第一章 孵化 (4)
2007/07/18 Wed.
「ラス。四匹目や」
携帯を握りしめた手が震えた。学校の正門前で立ちつくしている僕の横を他の生徒達がふざけあいながら下校していった。
「五軒あたったなかで、一軒だけひきがあった」
キアの勤める清掃会社がいくつかの害虫駆除業者と業務提携していると聞いて、だめもとで調べてもらったのだ。
「ずっと前につかまえた人がおるらしい」
「その人に会えるか?」
「この春、退職した」
がっくりきたけれど、その分ちょっとだけ冷静になれた。
「そこの会社に行って、もとの同僚さんに詳しい話を聞いてみたいな。授業は明日で終わりだから、昼から動ける」
「社長の奥さんに頼んで、わたりをつけてみる。けど」
「けど?」
「一応、研究員て肩書きやったらしい。例のチャット野郎がつながってたら、うっとい」
「からめ手から攻めるか。ここ出るまでに考えとく」
「四時過ぎに、かけなおす」
「なあ、キア。いいかげん携帯持ってくれない?」
「必要ない。管理人室のピンク電で用は足りる」
言い返す前に切られてしまった。連絡待つほうの身にもなれ。
2007/07/19 Thu.
放課後、僕は一旦帰宅してからMTBで出かけた。市の東部、高速道路の高架下にある「都島消毒株式会社」の本社ビルに到着した時には、三時を少しまわっていた。
本社といっても軽量鉄骨造りの二階建で、築二十年はたとうかという年代物だ。よく震災をもちこたえたものだ。
フェンスの前の看板の下で待つこと五分、僕のMTBの隣に、キアはスーパーカブ50を乗りつけた。「東播クリーンサービス」のイニシアル・ロゴである「T.C.S.」とマークのついたヘルメットを脱ぎ、額にはりついた髪をかきあげた。
「徒歩じゃないって珍しいな」
「勤務中やから」
鉄製の門扉をくぐると、狭い前庭にレジ袋くらいの大きさの茶色い塊が放り出されていた。
「スズメバチの巣だ」
漉きたての和紙を何枚も重ねたように薄く、刷毛ではいたような繊細な模様のついた外壁がぱっくりと割れていた。層状構造の内部には、空っぽの幼虫部屋や、白いふたのされたサナギ部屋がぎっちりと並んでいた。こぼれおちた幼虫や卵の間に、黄色と黒のあざやかな腹をした巨大な成虫が転々とひっくりかえっていた。さながら落城の近衛騎士団だ。
スズメバチの怖さは承知している。駆除されるのは仕方ないとわかっている。それでもこの造巣の精妙なこと、成虫の機能美には恐れ入る。他に用がなければ、何時間でも観察していたい。
「ラス。よだれ」
「えっ」
「たれてへんけど」
「……おい」
本館らしき建物から出てきた白衣と眼鏡の男の人が、門の外に停めたMTBを眺めていた。振り向いたところで僕と視線が合った。
「ゲイリーフィッシャーのマウンテンバイクや。マーリンか?」
「タサハラです」
「ガキにはもったいないな」
小鼻をふくらませた僕の横で、キアがぺこりと頭をさげた。
「東クリの葺合です。副社長の代理で来ました」
「経理から聞いてるよ。そっちのボクが、ゴキブリに興味があるっていうお友達やね」
眼鏡のフレームをつまんで調整してから、僕の刈りあげ頭にひょいと手を伸ばしてなでようとした。思わずのけぞって難を逃れた。
「烏丸です。興味があるのは都市近郊の野生動物の生存戦略です」
「衛生害虫が野生動物かね。岡本高次(おかもとたかつぐ)や。自称二十五歳。よろしく」
岡本さんは空振りした手をひっこめて所在無げに自分のぼさぼさ頭をかいた。
「飼育室はあっちのプレハブやけど」
「俺は伝票もってくから、お前さきに見せてもらえ」
事務所に向かうキアと別れて、僕は岡本さんと一緒にプレハブにはいった。
「表のスズメバチも、ここの人が駆除したんですか?」
「薬が残ってるから触らんとけよ。どっちかっちゅうと防除が多いけど、ハチもシロアリもやってるよ」
室内には壁一面を占めるラックが設置され、大型のプラケースが整然と並べられていた。
「プラケースだと逃げ出しませんか?」
「壁面の上のほうに潤滑剤を塗ってある」
ケースの中には固形飼料と水を入れたシャーレが一個ずつ置かれ、隠れ家用に蛇腹に折り畳んでつめこまれたボール紙の内外を、おなじみの昆虫が走りまわっていた。
「チャバネですね」
岡本さんがつまらなさそうに鼻の頭をかいた。
「普段の見学さんなら、きゃーとかぎゃーとか騒いでくれるとこよ。さすがに冷静やな。こっちの三つはクロ。研究用に増やし始めてんけど、温度管理が案外難しいてね」
岡本さんはゴキブリが不完全変態であることとか、チャバネが低温に弱いこととか、クロは気温が下がると成長を止めることとか、わりと基本的な知識をなめらかに語ってくれた。
ここの飼育室は目下のところ、研究用というより顧客の見学コースとして機能しているのだろう。これもコースの一環という調子で、黒っぽい染みだらけのボール紙を見せてくれた。
「ローチスポットって言ぅてね。チャバネが群れたところには特有の嗅いがつくんやね」
「それって捕食者への誘因効果ありますかね」
想定外の質問だったらしく、岡本さんの流ちょうな舌が止まった。
「素人考えなんですけど。ゴキブリを食べる動物を集めて繁殖させれば、薬剤より安全に駆除ができるんじゃないかって」
「ゴキブリの天敵ねえ。ヤモリとか、ネコとか、カエルとか?」
「飼いやすさや捕獲の効率を考えたら、アシダカグモなんかいいと思うんですけどね」
返事にとまどっている年長者を前に、思いきってかましてみることにした。
「鵜飼いの鵜にするみたいに、クモに糸つけて飼っておくんですよ。ローチスポットのそばに連れていって、夜中に待ち伏せさせて……」
岡本さんが吹き出した。
「ユニークな発想やと言いたいとこやが、似たようなことを思いついたやつは今までにもいたよ。実際、糸を結んだアシダカをみつけた先輩もいたそうやし」
キアもいつのまにかプレハブに来ていた。ラックの隅に積み上げられたタマネギやジャガイモ、かつお粉、雑穀なんかを見比べながら、聞き耳を立てていた。
「俺に話した先輩も笑ってたけどな。そのアイディアの最大の難点は……ゴキブリ嫌いな客はたいてい、でかいクモも嫌いやってこと」
岡本さんは僕の顔の前でわしゃわしゃと片手を握ったり開いたりしてみせた。
「ゴキより先にクモを退治してくれって客もけっこうおるよ」
「益虫なのに浮かばれませんね。ゴキブリは仕方ないかもしれないけど、クモってなんでそんなに嫌われるんでしょうね」
「脚が多すぎる。目が多すぎる。汚い糸は吐く。猛毒を持つっちゅう誤解。頭と腹だけのプロポーションも不気味。ヒトとは違いすぎてようわからんからやろね」
「それだけですか。たとえば母親が気味悪がるから、子供もまねし始めるだけじゃないんですか」
「どっちかいうとゴキよりクモにご執心かな」
「生き物を理不尽に嫌うのが納得いかないだけです」
岡本さんはなぐさめるように僕の頭をなでた。どうしても子供扱いしたいらしい。年齢詐称はともかく、優しいお父さんになる素質はある人なんだろう。
「クモを呼び寄せているのはゴキを増やしている人間や。アシダカグモはゴキに惹かれて南方から日本にはいりこんだ種らしいしね」
キアがこちらに目配せした。潮時だ。
「さっきの話の……鵜飼いの鵜にされてたっていうクモ、どうなったんですか」
「又聞きやけどね。先輩がみつけた時には死んでたそうや。頭と胴の間に糸をかけられてたんで、脱皮に失敗したらしい。一年以上前の話やけど」
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