 キアの声に、また強い憤りがにじんだ。僕には取りなしようのない感情。しばしの沈黙。
 もう一度水底を蹴って、浮上するまでの時間。
「……因数分解よりトイレ掃除より、人の話をキレんと聞くほうが難しいな。お前みたいにはできんわ」
「僕も、今ちょっと自信なくしてるとこ」
 玉造俊平のことを話すのは今しかない。覚悟を決めて切り出そうとした。
「こっちであったことなんだけど……」
「次は堀川志帆か?」
 先手を取られて言葉につまった。
「あ……うん……二回目になるけど」
「お前、女難の相がでとうからな。気ぃつけろよ」
「母さんと妹に振りまわされてるだけだよ」
「海辺のネエちゃんは?」
「あっちが勝手に一人芝居しただけだ」
「中津の叔母さんは?」
「一方的に誤解された」
「やっぱり女難やん」
「じゃあ、どうやって気をつけろっていうのさ」
「相手に向こうて、心意気をみせたいんなら真正面から、出方をうかがうなら斜め前から、仲間のつもりなら真横に並ぶ、こましてまうなら真後ろから……」
「キア!」
「けんかの話や」
「もういい。デートじゃないんだから」
 くつくつと喉の奥で笑う気配がした。ひとりで深刻ぶっているのがあほらしくなって、しばらくふてくされて黙っていた。
 部屋が静かになると、またカエルの合唱がはっきり聞こえるようになった。やっぱり、はぐらかされたからって、うやむやにしちゃいけない、と思い直した。
「キア。玉造の話だけどさ……」
 何の反応もなかった。
「おい。聞いてるか?」
 何の反応もなかった。耳をすませると、外のウシガエルの鳴き声とハモって、規則正しい寝息が聞こえた。
「寝つき、良すぎるぞ。こら」
 三段ボックスの上の目覚まし時計を見上げた。もう午前一時か。
 今夜はキアをひとり残して帰るわけにはいかない。腹の虫がカエルにつられて鳴き出した。ドライブインで何か喰っとけばよかった。
 かさり、とチイちゃんの動く音がした。
「二人と一匹、仲良く晩飯抜きだね」
 畳にごろ寝してしばらくすると、耳元でかぼそい羽音がした。アカイエカだろうと思ったが、叩くのも億劫なくらい疲れていることに気がついた。
 足を伸ばす場所をつくろうとして身体をずらした時、キアが寝返りをうった。ごつごつした前腕が僕の肩にあたった。手首をつかんで持ち上げると、内側の柔らかい肌から僕の指の腹にゆっくりした脈拍が伝わってきた。その手をそっと押し戻して、自分の腕は頭の後ろで組んだ。
 上を向くと窓の外は市街地なりの星空だった。月齢二十九日。もうすぐ新月、今宵から大潮だ。僕の部屋のヤドカリは、離れて久しい潮の満ち干、長らく見ていない月の満ち欠けを、どうやってか感知して、この時期になるとそわそわと落ち着きのない行動をする。
 人間だって自覚していないだけで、身体に封じ込めた海に月の引力を感じているんじゃないだろうか。潮の満ちる夜には大昔に去った海が恋しくて、気分がゆれたりしないだろうか。夜空を見上げながらそんなとりとめもないことをぼんやりと考えていた。

 がちゃり、とドアの鍵を閉める音で目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。あたりは既に明るく、クマゼミがシャワシャワと鳴きわめいていた。
 起きあがろうとしてくらっときた。朝は苦手だ。血圧が低いせいか、目があいてから身体を動かせるようになるまでに半時間くらいはかかってしまう。
 キアみたいに五時に起きて、ひと汗かいて、朝飯を自分で用意して六時半に出勤するなんて芸当は、まねできない。
 キアは出勤したのか。畳に両手をついてそろそろと身を起こした。
 誰もいない部屋に炊きたてのご飯とみそ汁の匂いがしていた。台所の炊飯器と鍋からだ。せっかくの心遣いだが、起き抜けの僕の腹は空っぽすぎて、すぐにうけつけられそうになかった。汗臭くなった頭をかきながら、しばらくぼんやりと座っていた。
 みそ汁が冷めた頃になって、ようやく昨夜のできごとをひと通り思い出した。玉造のことをちゃんと話せていないのも。
 話さなくていい。そう口に出して言われたわけではないけど。始めからわかっていたことだから……と。
 尻ポケットで携帯が鳴った。ツクツクボウシの鳴き声は
「母さんからメール?」
 内容をチェックして、頭から血の気がひいた。
『午前さまへ。今日が何の日か覚えてる?』
「模試だあ!」
 大慌てで部屋を飛び出し、施錠もそこそこに階段を駆けおりた。MTBに乗ってまっすぐ駅に向かおうとして気がついた。
「受験票!」
 今から家に取りに帰って間に合うだろうか。猛然とペダルをこぎながら、まだ何か忘れているぞ、と必死に考える。
「みそ汁……うげ……ほったらかしてきちゃった」
 どう計算しても日の高いうちに戻って来られそうになかった。部屋、におうだろうな……。
 みそ汁を腐らせたことはキアに会ったらすぐに謝ろう。要件はなんでもいいから、お前が悪いと言ってもらえたら、少しは気分がましになるかもしれないと思った。


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