第三章 蛹化 (2)
2007/08/10 Fri. 19:45
玉造から逃げるようにして別れたあと、ドライブインのトイレでざばざばと顔を洗った。洗面台の蛇口から両手に水をすくって、口いっぱいに含んでは吐き出すことを、何度もくりかえした。胃から逆流して舌にざらりと残った苦い味は、消えなかった。
「……キア……」
洗面台に両手をついて身体を起こした時には、ポロシャツの胸にまで水がこぼれて肌にはりついていた。
別々の高校へ進学してから一年半。それぞれの生活は忙しかったが、週末や休暇中にはけっこう長い時間を一緒に過ごしてきた。そんななかで、あっちの高校生活の話題が出ることはめったになかったけど、あいつが話したくないならそれでかまわないと思っていた。
こんなかたちで、他人から興味本位に聞かされたくはなかった。
玉造は僕を同類だと言った。その通りだ。他人の過去を嗅ぎまわってネタ集めをしていることに変わりはない。不意打ちで鏡をつきつけられて、自分のあざとい醜態をもろに見せつけられてしまった。
中津さんの腹立ちも、京橋の態度も、さぐられるほうの不快はあたりまえなんだ。キアのためらいを無視して、とうとう自分が足元をすくわれた……。
自分のことはもういい。謝らなければならない。不愉快な噂話をたてられてしまった友達に。
夕焼けが消え、濃い藍色に沈んだ空の下、普段なら十分もかからない道を、MTBを押してとぼとぼと歩いていった。寿荘に着いてしまうのが怖かった。かといって、家に逃げ帰っても余計にしんどくなるだけだともわかっていた。
アパートの階段をのろのろと半分ほどあがったところで、西端のドアの前に立つ人影に気がついた。ランニングシャツ一枚の堂島さんは、珍しくむっつりと押し黙ったまま、同じように黙って立っている僕を見つめていた。ややあってドアに向かって親指を立てた。
「ちょうど良かったわ。聡くん、合い鍵持っとるやろ。開けてくれ」
キアはまだ特養から戻っていないのか。留守宅にこの人を入れてもいいものか。この人の前でさっきの話をするわけにはいかないんじゃないか。
冷却したゲルのように動きの鈍った頭でもどかしく考えている間に、堂島さんは僕にそっと近寄って小声で言った。
「滋が帰ってくる前に、話しときたいことがある」
頭蓋の中のゲルがゾル化して波打ちだした。
「ないしょ話なら堂島さんのお部屋でしたほうがいいんじゃないですか」
「帰ってきよったら、すぐにつかまえて聞かさなあかんこともある。あいつのためやと信じて手伝って欲しい。頼むわ」
いつになく冷静な顔を見て、冗談事ではないのだとわかった。僕はドアの鍵を開けて和室にあがりこんだ。すぐあとに堂島さんが続いた。
「おっつけもう一人ここに来る。明智署におった時の俺の部下で、今は本署の刑事部におる……」
錆びかけたノブを音もたてずにまわして、三人目が入ってきた。堂島さんの言っていた人ではなかった。
キアは後ろ手で閉めたドアにどん、ともたれかかった。皺の寄った作業服にはところどころ緑色の染みがつき、むきだしの腕や頬には乾いた泥と薄い紙のへりで擦ったような浅い傷がいくつもついていた。
部屋に誰もいなければ、そのまま畳に倒れ込んでいたんじゃないか。へとへとに疲れてみえるのに、目ばかりがきつく光って、堂島さんをにらみつけた。
「どうしたんだ。まるで竹藪でも走り抜けて……」
乱れた黒髪の間から、はらりと細長い葉が落ちた。
「……きたのか。ほんとに」
僕には応えず、キアは堂島さんに向かって歯をむいた。
「お前がなんでここにおる」
「半時間ほど前、一階のピンク電話に東クリの大将から連絡があった。たまたま俺しか取るもんがおらんかった」
寿荘の管理人室はずっと前から無人状態だ。
「星が丘の特養から苦情電話がはいったそうや。お前んとこの社員が、施設の従業員に暴言暴行をはたらいたうえ、入所者を人質にとって引きずりまわした、とな」
僕の背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「不良社員を連れて今すぐ謝りに来い言うとったらしい」
キアの目が一段と険しく光った。
「くそったれが。社長には関係ないやろが」
吐き出された怒りを無視して堂島さんは言葉を重ねた。
「やったんか?」
すぐには応えず、キアは身構えるように腰をさげた。前髪の隙間から細めた目がのぞき、口元は裂けたように酷薄な笑みを浮かべた。
「ゲロ吐かそ思うんなら、ふん縛って取調室まで引きずってけよ」
堂島さんは真正面からにらみ返した。キアもひるまず、身じろぎもせずに警部を見据えていた。凍りついたような数分間が過ぎて、堂島さんが先に息を吐いた。
「どあほ。やってへんことは、やってへん言うたらしまいなんや。妙な意地張ってこのうえ大将に迷惑かける気か」
堂島さんはキアの作業服の胸ポケット、「T.C.S.」と刺繍されたロゴをつついた。脊髄反射の素早さで、キアは堂島さんの指を払った。
「わざわざ会社の制服着てゴロまきに行くあほも珍しいが……もっと気に入らんのは、吹けば飛ぶよな弱小企業のイニシアルをさぐって脅しにかかるやつの根性や。そんな暇あったらさっさと署に被害届出さんかっちゅうねん。はがいたらしい」
ぼこぼこと強めにドアをノックする音がした。誰も返事しないでいると、ノブがゆれてがちゃがちゃと音をたてた。キアが施錠していたので、ドアは開かなかった。
「刑事部の船場や。入れたれ」
さらに数分、ドアの重しは動かなかった。外の人も立ち去ろうとはしなかった。息を殺した気配だけが伝わってきた。
よどんだ空気の中で、ようやくキアは鍵を開け、蹴るように靴を脱いで和室にあがった。堂島さんの前では意地でも腰をおろす気はないらしく、両手を固く握りしめたまま壁を背負って突っ立っていた。
立て付けの悪いドアノブを不器用にまわして、中肉中背の男性がはいってきた。刑事さんというより大企業のサラリーマンにみえる。紺のスーツに襟元できちっと締めたプレーンノットのネクタイ。髪を七三に分け、この暑いのに汗をかいたようすもない。船場さんは部屋のなかを見まわして、堂島さんに軽く頷いた。それから、値踏みするようにキアをじろじろと見つめた。
「きみが葺合くんかい」
元部下の態度に堂島さんは顔をしかめた。船場さんは元上司の不機嫌に気づかなかったか、気づいても無視したのか、まっすぐその耳元に寄って何事かささやいた。堂島さんは話半分でさえぎった。
「お前からこいつに説明せえ」
船場さんはちらりと僕を見て、また堂島さんの顔を見た。
「そいつらはニコイチや。気にすんな」
肩をすくめて向き直る。
「きみ、何しに特養なんかに行ったんや」
キアはさっきから口をきいていない。船場さんの態度に、ますます表情が硬化していた。
「ええから、先にこっちの用件を言うたれ」
「機密漏洩の責任はとってくださいよ」
ていねいな言葉遣いだが、声は冷たい。
「今からする話は外で言うなよ。あそこにはもう少ししたら、僕らが捜査に入るはずやった。利用者の中に、ちょっと特別な連中がまじっているとわかってな。きっちり準備をかためてから、と思うてたところが、いらん茶々いれてくれたようやな」
僕は船場さんの背中をまじまじと眺めた。刑事部だと言ってたけど、課名までは聞いてない。
「堂島さんは、施設の連中がきみに尻尾をつかまれて焦ってるんやと思てはる。僕の意見は違うけどな。だいたい、あそこでもめ事を起こして、すんなり帰してもらえるわけがないし、そんなに簡単に証拠がつかめるなら、僕らもこんなに手間はかけてへん」
すんなり帰してもらえなかったから、竹藪を踏破しなきゃならなかったんじゃないか。
「謝らんでもええから、見てきたことがあるなら教えろ」
堂島さんは、らちがあかない、という顔で首を横に振った。
「もうええで、船場。こないなってもたらハマグリより口が固い。塩水に漬けようが火にかけようが、こいつはしゃべらん。こっちから出向いて聞いてくるしかないやろ」
「今動いたらますます警戒されて捜査が難しくなるだけですよ」
「少年課が行くんや。くそガキが口を割らんさかい、被害者から訴えてもらわな灸もすえられん、言うてな。おためごかしで愛想してきたる」
「別件捜査ですか。はなからそのつもりなら、この子らに説明なんかせんでも良かったんと違いますか」
「ええ加減にせえよ。俺はあくまで、こいつの無実を確かめに行くんや。ついでにわかったことがあったらお前にも教えたるがな」
堂島さんは疲れた顔で船場さんに手をふり、キアと向き合った。
「明日、現場を見てくる。滋、俺らの話がつくまでは、ひとりにはなるな。大将はわかっとるから、しばらく会社に泊まらしてもらえ」
キアが低くうなった。
「勝手に決めくさって……」
「何もしゃべらんとって偉そうにいうな。文句があるならこの場で全部吐いてまえ。何をたくらんどんのか、誰を庇うとんのか知らんが、大概にしとけ。面倒かけよって」
「あの……社長さんは、電話のことを何て……」
ためらいがちに、僕は横から口を挟んだ。堂島さんのまなじりが、わずかにゆるんだ。
「笑っとったよ。あのあほ、また見境いなしに本音でつっぱしったんやろ、てな」
キアの拳がほぐれた。
「烏丸の親父さんもそうやが、大将もお前には甘すぎるわ。いつまでも尻拭うてもらえる思うたら大間違いやぞ」
「お前に言われんでも……」
キアの脇をすりぬけて、堂島さんは出ていった。船場さんもあとに続いた。ひとことの挨拶もなかった。
ドアが閉まると、今度はキアがずい、と部屋の奥に歩いてきた。目の前まで迫られて何事かと思ったが、そのまま僕をよけて、トイレに入ってしまった。ともかく部屋が狭いのだ。
用を済ませたキアは僕に背を向けて畳に寝転がった。僕は反対側のあいた隅っこに座り、膝をかかえた。その時初めて、作業服の背中に横一文字に走ったひどい汚れに気がついた。
相当な負荷がかかったらしく、生地まで擦れてけばだっている。打ち身もできているんじゃないかと気にかかったが、すぐに問いただすのは、はばかられた。
どちらもがひとことも口をきかないまま、とろとろと時間だけが過ぎていった。
スズメがねぐらに群れ集って鳴き交わし、やがて静かになった。アブラコウモリがふらふら飛びまわる頃になって、やっと人の声が聞けた。
「帰れよ」
「遅くなるってメールは入れたよ」
返事はなかった。
しばらくはカエルの合唱だけが聞こえていた。
救急車のサイレンが近寄り、遠ざかった。もとの静寂が戻ってくる前にと、思いきって声をかけた。
「そろそろ話してくれよ」
後ろを向いたまま、キアは応えた。
「北野久実はあの家の天井裏におった。最初は本人の意志で、手引きしたんは北野清子や。ご隠居が追い出されてからは親父とその弟が家を仕切っているから、今、久実がどうなっとうかはわからん」
「刑事さんの知りたかったことと、久実さんや清子さんとは関係があるのか?」
今度は返事がなかった。
「タレ込んでしまうと、久実さんに害がありそうなのか?」
「……危ないのは、おばちゃんや」
「……清子さん?どうして……」
「しつこいな」
「心配なんだよ」
「海が見たい言われたから……」
「ちょっと待てよ。始めから説明してくれないと何のことだか」
「もうええ」
「よくない」
口の重いキアを根気よくなだめすかし、ぽつり、ぽつりと語られる事情をすくいとって集めた。断片をつなぎ、時系列にならべかえて僕なりの脚色をすると、こんな話になる。
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