第二章 脱皮 (3)
2007/07/29 Sun.
人工島との連絡橋を挟んで西側の地区には、子供の影すら見あたらなかった。
静まりかえった古い住宅地の隅で、一軒だけもうもうと煙をあげている家をみつけた。五十がらみのおばさんがひとり、べろべろと長いアナゴに串を打ち、炭火であぶりながら頃合いをみてひっくりかえし、タレに浸け、またあぶり……という作業を延々とくりかえしていた。
開け放した調理場の戸口からは、なんとなく不自然にきれいな砂浜が見える。四阿やベンチ、よくわからないモニュメントも据えられているが、人通りはない。
「寂しい公園ですね」
おばさんは一時も手を休めずに応えた。
「砂浜を埋め立てて工場建てる言うといて、そこにまたわざわざ他所から砂を運んで公園にして。あほな話ですやろ」
「景観を元に戻す努力をされたんでしょ」
「そんなに簡単にいきますかいな。前に防波堤なんか作るから、砂は底からどんどんさらわれていきよります。浜はすかすか。去年の春、子供がはまって死にそうになってから、地のもんは誰も近寄りません」
忠の話に出てきた、「ムシの嫌いなおとなしい小学生」はこのへんには住んでいないのだろうか。
アナゴ屋をあとにして浜に向かった。
アスファルトの道路から石畳の遊歩道、人工砂浜がぴっちりと連なり、オカヒジキやコウボウシバさえはえていなかった。緑が少ないせいで違和感が強いのかもしれない。波打ち際に打ち上げられたアカクラゲが干からびかけて砂にはりついていた。
背中に気配を感じて振り向いた。視界の隅にちらりと何かが動いてすぐに消えた。浜に背を向けた僕の右手……連絡橋の手前に立ちふさがる、セメント工場のあたりだ。
近づいてみると、工場と橋の間にテニスコートほどの広さの砂浜が残っていた。そのはじっこに淡い紫色の花畑をみつけてびっくりした。
ハマゴウだ。本州の海岸で見かけたのは初めてだった。工場の排水路や橋桁が入り組んでいるせいで外からは見えにくいが、ここが最後に残った自然の浜なんだろう。
浜からは細い未舗装道が、すすき野原をぬけて北へ伸びている。奥には民家も何軒かあるようだ。さらに近寄ってみると、特徴のあるかわいらしい花の下には、砂を縛るようにはびこった根から茎が背のびして立ち上がっていた。
根元の隙間を小さなムシが動いてすぐに隠れた。モリチャバネかもしれない。砂に膝をついてのぞきこんでいると、ふいに後ろから肩をつかまれた。
胼胝の盛り上がったごつい手を見ただけで、誰だかわかった。単独行動の日には一番会いたくなかった相手だ。態度を決めかねている間に、金髪のほうが僕の正面にまわってきた。
「ここで何しとう」
近づけられた顔面からカレーうどんの匂いがした。思わず後ずさったことで余計に引き寄せられた。
「ここで何しとんじゃ」
「花を見ていただけだよ」
正直に説明しても開放してくれそうになかった。
「あっちの家に行く途中でね」
肩が動かせないのであごでしゃくってみせた。それだけのことなのに、男の反応は激しかった。最初は驚きに目を見開き、それから太い眉を寄せて不愉快きわまりない、という顔になった。思いきり僕を侮蔑するように見おろして、喉の奥でうなるような声をあげた。
「だぼくれが」
僕の肩を離すと、汚い物でも触ったあとのように両手をはたきあわせた。
「二度と東には来んなよ。腐れタコ」
なんでこの状況で罵倒されなければならないのか、わけがわからなかったが、わかっていないことを悟られないように黙ってじっとしていた。
男はもう一度悪態をついて、橋桁のつきでた浅瀬を無造作にざぶざぶと渡って立ち去った。その姿が消えてから、僕はもう一度、さっき口からでまかせで指し示した家を見た。
「ここまで言われちゃあ、見に行かないわけにいかないですよねえ」
浜から細い地道をのぼっていってみると、数軒かたまった民家と思ったのは同じ敷地の中の母屋と離れと土蔵らしいとわかった。ちゃんとした塀や囲いがないので敷地の境界がはっきりしないが、全体としての広さは忠の家と同じくらいだ。家屋は戦前の雰囲気を色濃く残した和風建築だった。母屋の浜側には続きの座敷にまたがる長い縁側があり、広い前庭に面していた。
前庭では、三歳か四歳くらいの男の子が三輪車をこいで遊んでいた。若い女の人が相手をしていたが、親子とはちょっと雰囲気が違う気がした。
道は庭に沿って角をまわりこみ、正面玄関の前を通っていた。木造で引き戸のついた立派な構えだ。英和辞典並みにでかい表札に「北野」と堂々とした墨色の字が彫り込んであった。
もう少し観察を続けたものかどうか、ちょっと迷っているところへ、僕の進行方向から人影が小走りに近づいてきた。
ジャンパースカートスタイルの制服を着た女子高校生だ。同じ年頃でも遙さんとはずいぶん印象が違う。スポーツで鍛えたらしいぴちっと太めの脚で、坂道を蹴飛ばすように降りてくる。玄関前で立ち止まると、短めのおかっぱ頭を振って、僕に声をかけてきた。
「誰にご用ですか」
「すみません。道をまちがえてきちゃったみたいです」
頭をかいてちょっと笑ってみせたが、女の子はにこりともしなかった。さりとていやそうな顔をされたわけでもなかったが、ただもう「関係ないのね」という感じになって、さっさと玄関を開けて入っていってしまった。
僕は仕方なく、道に迷ったよそ者らしく、女の子の来た道を逆にたどって国道を目指した。
第二章 脱皮 (1) に戻る