プロローグ :第一章 孵化 :第二章 脱皮 :第三章 蛹化 :第四章 羽化 :エピローグ :

第二章 脱皮 (4)

前へ 次へ

2007/07/30 Mon.


 翌日、僕は金髪の警告を無視して加茂川家に舞い戻った。風が強い日で、海は時化模様だった。これでは出漁は無理だろう。
 生け垣の外を逡巡しているふりをして歩いていると、うまい具合にリビングの奥さんがみつけてくれた。
「こないだの明峰さんね。どうなさったの」
「いや……遙さんがおられるかな、とか……あ、いいです、お留守みたいだし」
 奥さんはリビングから前庭に転がるようにおりてきた。
「どうぞ、おあがりになって待ってちょうだい!」
 一応、一度は辞退してから前と同じ場所に腰をおろさせていただいた。隣の台所からは、奥さんがあわてて冷蔵庫を開け閉めしながら電話をかけている音が聞こえた。
 遙さんを呼び出しているのなら徒労だろう。彼女が五分ほど前に家を出て、金髪と一緒にJRの駅に向かったことは確認済みだ。念のため、キアが追尾している。
 奥さんは僕に氷を浮かべたお茶を勧めながら、一所懸命話題をさがしているようすだった。
「そうそう、このご近所からも五、六年前に坂大理学部にはいった人がいたんですって。大学生の頃は夏休みになると、そこの臨海センターですか、あそこにボランティアに来てくれていたそうなの。大学院に進学してからは忙しくて里帰りもされてないらしいけど、去年は民家に住む節足動物の調査とかで市内をまわってらしたんですって」
 お茶を噴きそうになってあわてて飲み込んだら、鼻に逆流して涙がにじんだ。汗を拭くふりをしてハンカチをあて、話題を変えようと考えをめぐらせた。
「実は、昨日もこの近くまでは来てたんですけど、西側からまわりこもうとしたら迷っちゃったみたいで」
「そりゃあ、わかりにくかったでしょう。橋をかけたり埋め立てしたりで、まっすぐ浜沿いには歩けませんもの」
「困っていたら大きなお家の前に出ちゃって、びっくりして……」
「北野明実んとこや」
 忠がリビングをつっきって飛び込んできた。
「よっ」
「おっす。こないだ言うたやろ。クモの嫌いな子がおるって。名前思い出したわ」
「女の子だったのかぁ」
「え、俺、言わんかった?」
「忠、お行儀!」
「僕はかまいませんよ」
「明実はなあ、姉ちゃんが三人もおるねんで。俺なんかひとりだけでも怖くてしゃあないのに、ひどいやろ」
「ちょっと、忠」
「じゃあ、昨日お見かけしたのはそのうちのお二人ですか」
 奥さんが忠のお尻をはたいた。
「よそのお家のことを勝手にべらべらしゃべるんじゃないの!それに、北野さんとこのお嬢さんは明実さんもいれて三人でしょ」
 忠は口をとがらせて反論した。
「嘘やないもん。明実に聞いてんもん。姉ちゃんらの名前はトモミスミクミ〜やて」
「忠!」
「兄ちゃん、行こう!」
 庭にすべりおりた少年に手をひっぱられて、僕は苦笑しながら歩き出した。
「おじゃましましたあ」
「あ、もうちょっと待ってらして……」
 奥さんの言葉を最後までは聞けなかった。

 生け垣を越えてから、忠がぶっきらぼうにつぶやいた。
「なんで明実の名前をすぐに思い出さへんかったか、わかったわ。前にこの話した時も、オカンに口の端ひねられてんで」
「よその人の噂話をするなってことだろ」
「オカンこそ噂話は大好きや。どこそこの子がどこの高校行ったとか、めっちゃ知っとうもん。けど、明実ん家の姉ちゃんらのことだけは、近所のおばさんとも話さへんねん。変なの」
「忠んとこは、いつこっちへ越してきたんだい?」
「小学校にあがる時」
「三年前の春か」
 いつのまにか最初に出会った防風林まで歩いてきていた。せっかくなので、枯れたマツの木につくノコギリカミキリの幼虫の痕跡をひとつふたつみつけて教えてやった。
「前にハエトリグモをみつけて、学校で友達にみせてやってん。そしたら女どもが悲鳴あげて逃げ出して。先生には叱られるし」
「僕もやったことあるよ。教室でカメムシみつけて外へ逃がしてやったら、その日から女子が口をきいてくれなくなった」
 僕らは顔を見合わせて笑った。そのようすを、林の外からキアが見守っていた。
「臨海研修センターに行けば、理科の好きなボランティアさんが何人もいるよ。そのうち学校からも行くことになるだろうけど」
「宿泊体験か?浜小からは行かへんよ」
「え……?」
「僕らが入学する前の年までは使うてたそうやけど、ここんとこずっとよその地区で林間学校やで。近すぎておもろないからとちゃうか」
「ふうん……」

 林でもうしばらくほとぼりを冷ます、という忠と別れて、キアと僕は一旦国道まで歩いてもどった。
「遙さん達は?」
「駅の上りホームに行くとこまで見送った」
「よくみつからなかったな」
「なんで隠れなあかん。この辺からは駅に通じる一本道や。横を歩いてても、文句は言えん」
 黙って並んで歩く三人を想像して、僕はちょっとだけ遙さんに同情した。
「けっこう人通りも多かったしな。おかげで、この前感じたことがもっとはっきりしてきた」
 国道を行き来する自動車の騒音で、僕らの声は他の人には聞こえていなかったと思う。それでも後ろを振り返って、あたりに誰もいないことを確かめた。
「この辺に住んでる人たちのこと?」
「お前も思うやろ」
「加茂川さんとこが多数派じゃないってことくらいはね。奥さんは長いこと土地を離れてたし、忠は校区の外の子とのほうがつきあいが深い。遙さんは……つきあいがあるから、その分、土地の人に心情が近い。他の人たちは、僕がはいりこんできていることをみんな知っていて、敢えて近寄ってこない。金髪のにいちゃんはストレートだったけどね。あれは……敵意か?」
「警戒や」
 あっさりきっぱりと、キアは言い切った。
「大多数は、踏み込まれるのをいやがってるくせに、文句も言いに来よらん。怖がって遠巻きに見張っとうだけや。つっかかってくるだけ、金髪のほうがましやな」
「面と向かって汚物扱いされるのもいやなもんだぜ」
 ずっと昔からの閉鎖的な土地柄だというなら、子供時代をここで過ごした加茂川の奥さんももっと状況を理解しているはずだろう。
 遙さんが高一としても、奥さんが嫁いだのは十六年以上前のことになるが。
「十六年前から三年前の間に、この辺で起きた大きなできごとといえば……埋め立て、地震、歩道橋事故、か」
 キアはちらりと僕の顔を見たが、何も言わなかった。
「歩道橋はもっとずっと東だったよな。帰ったらもう一度調べ直そう」
「その、セメント工場の裏の家いうんは?」
「あそこはまた特別みたいだ。ひょっとしたら、震源地はあそこかもしれない。ちょっと手伝ってくれるか」

 昨日上ってきた狭い道を、今日は国道から折れて逆向きに下っていく。北野家へ続く一本道。僕は説明を終えて、歩みを速めた。キアは逆に、速度を落として途中で道をはずれ、草むらにまぎれて消えた。
 屋敷の正門を過ぎ、前庭が見えるあたりで立ち止まり、何かを探すようにうつむいて首をまわした。今日は前庭に人はいなかった。縁側に続く座敷は襖を開け放たれ、がらんとした雰囲気のなかで初老の男性二人が碁を打っていた。
 藍染の浴衣を着たでっぷりしたほうは、大きな扇子をこめかみにあてて鷹揚に笑っていた。ガードマンらしき制服を着た貧相なほうは、ハンドタオルで額の汗を拭きながらぶつぶつと何事かつぶやいていた。どちらも対局に夢中で、僕がうろうろしても気にも留めなかった。
 今日はハズレかな、と思い始めた頃に、裏の離れから昨日の幼児がとことこと歩いてきた。幼児のあとを追うように、これまた昨日見かけた若い女性が姿を見せた。僕が下を向いてゆっくり歩いていると、女性のほうで声をかけてくれた。
「どうかされましたかー?」
 眠気を誘いそうなほど、のんびりと間延びした口ぶりだった。
「昨日ここを通った時に、落とし物しちゃったみたいで」
 自分でもみえすいた言い訳だと思ったが、女性は本気で心配そうな顔になった。
「大事な物ですか?みつからないんですか?」
「値段の高いもんじゃないです。他の人にはなんの値打ちもないし。わざわざ拾う人もいないかなって思ってたんだけど」
「でも、大事な物なんですね」
「普通のキーホルダーです。白い塩化ビニルの、名札みたいな感じの」
 女性はわざわざ道路まで出てきて、僕とならんで熱心に捜索を始めた。人の良さそうな横顔は、どことなく座敷の浴衣姿の男性に似ていた。おちびさんが保護者のまねをして、小走りに道ばたをまわってきた。
「危ないから、ママと手をつないでおいで」
「末の弟です」
「……失礼しました」
「母が亡くなってから、私が親みたいなものです」
「他に手伝ってくださる方は?お祖母ちゃんとか、お近くにおられないんですか?」
「東野の母の実家にはもう叔母しかおりませんし、父方の祖母は星が丘の特養で……」
「お姉ちゃん!お鍋が噴いてるよ!」
 離れからもうひとり、顔を出したのは昨日正門前で出会った高校生だ。
「あらあら。大変」
 ちっとも大変そうじゃないおっとりした雰囲気のまま、女性は離れに戻っていった。入りしなに、
「スミちゃん、かわりに捜し物手伝ってあげてよ」
 と、声をかけてくれた。
「なんでよ」
 スミと呼ばれた女の子は不満そうにこちらを見た。僕を誘拐犯か押し売りかと疑っているようで、その場から大声で呼びかけた。
「ヒデちゃん!帰っといで」
 男の子はひくっと泣きそうな顔になってあとじさった。そのまま仰向けにこけそうになったので、あわてて支えてやろうとしたが、僕の手が触れたことがかえって気に入らなかったらしい。今度は前向きにつんのめりながら離れに向かって走り出した。
「ねーたん!」
 僕もためらいがちにあとについて前庭に入りこんだ。
 浴衣の男が、うるさそうにそのようすを見てから離れに向かって怒鳴った。
「トモミ!スミ!ちゃんとヒデカズを見んかい」
「まあまあ、そないに大声ださいでも」
 制服の男のほうがにこにこしながら手を振った。
 そばに寄ってみて気がついた。ガードマンじゃない。警察官だ。
 スミさんがますます不満げな顔でヒデカズくんを迎えに来た。今度は観念したヒデくんが抱き上げられるのを確かめてから、浴衣の男は僕に視線をうつした。
「子供が騒がしいことで、すみませんのお」
「僕のほうこそ、ご家族にお手間をとらせてしまいました」
 座敷の二人にお辞儀した。警察官が、薄くなった頭をなでながら笑顔を向けた。
「今どき珍しい、お行儀のええ学生さんやね。うちの孫にも見習わせたいわ」
「ほんまに。今の子供は親の言うことを聞きよらん。誰に食わしてもろとうか、わかっとんのか」
 頭を低くしたまま庭を出ようとした。その時、姉弟の父親がぱちりと一手打ったので、ついつい盤面に目が行ってしまった。
「……えっ……」
 じろり、とにらまれて冷や汗が出た。まずい。碁なんて知らないふりをしていればよかった。
「兄さん、碁は打ちはるんかな」
「えーと、ちょっとだけ教えてもらったことはあるけど、よくわからなかったんです。強い人が打ってるのなんて初めて見るんで、なんかすごそうだな、と思って」
 苦しい言い訳に、警察官がまたも、にこにこと返事をしてくれた。
「わしも下手の横好きやよ。ちっとも上達せえへんのに、北野さんはあきれもせんと相手してくれはる……」
「お忙しい人やから、なかなかお時間がとれませんけどな」
 浴衣に言われて、警察官は自分が制服姿なのにはたと気がついたようだった。
「ええっと、すいません、長居してもうたですな。今日はもうこの辺で」
「いえ、お引き留めして申し訳ない」
 二人はざざっと碁石を片づけてしまった。
 警察官は僕にも一礼して、母屋の隅から自転車を引っ張り出してまたがり、そそくさと立ち去った。
 入れ違いに、母屋の陰からキアが姿を現した。ちょうど自転車の停めてあったあたりだ。つま先で無造作に土をほじくりかえしていたが、何かを道路側に蹴飛ばした。それからこちらに気がついたような顔をして、手を振りまわした。
「みつけたで」
「すみません、落とし物、あったみたいです」
 胡散臭そうな顔でこちらを見ているスミさんと浴衣にぺこぺこ頭をさげて退散した。
 キアがこれ見よがしに白いキーホルダーを投げてよこした。それからなにげなく靴紐をなおすようなふりをして、さっき蹴飛ばした物体を手の中に拾い上げた。
 北野の家からは見えないところまで来てから、キアは「それ」を僕の手に落とし込んだ。
「五匹目」
「実物を確かめたのは、二匹目やな」
 既に見慣れた赤い繊維をひっぱると、カラカラに干からびた脚がぽろりともげた。
「運搬車に乗り損なったやつか」
「こんなふうに土に埋まって乾いてもうたら、普通は見分けようがないな」
 どちらからともなく振り返った。
 北野家の建物はどれも平屋で、今どき珍しい立派な瓦屋根を葺いていた。さぞかし天井裏も広いことだろう。
「天井裏の明かり取りから落としてたのかな。今まで何匹つかまえたのかわからないけど、気の長い賭けだね。みつけてあげるまでに一年以上かかってしまった」
「賭け言うたら、さっきのあれも、賭け碁やな」
「えっ」
「気ぃつかんかったか?こまごま紙に数字書きよったで。勝負も八百長やったんやろ」
「盤面、見たの?」
「見たとこで俺にわかるか。あいつらと、お前の顔色や」
「でも、お巡りさんだよ」
「せやから、余計臭い」
 キアの警察嫌いは今に始まったことではないが、今日ばかりは思い過ごしだと笑える状況ではなかった。
「賄賂か」
 人の良さそうな警察官だった。地元の人とのつきあいも大切にするタイプだろう。それが度を超したのか。
「贈賄だとしたら、何のために?」
「あの座敷、人もおらんのに無茶苦茶タバコ臭かった。別のにおいもしたけど、ようわからん」
「女性と子供は離れに住んでるみたいだから、害はないだろ」
 もちろん、トモミさん達は受動喫煙を避けるために離れにいるわけじゃないだろう。母屋にはおそらく、住居とは別の用途があるか、誰か別の者が棲んでいるのだ。続きの座敷を見た時、まだ何か違和感があったのだが、今すぐに確かめに戻るわけにはいかなかった。


前へ 次へ
第二章 脱皮 (1) に戻る