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第一章 孵化 (5)

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2007/07/20 Fri.


 旧機種の回転式乾燥機が、カタコン、カタコンと単調な音を立てながら湿っぽい熱気を吐きだしていた。コインランドリーの客は、僕らの他にはスポーツ新聞を読みふけっている初老の男性と、ヘッドフォンをつけてスイングしている鳶色の肌の若い女性だけだった。
 タバコの焦げ跡のついたテーブルに、僕は二万五千分の一地勢図を広げてにらめっこしていた。
 赤のマーカーで書き入れた点が四つ。ひとつめは寿荘。ふたつめは駅前の喫茶店。三つめは農家で、四つめは県営住宅。
 周囲の環境もばらばらだ。山手の旧住宅街、海岸寄りの商店街、平野部の農地にもとは窪地だった新興住宅地。
 キアが洗濯機の操作をすませ、紙カップをふたつ持って戻ってきた。
「煮詰まっとうな」
 クリーム入りアイスコーヒーを受けとって口に運んだ。
「場所を選んだわけじゃなくて、たまたまクモが行き着いたんだろうな」
「時期もばらばらやし」
 もうひとつのカップは夏でもホット。いつものブラックだ。
「脱皮してしまえば糸はとれちゃうし。その時の都合で放す場所を変えてたのかな。それにしても……」
 農家は市の北西のはずれ、喫茶店は南東の海のそば。そのあいだの二地点をかすめるように、なめらかなカーブで結んで指でなぞってみた。
 キアがまばたきをして僕の指を見つめた。
「それ、国道やん」
 言われて初めて気がついた。浜側の国道は確かに市の西部で大きく北にまがっているので、四つの地点はどれも、国道から百メートルくらいまでの範囲にあった。
「クモを車から放り投げたか?まさか……」
 もう一度、地図上の赤い点の周囲にじっくりと目をこらした。クモが住む地形や植生ではなく、人間の往来で考えてみるんだ。普段MTBで走りまわっている土地だ。思い出せる手がかりはないか?
 僕は店の隅の自販機コーナーに足を運び、ワイヤーラックから「明智タウンマップ」と印刷された広報誌を取った。
 開け放しのドアからこぎれいな女の人がつかつかと入ってきて、僕とすれちがった。草木染めのチュニックドレスを着てチワワを抱いている。乾燥機から犬用の服とトイレマットをひっぱりだして紙袋に放り込むと、周囲には目もくれずに出ていった。
 テーブルに戻ってタウンマップに赤い点を書き写す間、乾燥機の音と洗濯機の音だけがしていた。赤ペンを置いて残りのコーヒーを飲み干し、青のラインマーカーに持ち替えた。
 喫茶店の並び。
「東郵便局」
 県営住宅の裏。
「瀬戸日日新聞の配達所」
 農家の畑の横。
「農協直営の青果宅配センター」
 そして、寿荘の前、レンタルCD店の隣にできたのが
「ピザプラッツ明智南支店」
 僕がマークする前にキアが言い当てた。四ヶ所の共通点は、二輪車や軽トラが周辺を走りまわっては戻ってくる場所、ということだ。
「ピザ配達してクモ回収して帰ったか」
「ピザプラの開店は今年の五月だった。勇が誕生パーティーに間に合わないってわめいてたな」
 チイちゃんが堂島さん宅にたどりついたのは、六月頃だった。
「クモ達が放されたのは、この四ヶ所の営業エリアの重なっている地域のどこか、だ」
「出発点が一ヶ所やと言い切れるか?」
「考え方だよ」
 僕は紙カップをノリシロにそって几帳面に折り畳んだ。
「そもそも、クモを放した目的は何なのか。冗談や思いつきで続けられることじゃない。発見されなければクモはたどりついた場所で勝手に暮らしていくだけだ。誰かに発見してもらうのが目的なら、それはつまり、何かのメッセージだ。それなら場所を変えながらクモを放すことに何の意味がある?相手は僕らを困らせたいんじゃない。精一杯のヒントをくれているはずだよ」
「わかりにくいメッセージやな」
「電話も紙と鉛筆も手にはいらなかったようだね」
「ゴキやクモくらいしか利用できんような状況で誰かが発信をしてる?一年以上も?何のために……」
「……私をみつけて、ここから出してください」
 キアは手にした紙コップをくしゃり、と握りつぶした。
「マンガやな」
「蜘蛛類学会の人も迷っていたんだよ。始めは怒っただろうけど、やっぱり不思議に思って調べたり考えたりしたんじゃないかな。ひょっとして、クモが配達車で運ばれた可能性にも気がついていたのかも。新しいポイントをみつけた僕らに、仮説を検証して欲しかったのかも」
「一回チャットしただけの相手の心配までせんでええ。あいつが、知っとうこと全部しゃべったとは思えん。俺らをかついで走りまわらせることが目的やったかもしれん」
「僕らが必死になって頭をかかえてるのを見て、笑ってるやつがいるって?いたずらの成果は相手の反応を観察して楽しむものさ。この状況じゃ考えにくいな」
「ただの腹いせ」
「クモをその場でたたきつぶすほうが効果的だろうね」
 僕は地図にあごを載せて、犬を抱いた女の人が使っていた乾燥機を見上げた。
「不特定の相手に対して持続する悪意なんて、そんなに多いもんじゃない、と思う。たいていの人は自分の世界で暮らすのに精一杯で、他の人のことをあんまり知ろうとしていないだけなんだよ」
「悪意がなけりゃ、人に迷惑かけんですむわけやない」
「胴に糸を巻かれたクモは死んじゃったしね。その後、結ぶところを脚に変えたのは、無駄に命を奪いたくなかったからだろ」
「運搬車をリサイクルできるかもってことやろ」
「冷たいな」
「お人好しが」
「まあ、たいていの人は途中で面倒くさくなって、ここまで詮索しないんだろうけど」
「保身や。世間並みのやつは藪つついてまで蛇を出しとうない」
「蛇は助けが欲しくて出てきたのかもしれない」
 キアの目が笑った。ちょっと意外な気がした。
「ラスの好奇心とお節介は筋金入りや」
「肩すかしの骨折り損かもしれないけど、ひっかかるんだよ。なんか、みつけちゃった責任を感じてしまう、ってか。もうちょっとつきあってくれる?」
「無理すんなよ」
「日本中の蛇やクモを助けようなんて思ってないさ」
 キアは肩をすくめた。同意だと勝手に解釈させてもらった。
「次はこれだね」
 ポケットから、このあいだ切り取った糸くずを取り出した。今は透明なカードケースに挟んである。
「クモと同じだと考えれば、この糸を手に入れられる、この糸くらいしか利用できない環境に相手はいる、ということさ」
「素材の他に何かわかったか」
 実を言うと、こちらも手詰まり状態だった。
「衣服の繊維にしては、ごつすぎるんだよね。たぶん、ロープとかネットとかの一部だと思うんだけど。スポーツ用かなあ。ナイロン製品なんていろいろありすぎてわけわかんないよ」
「ちょっと珍しい色やけど」
 キアは僕の手から四角く畳んだ紙カップを取って、自分のと一緒にくずかごに放り込んだ。
「お前の仮説が正しいなら、案外、使われてるとこの限られた製品かもな。まずは、ムシ関係から調べてみるさ」


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