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第三章 蛹化 (3)

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2007/08/10 Fri. 16:00


 休日のはずが土壇場になって仕事がはいってしまい、キアは職場から作業服のまま出かけた。
 特別養護老人ホーム「ロータス白百舌」は、JRより北側の見晴らしの良い高台に建っていた。ずらりと三棟並んだ建物の外観は十九世紀ヨーロッパ調で、気恥ずかしいほどに優雅な装飾が施されている。
 しかし、玄関の自動ドアをくぐった瞬間から、キアの嗅覚はこの施設の本質をさぐりはじめていた。広々としたエントランスには、施設長を筆頭に、幹部職員の名前がずらずらと掲示されていた。そのなかに「総務部次長 北野昼二」のネームプレートをみつけて、眉をひそめた。
 面会希望者は窓口に置かれた申込用紙に記入して、入所者の許可をもらう規則だと張り紙にはあった。キアは自分の氏名と、続柄の欄には「孫の友人」と書いた。それでよく北野清子さんの部屋へ通してもらえたものだ。受付のパートさんは、いちいち入所者への確認をしてはいないようだった。
 床にマークされた順路をたどりながら、キアは清掃員の目で、共用廊下の隅っこの汚れやアルミサッシのレールの隙間、非常出口の前に積まれた段ボール箱などをチェックしていった。居室のドアが開け放たれている前を通り過ぎる時には表情が曇った。
 最後にたどりついたのは、二番目の棟の二人部屋だった。窓際の両隅にベッドが一台ずつ置かれ、廊下側にはリビングスペースまであって、家族用らしいソファベッドも据えつけてあった。もっとも、ベッドとして利用されたことはほとんどなかったようで、調節用の金具は錆びついてしまっていた。同室の人のベッドはぐるりとカーテンで囲まれ、なかからはほとんど何の物音もしなかった。
 清子さんは介護用ベッドに背中をまるめて座っていた。ベッドの足元は下向きに折り曲げて椅子型にしてあった。それよりも目をひいたのは、ちょんちょんに刈りあげられた白髪と、派手なピンクの水玉がちりばめられたパジャマだ。安っぽいフリルのついた袖口からしわくちゃの両腕がつきだしているさまは、ほとんどお猿の仮装のように見えたが、キアはそれを笑いはしなかった。
 清子さんはベッド用テーブルに木製の野菜や果物の玩具を置き、ままごとの包丁を握りしめて、さく、さくと切っていた。部品の断面にはマジックテープが貼られているので、そこに包丁を入れると適度に切りごたえがあってそれらしい音がする。
 ニンジン、ダイコン、キュウリ、リンゴ、レモン、洋梨。全部切り離してしまうと、テープを貼り直してまた切り始める。キアは黙って枕元に立ち、清子さんの作業を見守っていた。同じ作業が二十分ほどもくりかえされた。
 輪切りのダイコンが手元から布団へ滑り落ちて、ことり、ころころと床を転がった。キアは木片を拾い上げた。
「なあ。なんでこんなことばっかりしよんや」
 清子さんはキアの顔と木片を交互に見て、ちょうだいをするように手を伸ばした。
「ダイコン」
 すぐに手渡そうとはせず、片手でお手玉のように木片を投げ上げながら、キアは話し続けた。
「ここの施設は清掃業務に金かけてへんな。汚れをきちんと落とさんと薬でごまかそうとするから、余計ににおいが染みついてもとう」
 清子さんは表情を変えない。ぼんやりとした目で木片の上下運動を追っていた。
「この部屋に入って、ほっとしたよ。ここだけはにおいがきれいや。鼻が楽になったわ。おばちゃんかて、我慢できへんかったから自分で手入れしたんやろ?」
 軽く放り投げた木片が、ベッドサイドの車椅子にぽん、と乗った。
「ホンマに足も悪いんか?なんで、わけのわからんふりしよんや」
 清子さんは何も言わない。キアはかまわず、言葉を続ける。
「黙っとったら勘ぐられるで。外野が勝手に話をつくって、声の大きいやつの言うことがホンマになってまう。たとえば、北野の隠居は男の子が生まれるまで身体の弱い嫁をいびり続けた、とかな」
 清子さんは何も言わなかったが、部屋の空気がかすかに圧をあげたようだ。隣のベッドのカーテンが揺れた。やはり誰かが中にいるようだった。
「男の子が生まれるまでは、次女と三女に跡目の競争をさせとったとかな。知ったふうに言うやつがおるやろ。それを真に受けるやつもな」
 カーテンの陰から皺の寄った太い腕が伸びて、キアの襟首に向かって泳いだ。すぐに届く距離ではなかったが、清子さんが落ち着けというように手で抑えるしぐさをしてみせると、すっとひっこんだ。キアは振り向きもしなかった。
 とうとう、清子さんが口をひらいた。
「どなたか知りませんけど、年寄りで遊んでおもしろいですか?」
「年寄りと遊ぶんは嫌いやないよ。けど、今日は用事があって来た。久実さんの飼うとったペットをあずかっとう。返したいんやけど、居場所がわからん」
 清子さんは歯の抜けた歯茎を見せてへらへらと笑った。
「あの子は生き物を飼うたことないよ」
「最近、会うて確かめたか?あんたがここへ入ってから、北野の家はずいぶんようすが変わったみたいやで」
 清子さんの目がまたとろんと焦点をはずした。リンゴの形の木片を口にもっていってしゃぶりだした。
 誰も口をきかないまま、また二十分ほどが過ぎた。
 入口のスライドドアをがばっと開けて、ぽっちゃりした中年の女性が部屋をのぞきこんだ。ライトブルーのエプロンには施設名のプリントがしてあった。
「あら、今日は認知棟のお掃除の日じゃないでしょ」
 憮然としたキアが何も応えないでいると、ようやく自分の勘違いに気づいたらしい。業者さんがすぐに替わるからとかなんとか、もごもごと言いながら出ていった。キアの頬に赤みがさした。
「あれでも介護職か」
 清子さんがにんまりと笑った。
「この棟の入所者には、何言うてもわからんからねえ」
「気構えの問題や。ノックもせんと、ごめんもよう言わんのかい」
「くたばり損ないの婆に礼をつくしても何ももらえませんよ」
「せやから、なんで我慢しとんのやて聞いとうねん。認知症でもなんでもないくせに」
「死んだも同然のふりをしよったら、誰も何かさせようとは思わんでしょ。ほっといてもらえたら、それでけっこうです」
 清子さんの口ぶりがしっかりしてきた。足は確かにうまく動かないようだが、背筋はしゃんと伸びていた。
「地区の用地交渉を一手に引き受けてたやり手とは思えんな」
「大失敗でしたよ。土地のことも、子供らのことも。何ひとつうまくはいきませんでした」
「子供ら言うんは、朝一と昼二の兄弟か。あいつら、久実さんに何しよんや」
 清子さんはあらためて、じろじろとキアを見た。
「どこで嗅ぎつけてきたか知らんけど、痛い目にあいとなかったら、はよ忘れたほうがええよ」
「孫は見殺しかい」
 また、隣のカーテンが動いた。誰かがベッドからすべりおりて、背後に立つ気配がした。キアの耳よりも少し上で、押し殺した息遣いが聞こえた。
「あんたと言い合う気はない。頼まれて話を聞きに来ただけや。俺のダチが、あんたの孫のことを本気で心配しよる。顔も見たことないのにな」
 清子さんは視線をそらして玩具の包丁をもてあそんだ。
「さぞかし酷い婆だと思ぅとってでしょ」
 キアは軽く首をかしげて、老人の顔を見つめていた。
「北野の跡取りは束ねる漁師もおらんのに、どないして子供らを食わせよんや」
「朝一に網元はつとまりません。仕方ないから大学に入れて会社に勤めさせましたよ。音響エンジニアですか、なにやらハイカラな仕事をするんやて息巻いてましたけどね。博打で失敗しても実家の留守を狙って金を取りに来るばっかり。父親が亡くなるまでよう帰ってきやへんかった、あかんたれです。昼二は強いもんの機嫌とることにばかり気ぃまわして、いまだにコバンザメですわ。楽に金を稼ぐことしか考えてへんから、うまいこと立ち回りよるつもりで、自分らがええように使われとっても気いつかへんのです」
「我が子やのに、けちょんけちょんやな」
「私の育て方がまずかったんです。孫の代でなら、なんとかなるか思ぅたけど、その前に家がつぶれてしまいますやろ」
「それが見とうないから、見えんふりしとんのか」
 清子さんの眉間の皺が深くなった。背後の人影が半歩、前に出た。
「若造が。偉そうに」
「ガキやから大人の事情は知らん。知らん事情に振りまわされて、割り食うんはいっつもガキや」
 清子さんが何か言い返そうとした時、またスライドドアががらりと開いて、さっきとは別の女子職員がはいってきた。束ねていない茶髪に大振りのピアス。爪を伸ばした指には金属製の突起だらけのファッションリングをはめている。近寄るとぷんと化粧の匂いが鼻をついた。
 キアが唇を噛んだ。
「マーちゃん、勝手にうろうろしちゃだめって言ったでしょぉ。さあさあ、ベッドに戻って」
 背後の人物は、とても背の高い女性だった。女性にしてはごつい体格と太い手足を持った老人が、年齢では三分の一ほどしかないはずの職員に追い立てられて、無言でベッドに戻った。女子職員は、キアを無視して清子さんのベッドの脇にかがみこみ、金属製の尿瓶を取り出した。
「キヨちゃん、しーしのお時間ですよぉ」
 キアが押し殺した声をかけた。
「あんた、誰に向かって口聞いとんねん」
 自分が話しかけられたのだということに、女子職員は一瞬気がつかなかったようだ。キアの顔を始めて見て、怪訝そうな表情になった。
「あんたら、入所者のおかげで仕事もろとんやろ。今の言葉遣いはなんや。それに、なんでこの人にオマルがいるねん。上半身保持できてホィールチェア使えるなら、トイレまで連れて行けよ。お前も女やったら、男の前でこんな目にあわされる気持ちがわからんかい」
 普段なら女性に向かって声を荒げるやつではない。キアは相当、頭にきていたのだろう。あいつに本気ですごまれたら、大人の男だってびびってしまう。女性職員は泣き出しそうにひきつった顔になって、あたふたと部屋を飛び出していった。
 清子さんが肩をすくめた。
「無資格のバイトいじめても、しゃあないよ」
 キアはやり場のない憤懣をこぶしに込めて空気をないだ。
「あんた、これが償いやとでも勘違いしてへんか?」
「久実にした仕打ちよりは、ましでしょうよ」
「結果がわかっててしたことやないんやろ」
「なんで、そう言い切れるんよ」
 一瞬の沈黙。
「なんで、あんたは私に腹立てて罵しらへんのよ……夏子の妹みたいに」
「……孫の不幸を望む祖母ちゃんがおるかい」
 清子さんはまた、思考を停止したようにゆるんだ笑いを浮かべかけたが、キアにまっすぐ見つめられて、態度をあらためた。
「最初は、あの子が望んで世の中から身をひいた。それが何なの?結局、私のしたことは裏目、裏目でどうにもならんかった」
「そない言うんやったら、落とし前つけろよ」
 キアの声は気持ちの高ぶりに連れて大きくなっていた。何事かとようすを見に、隣や向かいの居室から入所者や職員がちらほらと廊下に現れた。
 清子さんは苛立たしげにドアの外をうかがいながら、小さな声で言った。
「今さら、私に何かしろと?」
「今の状況を良く思ってないやつはけっこうおるんや。せやけど、みんなやっとうことがばらばらでお互いのこともちゃんとわかってへん」
「それが?」
「大人やったら、自分で考えろ」
 皺のよった口元が震えた。
「失敗してんよ」
「なら、やりなおせ。そのまんまで終わるな」
 廊下の奥のほうからばたばたと走ってくる足音がした。部屋の外でざわついていた人の群れが、急に静かになってさっと道をあけた。
 部屋に飛び込んできたのは、頭の禿げあがった小太りの男と警備員の制服を着た大男だった。さっきの女子職員は部屋の外までついてきたようだが、男達が部屋にはいると、もう関わりたくないとばかりに退散した。先の二人は真横に並んでキアの前に立った。
 警備員はキアより頭ひとつ分背が高く、プロレスラーかと思うような堂々とした体躯の持ち主だった。禿頭のほうが慇懃に話し始めた。
「責任者の北野です。なんや、うちの職員の態度が気にいらんかって、えらいお腹立ちやったようですが。まあ、そのへんの施設運営上の事情といいますか、ご説明させていただきたいことが……」
「じゃかぁしい!事務屋が現場にしゃしゃりでるなタコ!」
 大声で一喝されて北野昼二はあんぐりと口をあけた。
「今どきここまで質の悪い施設が残っとうとは思わなんだわ。掃除は手抜きやし、サッシの立て付けはゆるみっぱなし、非常口は物で塞がってるわ、汚物処理は半端やわ、職員はド素人で利用者をコケにしよる。受付は座っとうだけや。維持管理費や人件費へつって何にまわしよんか知らんが、大概にしとけよ。このまんまにしよったら、ろくでいかんようなるで」
 いつになく長いセンテンスでまくしたてるキアの声に、廊下の人たちはしっかりと聞き耳をたてている。昼二は舌打ちをして、警備員の背中を押した。
「ここはちょっとまわりがうるさいですからな。場所を替えてゆっくりご説明しましょか……」
 丸太のような腕が伸びてキアの肩をつかんだ……はずが、手の中に捉えたのは空気だけだった。警備員はちょっととまどったが、すぐに身を乗り出して両手でキアの腕をつかもうとし……また失敗した。
 紙一重で避けられたのだと悟って、額のつきでたごつい顔が怒りにゆがんだ。両手を広げて痩せっぽちの若造につかみかかったところが、相手は目の前で姿を消し、たたらを踏んだ拍子に床にばらまかれた玩具の木片につまずいて、そのまま前のめりに転倒した。
 ごつん、と鈍い音がした。ベッドの足に額をしたたかにぶつけた警備員は、すぐには立ち上がれそうになかった。沈めた身体を脇にひるがえしたキアは、すいと立ち上がって顔をしかめた。
「脳震盪おこしてへんか。医者呼んだれよ」
 昼二は明智特産のゆでダコのように顔を赤くしていた。
 部下の負傷など目にはいらないようで、くるりと背を向けて部屋を飛び出していった。
「何をしとる。さっさと部屋に戻らんかい!」
 廊下で見せた横柄な態度が本性だったのだろう。
 清子さんが厳しい顔をしてキアを振り返った。
「あほやね。あそこまで言うてもたら、あっちも引っ込みがつかんよ」
「かまうか」
 キアは悠々と雑巾を絞って、のびた警備員の頭に乗せていた。
「まだわかってへん。あんた、ホンマに痛い目にあうよ。あいつらが戻ってくる前に早よ帰りなさい」
「返事はどうなってん」
「まだそんなこと言うとんの」
 清子さんは隣のベッドに向かって、今までにない凛とした声をかけた。
「雅代さん!」
 さきほどの大柄な女性が、年齢に似合わぬ俊敏な動作でするりとキアの横に歩み寄った。
「久しぶりに、海が見たいわ」
 雅代さんは黙って頷き、心得ているとばかりに、清子さんを軽々と抱き上げた。
「行きましょう」
 廊下の奥のほうから、何人もの足音がどかどかと近づいて来ていた。
 雅代さんは部屋を抜け出し、誰もいなくなった廊下を足音とは反対の方向へ駆けだした。
 キアは、ちょっととまどいながらも、その後に従った。


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