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第二章 脱皮 (6)

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2007/08/02 Tue.


 北野家の母親が亡くなっていると聞いてから、僕はもう一度当時の新聞をあたって、父親が載せた葬儀の広告をみつけだしていた。そこからたどって北野家の菩提寺と代々のお墓はすぐにみつかった。
 お寺は海からさほど遠くない小さな丘にあって、そこだけこんもりとした林が残っていた。広くはないが由緒のありそうな境内の一隅に墓所があった。
 さがしあてた墓地は僕のベッドくらいのスペースを占めていた。墓石は鉱物粒の整ったきれいな御影石。玉砂利は平らに掃かれていたが、誰も踏んだようすがないということは、かえって訪れる人の少ないことを想像させた。
 かたわらの墓誌には何人かの戒名と本名が彫りいれてあったが、列の最後は先代らしき男性で、母親の名前はなかった。
 掃き掃除をしていたお寺の奥さんに尋ねたところ、母親……北野夏子さんの妹さんという人がここのお墓に入れることに猛反対し、北野のお祖母さんと大喧嘩して、お骨も持っていってしまったのだという。
「お葬式に集まったのは北野のご親戚とご近所の方ばかりでしたね。中津のほうはご両親が早くに亡くなったとかで、妹さんおひとりしか見えませんでした。その妹さんがまあ、たったひとりの姉を婚家に殺されたなんて言い出したものですから、大騒ぎですよ。お亡くなりになった方を悼む気持ちに皆さん変わりはないでしょうに、ご隠居様も意地をはられてしまいましてね」
 お骨がなくても名前くらい入れてあげればいいのに。死んだ人の気持ちは確かめようがないけど、これでは子供達だってお参りしにくいだろう。
「北野さんと中津さんは、まだ仲直りされていないんですか」
「夏子さんの生前から、冬子さん……妹さんはほとんど浜とはおつきあいされていませんでした。北野さんもご隠居様が施設に行かれてからはあまりお寺にお越しになりませんので、よくはわからないのです」
 親切な奥さんは、夏子さんの実家である中津家のお墓がどこにあるかまで教えてくれた。以前にもこんなふうに訪ねてきた人がいたのかもしれない。

 お寺を出て、国道と高速道をつなぐ幹線道路を北上した。
 田んぼがじわじわと浸食されて、玩具のような相似形の一戸建が並んだ住宅地の真ん中に、ブロック塀に囲まれた狭い霊園があった。
 中津家のお墓の花立には、しおれた仏花が残っていた。まだ完全に乾燥しきってはいなかった。
 両手をあわせてしばらくじっとしていたら、ヒトスジシマカが飛んできて手の甲に止まった。指ではじきとばそうとしたら、すいっと逃げられた。今日みたいな曇り空だと昼過ぎから活動しはじめているようだ。
 一昨日の夕立のあとで芽吹いたらしい雑草を、玉砂利の隙間からつまんで引き抜いた。周囲には墓石よりも高く雑草のしげった墓地もあり、雨水がたまりっぱなしの花立も多かった。ボウフラの生息には適した環境だ。
 僕は霊園の隣のタバコ屋で線香と花を買って中津家のお墓に供えた。花立には十円玉を落とし込んでおいた。
 タバコ屋のおじさんは霊園の管理人もしているとのことだった。少し話をして、ちょっとした頼みごとをしてから家路についた。

2007/08/03 Fri.


「岡本さんに教えてもうて、餌集めが楽になった」
 キアは外廊下から、新聞紙を巻きつけたインスタントコーヒーの空瓶を持って部屋に戻ってきた。
 瓶の底には都島消毒(株)昆虫研究所謹製のゴキブリ誘因剤が放り込まれている。殺虫成分をまぜる前の配合なので、チイちゃんが腹をこわす心配はないわけだ。瓶の内側に塗られた潤滑剤はマーガリンだという。
 ふたをはずしたケージの出入口に、瓶をさかさまにしてつっこんだ。中ぐらいのクロゴキが一匹、転がり落ちて逃走を企てたが、あっというまにアシダカグモの強靱な脚に押さえ込まれた。
「一匹だけで足りるのか」
「二匹以上いっぺんに入れても食い散らかすだけや。ケージが汚れるし、ゴキにも悪い」
 水を含ませたスポンジを置くキアの手の甲を乗り越えて、チイちゃんはかさかさと走った。
「逃げ出そうとしないか?」
「今んとこは」
「住みやすそうだね」
「いい狩り場をみつけた思うとんのか、おっさんが怖いだけなんか」
 ふと、岡本さんとの会話を思い出した。
 ゴキブリが特定の場所に群れるのは、仲間を呼ぶフェロモンが関係しているらしい。クモは単体で生活する生き物だが、自分が狩りをしやすい場所に化学的な目印をつけているとは考えられないだろうか。それが同種の他の個体との共通言語であれば、一匹つかまえたあとに、またすぐ次の個体が居着いても不思議ではない。
 クモがハエ叩きを構えた人間に脅威を感じる、というよりはもっともらしい仮説に思えた。餌をくれる人間になついているようにも見えないけど、キアにはそのほうが気楽みたいだった。
 僕はちゃぶ台の上にノートPCを開いて、図書館と市役所の公文書室からかき集めてきた資料を表示した。
「浜町の現代史をここ二十年分くらいまとめてきたよ」
「手短かにな」
「昭和の終わりまでは、あの防風林からアナゴ屋の前あたりまでつながった漁村だったんだ。
 バブルの頃に臨海工業地帯を作る計画ができて、西側から地上げが始まった。埋め立て島を作って橋をかけたのはいいけど、工場の誘致はうまくいかなかった。
 市の財政が悪化して沿岸の工事は中断された。そこへ持ってきて震災だ。中途半端に埋め立てられていた西半分が、液状化でがたがたになった。放置するわけにいかないもんで、メモリアルパークにしちゃったわけだ。東半分は漁村として生き残った。
 一番割を喰ったのが、どうやら北野家だ。公園のはじっこの土地が民間に払い下げられてセメント工場が建ったせいで、陸の孤島になってしまった」
「どうせ土地の値上がりをあてこんで、最後までごねとったんやろ」
「先代は西地区の網元だったそうだ。当主は震災前に亡くなって、後家さんが実権を握ってたみたいだね。地区代表ってことで、市の記録なんかにけっこう名前が出てくるよ。北野清子さん」
「特養におるいう祖母ちゃんか」
「先代の長男さんがあとを継ぐ時に何かあったみたいだけど、そこらへんからは地域全体が公共工事に見放されちゃったから、調べようがないなあ」
「没落家系のわりには羽振りは良さそうやったけどな」
「もうひとつ、加茂川忠くんからの新情報。明実ちゃんのすぐ上の姉さんは、小六になる前に東野小に転校したらしい」
 頬づえをついて身を乗り出していたキアが、ずるっと肘をすべらせた。
「……そっちを先に言え」
「理由はわからないけど、母方の叔母ちゃんの家に住んでるのなら、久実さんは蜘蛛姫ではないことになる」
「そう思うなら、さっさと裏とってこい」
「手は打ってあるよ」
 僕は首をすくめてPCを終了させた。直感は久実さんが北野の母屋にいると告げていたけど、その理由も根拠もまだ希薄だった。
 クモはまだ、僕らに何かを伝えようとしているような気がしていた。


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