第一章 孵化 (3)
2007/07/16 Mon.
「海の日」がちょうどキアの休日と重なった。山手のラーメン屋で落ち合い、一緒に昼を食べた。
「二代目チイちゃん、ちょっとは元気になったかい?」
「名前なんかつけたら、情が移ってめんどいぞ」
口ぶりはきついけど、引き受けたことはちゃんとしてくれている。
「芋虫は喰った。コオロギには逃げられた」
MTBはラーメン屋の駐輪スペースに置かせてもらって、二人ですぐ裏の里山に登った。今日は以前からあたりをつけていた甲虫類の餌場調査をする予定だった。
まあ、気分は半分ハイキングだ。舗装されていない道を歩くだけでも足が喜んでいる。アリの巣穴だのムシ瘤だの、小さな発見をするたびに立ち止まってしまうので、なかなか目的地にはたどりつかない。それも別にかまわなかった。
アラカシの根元にジグモの巣がかたまっているのをみつけた。餌をとるところが見たくて、僕は地面に這いつくばり、何十分か息を殺して観察をしていた。
キアはすぐそばのシイの大木に登り、自分の体重を支えられるぎりぎりの太さの枝を見分けてまたがった。鳥の巣がかかっているかもしれないから、むやみに高いところを目指したりはしない。樹皮に背をあずけて気持ちよさそうに目を閉じていた。
「……ラス。気圧がさがってきてへんか?」
「まだ早いだろ」
頭上では雲の切れ目から青空がのぞいていた。首をまわしてみると、西の空はぼってりと薄暗い。
「そうでもないか。ひきあげよう」
すぐに山を下り始めたが、雲の動きのほうが速かった。大粒の雨ががたたきつけるように降り出した時には、僕らはまだラーメン屋にもたどりついていなかった。
ポケットレインコートでしのげる雨量ではなかった。どうせずぶ濡れなので、雨宿りはせずに僕の家を目指した。帰り着いた頃には足元からジーンズの裾まで泥まみれになっていた。
濡れた服をまとめて全自動洗濯機に放り込み、キアには僕の部屋着を貸してやった。ズボンの丈がちょっとだけ足りなくて、腰まわりがちょっとだけ余っていたけれど、上衣はほとんどぴったりだった。
自分の部屋にはいると、ドアのすぐ横にある六十センチ水槽が目をひく。海水の中をごそごそ歩いているコモンヤドカリを見て、キアが
「でかくなった」
とつぶやいた。
沖縄旅行に行った同級生が貝殻と一緒に持ち帰ってしまったのをもらい受けた。三年前の夏休みのことだ。それから四回、貝殻を引っ越している。
海水槽の砂にもぐりこんでいるのは、はす向かいの奥さんがみそ汁の具にするつもりで買ったアサリ。同じ産地で貝毒が出たという報道を見て、食べる気がしなくなったそうだ。
僕は部屋からベランダに出て、三つ並んだ飼育容器に雨がふきこんでいないか確かめた。
和金。
勇の友達が金魚すくいで手に入れたものの、飼うのが面倒くさいと連れてきたのが五年前。今では僕の手のひらくらいにまで育った。同じ水槽の水草の陰に隠れているスジエビは、父さんが釣り大会につきあわされた時の餌の残りだ。
ミシシッピアカミミガメ。
育ちすぎて、ため池に捨てられそうになっていたのをゆずり受けた。
カブトムシ。
養殖もののつがいだ。一週間前には幼稚園児の玩具にされて弱りきっていた。元気になってくれたのはいいが、卵を産むかもしれないと思うとまた複雑だ。
キア。
「金魚の次が俺で、その次がヤドカリやったか」
「魚貝と一緒くたに言うなよ」
部屋に戻ってノートPCをネットにつなぎ、降雨レーダーのサイトにアクセスした。このPCは父さんのお古で、バッテリーがへばってしまっているのでAC電源のあるところでしか使えない。
「思ったより低気圧の足が速かったな。日没まではもつはずだったんだけど」
キアは僕のベッドに寝転がって、枕元の「Newton」誌をめくっていた。そのまま窓の外の鉛色の空に視線をうつす。
「やみそうにないな」
「たまには晩飯喰って帰れよ」
「ん……」
会話がとぎれた。
雨は弱まりそうにない。我が家は南向きの斜面に建っているので、天気が良ければ少しだけ海が見えるのだけど、今は向かいの屋根でさえぼんやりとしたシルエットだ。
僕の家族は以前から、同居人がひとり増えてもかまわないと言ってくれている。それでもキアが簡単に首を縦に振れないわけもわかっている。誰が悪いわけでもなく、仕方ないことだと思ってみても、時々じれったくてやりきれなくなる。
「ま、それは置いといてさ、これ見てくれる?」
昨日、新しくブックマークした大手の掲示板サイトへ飛んだ。キアは起きあがって僕の肩越しにディスプレイをのぞきこんだ。
「八本脚の隣人を愛巣会?はあ?」
「ネーミングはふざけてるけど、まじめなクモ好きのスレッドだよ」
「やっぱり飼いグモやったと思とう?」
「ちょっと尋ねてまわってみても悪かないだろ」
僕の書き込んでおいた質問からのスレッドを追ってみた。
『誰かが飼っていたかもしれないアシダカグモをみつけました。脚に赤褐色のナイロン糸が結んであったんです。何かの調査なのか、飼い主の目印なのか、心当たりのある方、おられませんか?』
『それって動物虐待ですよ』
『学術調査なら、ペイントで十分じゃないの?』
『脱皮したらとれちゃうでしょ。意味ふめ』
『アシダカグモの成体はほとんど移動しないと思われ。全国で流さんでも地域で聞いたほうがよろしくないか』
『飼うならハエトリのほうがかわいいと思うなあ』
『それは好きずきでしょ』
『目的が謎。妄想系の仕業だったりして』
『呪いのクモ女ですか。きゃは』
「……こんなもんかなあ。期待はしてなかったけど」
「やっぱりローカル情報のほうが濃いか」
「もちろん、そっちもあたってみてるよ」
次のブックマークは「日本蜘蛛類学会近畿ブロック」だ。こちらは会員制なので、前回登録したIDでログインし、「質問箱」と表示されたBBSに移動した。
前のサイトと同じような質問を書き込んでおいたのだが、こちらには専門の研究者らしき人から
「学術調査でクモの脚に糸を結ぶことはしない」
「もとの飼い主がいるとしたら、せいぜい同じ市内くらいの狭い地域内だろう」
という旨のていねいな返事がしたためられていた。
「調査でもペットでもないとしたら、何なんだろう」
ブラウザを終了しようとした時、後ろから伸びた手がディスプレイの一点を指さした。BBSを表示したウィンドウの隅に、ちかちか光るGIFアニメをみつけた。ここのサイトにはプライベートチャットの機能があるようだ。
普段なら知らない人からの誘いなど速攻で切り捨てるのだが、今回はちょっとためらった。
思いきってリクエストに応じてみる。
『おたく、糸結んだクモみつけた人?』
「ぶしつけやな。相手する気か?ラス」
「この際、情報は何でも欲しいから」
『そうですけど、先に自己紹介させてもらったほうがいいんじゃないですか』
『名乗るつもりなし。要件だけ。こちらは2ひき。小坂町3の2と坪井町1の3』
窓の外で雷光が走った。十秒ほどおいて雷鳴。
僕は息をのんで相手の書き込みを見つめていた。
「おい」
「わかってる。もう少し」
ふたたび雷光。キアがささやく。
「一、二、三、四、五、六」
雷鳴。めいっぱいの速度でキーボードを叩く。
『その町名は僕がみつけた場所と同じ市内ですね。
こんなに狭い範囲に、3匹も糸を結ばれたクモがいたわけですか』
『こっちがみつけたのは去年と半年前。誰かが続けていたずらしてる』
『どうしていたずらだと?』
『本気の研究をじゃまされた身にもなってみろ』
雷光。
「一、二、三、四」
雷鳴。
『人為的な要素がまじって、調査の信頼性が損なわれた、と?』
『もう切る。犯人をさがす気なら好きにしろ』
『待ってください。あなたは本当のところ、誰が何の目的でしたことだと思っているんですか?』
『しらん』
雷光
「一、二」
雷鳴。
『でも、あなたは研究者でしょう。推論はたてたんじゃないですか』
一瞬の間。
『cqd』
チャットモードが強制終了された。僕は急いでブラウザを閉じ、PCをシャットダウンした。電源ランプがフェードアウトするのを待って、キアがテーブルタップをコンセントから引き抜いた。
雷光と同時に雷鳴。
天井の蛍光灯が消え、二秒ほどで復旧した。僕は連打でつりそうになった指をこすりあわせながら、真っ黒になったディスプレイを見つめていた。
「信用するんか?」
「嘘をつく理由がないよ」
ネットには自分達の素性やクモをみつけた場所については何も書き込まなかった。それでも、チャットの相手は自分がみつけたのと同じことをされたクモだとほぼ確信して、明智市の名前は伏せたまま町名を知らせてきた。
誰かがこの市内で、過去一年ほどの間に、最低三匹のクモの脚に糸を結んだ。
「みつかったのが三匹。実際に細工をされたクモは何匹いたんだろう」
「期間が長いからな」
「ただのいたずらにしては」
「手間をかけ過ぎや。『cqd』って?」
「アルファベット三文字の略号なんていくらでもあるさ。Close Quarters Defense (近接戦闘術)とか、Computational Quantum Dynamics (数値量子ダイナミクス)とか、Customary Quick Despatch……」
「ちゃうやろ」
「知ってるんだ」
Come Quick, Danger というのはあとからのこじつけらしいが。
「SOSより前に使われてた遭難信号だね」
「もったいつけよって。好かんな」
玄関のドアが勢いよく開く音と、けたたましい笑い声が聞こえた。
「びっしょびしょだよぉ、ガレージから走ってきたのにぃ」
「聡、いてるの?雑巾持ってきてちょうだい」
どたどたと階段をあがってくる音がして、勇がひょこっと顔をのぞかせた。
「滋くんだぁ」
「勇、先に雑巾で足拭きなさい。ちょうど良かったわあ、今晩はお好み焼きよ。男の子二人でテーブル動かして、ホットプレート出して。お肉多めに買うといて良かったわ。虫の知らせよね。あ、階段の電球、ひとつ切れてんのよ。滋くん、手とどくでしょ」
僕は階下に向かって声をかけた。
「母さん……まず、雑巾は下駄箱の下の道具入れにもあるでしょ」
「そう?じゃそれはいいから、早く降りてきて荷物運んで。車のトランクにもまだ残ってるんよ。助かるわあ」
キアは無言で天井を仰いだ。やっぱり晩飯を一緒に食べるだけでも簡単なことではないみたいだった。
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