第二章 脱皮 (7)
2007/08/06 Mon.
夕方、タバコ屋のおじさんが携帯に電話をくれた。中津冬子さん……北野夏子さんの妹さんが霊園に来られているとのことだった。
僕らが急いでかけつけた時、中津家のお墓の前には背の高い女性が立っていた。
緑がかった灰色のスーツと中ヒールのパンプス。少し前屈みになって僕が供えた花を見つめていたので、長い髪がゆるく波打って顔にかかっていた。姉妹の叔母さんと聞いて、もっと年上の人を想像していたのだが、四十には手が届いていないように見えた。
キアを霊園の入口に待たせて、僕はお墓に歩み寄った。中津さんと並んで立って、四日前と同じように手をあわせた。
中津さんは僕のほうを向いて黙礼した。くっきりとした、美人といっていい顔立ちなのに、どことなく疲れてあまり元気のないようすだった。
「お参りに来てくださった人がいる、と管理人さんに聞きました。こんなに若い人だとは思わなかったけど。姉のお知り合いですか」
僕もちょっと頭をさげた。
「直接お会いしたわけじゃありません。娘さんの友達っていう関係です」
「浜町の人ですか」
声に警戒がこもった。まだ葬式の時のしこりが残っているんだろうか。
「家が近所だったわけじゃないんです。ペンフレンドみたいなもんで」
クモを拾っただけだけど。
「最近、連絡をとれていないので、どうしておられるかなと思って」
昔から連絡をとってはいなかったけど。
「ごめんなさい。あなたのお友達だったのは、姉のどの子供かしら」
「……東野で一緒に住んでおられた、と聞いたんですが」
その場の空気がいっぺんに凍りついた。中津さんの黒目がちのぱっちりした目がつりあがり、地味な色の紅をひいた口元が厳しくひきしめられた。
「嘘つき。久実に文通相手なんかいてへんかったわ」
「あの、今どこにおられるかご存じでしたらそれだけで……」
いきなり顔面左半分に強い衝撃を受けて、目から火が出た。
「知ってたって言うもんか。これ以上あの子にちょっかいかけたら、ただじゃすまんよ」
パンプスのつま先で脚の間を蹴り上げられそうになって、あわてて腰をひいたところで体勢を崩した。派手に尻餅をついた僕にくるりと背を向けて、中津さんは足音も高く大股で立ち去った。
……姉の会葬で啖呵を切った人だった。外見につられて判断を誤った。
キアは出口からすいと身をかわして中津さんを通した。肩をいからせた後ろ姿を感心したように見送ったあと、霊園の隅の水汲み場でハンカチを絞ってきて手渡してくれた。
「すまん。想定外の反応で、出遅れた」
頬っぺたはじんじんと熱をもち、少々冷やしても痛みはおさまらなかった。キアは患部の皮膚が変色していくのをまじまじと観察していた。
「見事なモミジや」
一応、心配してくれてはいるようだったが、冷静なコメントを聞いて余計に情けない気分がつのった。
「なんで僕がこんな目にあわなくちゃならないんだ」
「もう、やめるか?」
「それじゃあ、叩かれ損だ」
「懲りへんな、ラス」
「やられたわけもわからないままじゃ、悔しいじゃないか」
ともかく、このまままっすぐ帰宅したら母さんに尋問されてしまう。とりあえず寿荘まで戦略的撤退を決め込んだ。
アパートに着いて氷水を入れたポリ袋をあてがってもらった。ぐらついた歯がないか指でさぐりながら、ぶちぶちと文句を言わずにおれなかった。
「久実さんはもう、冬子さんのところにはいないな」
「一旦浜の家へ帰って私立中の寮にはいったことになってるんやろ」
「夏休みなのに帰省もしないのか。忠のお母さんなんか姉妹の人数さえひとり少ないと勘違いしてたんだぞ」
「ムキにならんでも、俺かてあの母屋の天井裏あたりにおるんやろとは思とうよ。理由はわからへんけどな」
頬の痛みがましになってきた。おかげで、頭にのぼった血も少しずつ冷めてきた。
「中津さんは久実さんのことを心配してるみたいなのに、なんで捜しだそうとしてないんだろう」
「へたに手を出したらまずい、とでも思とうかな。お前のことも、わけも知らんとちょっかい出すなって感じやったし」
「そういうことが、今までにもあったのかもな」
チャットの研究者さんが、もしかして臨海研修センターでボランティアをしていたという人だったとしたら、僕らよりずっと容易に北野家にたどりついていただろう。
それでも、関係者がこんな態度では、そこから話の進めようがなかったんじゃないか。
目の前にぶらさがった事実に手の届かないもどかしさ。先へ進むためには僕らの持てる情報を最大限に活用しなければ……
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