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第三章 蛹化 (4)

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2007/08/10 Fri. 17:40


 足音は管理棟、つまり玄関口付近から奥の棟へと近づいてくる。清子さんは外へ出るつもりなのだとキアは想像していたが、雅代さんはかまわずどんどん廊下を奥へ走っていった。年齢にしてはたいしたスピードと体力だ。
 抱きかかえられた清子さんは、時々小声で指示をだしていた。それに従って、雅代さんは廊下の角をまがり、非常階段のドアを押し開けて駆け上がった。長い廊下に出たところで、雅代さんの横に並んだキアが声をかけた。
「どこへ行くつもりや」
「一番南の棟の屋上よ」
 廊下の行く手にいきなり警備員が現れた。清子さんに指さされて、雅代さんは右脇のドアのなかへすべりこんだ。六人定員の居室だった。鳩豆状態の利用者さん達の横をすりぬけて走りながら、一応は挨拶をした。
「おじゃまっす」
 奥のドアからトイレを経由して隣の居室へ。そこから廊下に戻って追っ手をやり過ごした。
「邪魔が増えてきたから、迂回するよ」
 共用トイレ、洗濯室、乾燥室を通り抜けながらジグザグに進み、ときにはフェイントをかけて逆戻り、また前進する。それでも建物のそこかしこに警備員は現れ、三人の行く手を阻んだ。
「どないなっとうねん、この施設は」
「清掃業者は三流でも、警備は怖いよ。その筋からの派遣やからね」
「なんでや!」
 上層階にあがるにつれて、さらに足音が増えていた。廊下で呼び交わす声を、三人はリネン室にひそんで聞いていた。
「相手が多すぎるね。二手に分かれましょう」
 キアは大丈夫かと言いたげに雅代さんを見た。
「口をきくのが億劫になっただけで、気持ちも身体もしっかりしてはりますよ。お部屋の掃除もしてもうてたの」
 雅代さんは自分のことを話題にされても、まったく表情を変えなかった。清子さんの意図だけは正確に読みとったようで、キアに向かって小柄な老人を抱いた両腕をつきだした。
「ちょい待ち」
 キアは洗濯済みの敷シーツを両腕に広げ、作業服にパジャマがじかに触れないよう、包むように清子さんを受けとった。これは雅代さんの心証をかなり良くしたようだ。大きな手でぽんぽんとキアの肩を叩き、自分も畳んだタオルケットをシーツに包んで抱えこんだ。
 リネン室を出て、そっくりの白い荷物を持った二人が別方向に分かれて走り出した。非常階段を駆け上がろうとして、上階から降りてきた警備員と鉢合わせした。
 やむなく廊下へ抜ける。この階は診療所だった。ぽかんと口をあけた看護師と介護スタッフの間をすりぬけて、診察室から裏の廊下を通って受付へ。機材搬送車のレールの上を走り、メタボ腹ならつっかえそうな狭い跳ね戸をくぐって薬局へはいりこんだ。
 入ったとたんに薬品棚の前にかがみこんでいた薬剤師の尻にぶつかった。はずみで薬剤師の頭が棚の戸板にぶつかり、茶色の小瓶が二、三個転がり落ちた。
「すんません!」
 瓶を踏まないようにホップして棚の間を走り抜け、共用廊下に戻った。廊下から今度は配膳室に飛び込み、給食搬送用のエレベーターをみつけた。二台並んだ大きいほうは手押しカートと運び手が立ったまま収まる大型だ。
 キアは貨物専用の小さいほうに清子さんを押し込むと、表示されている一番上の階のボタンを押してから、自分も手足を折り曲げて素早く乗り込んだ。人間用ではないのでステンレスの扉が閉まると真っ暗だ。跳躍前のバッタのように身体をまるめたお互いの姿は見なくてすんだわけだ。
「清潔区域を汚染してもたな。ま、この建物まるごと洗濯でもせんことには、どないしようもないか」
 清子さんは逃避行のおかげで久しぶりにヤンチャ心が活性化されたらしく、どことなくうきうきと楽しげな声をあげた。
「やるやないの、坊主」
「俺の目標は、どんな凶暴な年寄りにも負けん介護士になることやねん」
 清子さんは吹き出した。本心を打ち明けられたとは気づかなかったのだろう。暗闇のなかでキアがどんな顔をしていたかもわからない。会話はそこでとぎれた。
 エレベーターがたどりついた階には追っ手の姿はなかった。
「七階?おかしいね。いつものエレベーターは止まらない階なのに」
 清子さんが首をかしげた。しん、とした長い廊下にはほんの数ヶ所しかドアがない。
 キアは何か胸がざわつくのを覚えて、見かけは他の居室と変わらないスライドドアに手をかけた。ドアは施錠されていた。順番に試して、ようやく四つ目のドアが開いた。
 他の棟の居室とは全然違うにおいがむっと廊下まで漏れだした。一歩足を踏み入れると、恐ろしく毛足のながい絨毯に靴が沈んだ。部屋の中は薄暗くて奥まで見通せなかったが、清子さんの部屋の三倍はあろうかというスペースに、ホテルのスイートのようなベッドと応接セットが配置されているのはわかった。
「時間がないよ!」
 清子さんにせかされて、キアはドアを閉めた。廊下を走りながら、においの分析を止められなかった。掃除は行き届いているようだが、それでも消しきれないタバコのにおい、酒のにおい、恐怖をはらんだ汗のにおい、そしてかすかな血のにおい。
 北野家の座敷も、同じにおいがした。なぜあの場で、すぐに気がつかんかったんや。
 屋上階に続く最後の階段をなかほどまであがったところで、キアは立ち止まった。目前のドアを開けて、ひとりの警備員が姿を現した。ゴールを見越して待ち伏せをしていたのだろう。
 勝ち誇ったように、壁に挟まれた狭い階段のど真ん中を堂々と降りてきた。下の階にはそろそろ人が集まってきたらしく、ざわめく声と足音がする。目の前の警備員は右手をつきだしてにやりと笑った。
「危ないから、ゆっくり降りていきな。婆さんを落とすんじゃないぞ」
 キアは短く息を吸い込むと、猛然と階段を駆け上がった。ぎょっとして身構える警備員の鼻の先でぴたりと止まり、清子さんを抱いたまま棒きれのようにまっすぐ後ろに倒れた。
 警備員は思わず手を伸ばし、何かに足をとられてバランスを崩した。階段にぶつかる寸前、キアは体躯を思いきりまるめて清子さんをかばい、段にあたった背中を軸に後方一回転して、左右に開いた両足を壁につっぱった。その身体の上を、清子さんの投げた輸液チューブを足に絡めた警備員がワンバウンドしてさらに下へと転がった。階下から走ってきた別の警備員が、あわてて同僚の身体を受けとめた。
 その隙に、キアは立ち上がって屋上のドアに向かってもう一度ダッシュした。ドアのすぐ外は洗濯物干し場だった。コンクリート製の竿受け台を蹴飛ばしてドアの前に転がし、もう一台重ねてようやくひと息ついた。
 人気のない干し場にはかんかんに真夏の西日が照りつけていた。鉄柵越しに浜町の住処のあたり、遠いとおい青色をみつけて、清子さんは少女のように笑った。明るい太陽の下で見ると、虹彩が日本人にはちょっと珍しい、灰色っぽい茶色なのがわかった。
「そうやね。夏やったわね」
 キアもつられて、ちょっと笑った。
「おばちゃん、若返ったな」
「お婆ちゃんでええんよ」
「俺の祖母ちゃんは二人だけや」
「あんたみたいな孫がおったら、祖母ちゃんらも気丈夫やろね」
「……そない思ぅてくれたかな。……生きとったら」
 清子さんが、小さな声でごめんね、と言った。キアは黙って遠い海を見た。
 初めて出会ったのは、ほんの数時間前のことだったはずなのに。こんなに自分のことを話したのは何年ぶりだろう。
 背後でドアを開けようとして、ガンガンとコンクリにぶつける音がしだした。
 清子さんは屋上の反対側の隅、生い茂った竹藪の少し手前の銀色に光っているところを指さした。
「あそこに非常脱出用の滑り台が見えるでしょう。入口には鍵がかかっとうから、フェンスを乗り越えていきなさい」
「おばちゃんも連れていくで」
「あほ。誘拐犯になってどないすんの」
「こんなとこに置いとけるかい。連れ戻されたらいびり殺されるぞ」
「雅代さんだけ残すわけにはいかないし。あの人、私がいないと加減がわからんようなるからね。私なら大丈夫。また呆けたふりしてますから」
 反論しようとしたキアを目で制した。
「約束してちょうだい。あの子を連れ出してくれるなら、ここのことは私が始末つけときます。そのあと、ちゃんとあの子の面倒を引き受けるから。それまではここで見聞きしたことは、人に話さんといて」
「……はなから謀りよったな」
「亀の甲より年の功、ゆうてね」
 キアは乾いた洗濯物を積み上げて、山のてっぺんにそっと清子さんを降ろした。そのままぐずぐずと動けないでいるのを見て、清子さんは明るく冗談を飛ばした。
「もう五十年若かったら、別れのキッスのひとつも欲しいとこやね」
「……欲しいんか?」
 真剣に聞き返した六十歳年下の男に、優しく微笑む。
「親切心も過ぎると女の子に勘違いされるよ。はよ、お行き。そうそう、竹藪には野犬用の虎ばさみがごろごろしよるて噂よ。気ぃつけて」


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